07 八月二日(2)

 愛想のいい老婆に小銭を渡し、店を出るや掛かってきた電話には驚いた。何せ、表立ってユキに関わるのは、昨日で最後だと思っていたからだ。

 自分のいない間に想定外の事態が起きていたことで、波知は慌てて携帯端末を弄る。

「はっちゃん、おばちゃん家行ったの!? 夕方にしてって言ったでしょ!」

『いや、残地物の確認がてら猫に餌でもやろうかと……そもそも波知、あれは』

「餌やっても懐かないからね!? 余計なことしないでよ!」

 戸惑う様子の葉月に言いたいことをぶちまけて通話を終了すれば、じわじわと焦りが沸いてくる。〝会わせるのは〟〝連れに来い〟という単語からして、ユキは千草の元にいる。察するに、早々の寝落ちが原因で目が覚め、来ていた葉月と鉢合わせたのだろう。そして――何らかの条件と引き換えに、千草の情報を聞き出した。本当に、全くもって、想定外だ。

「……寝顔可愛いとか、暢気なこと考えるんじゃなかったぁあ」

 昨夜の失態を嘆きながら、波知は全速力で路地を駆ける。とは言え、明確な所在がわからない。来い、ということからして道行のどこかにはいるのだろうが、いくら狭くても町は町、建物は大量にある。おまけに、千草に通話を試みてみるものの応答がなく、先ほど怒鳴ってしまったせいで葉月にも訊ね辛い。何とも悪循環だ。

 とりあえずは、と周囲を確認しつつ進んでいくと、小さな公園が見えてくる。

 入口には、麦わら帽子を被り、ひよこのポシェットを提げた子供がひとり――

 速度を落として近づいてみれば、先日声を掛けてくれた少女は、柱に隠れる形で敷地内を覗きこんでいる。釣られて同じ方向に視線をやると、まずもって目に飛び込んできたのは、木漏れ日の下でキラキラと光る髪だ。これで、着衣がジャージでなければ、とても幻想的な光景だろう。ベンチ脇に植えられた広葉樹にもたれ掛かっているユキは、色んな意味で景色から浮いている。もちろん、他に人影はない。

「……こんにちは」

 溜息交じりに足を止め、波知はまず、小さな天使に挨拶をする。

 目線を合わせるべくしゃがみ込むと、少女はしばらくのあいだ顔を見つめてから、はっとした様子で同じ言葉を反芻してくれた。

「おめめ、とけてないね。よかったね」

 続いて可愛らしい笑顔を向けられたことで、波知は手に提げていた袋のことを思い出す。

「うん。この間はどうもありがとう。それでこれ、お礼なんだけど……」

 まずは、と、昨日購入したうさぎのマスコットを探り出すと、対面にある目はまんまるになり、すぐにそわそわと視線がさ迷い始める。見ている限りでは嬉しそうなのだが、少女は手を後ろに回してしまい、受け取ってくれる気配がない。

「……しらない人から、ものはもらっちゃいけませんって、ママにいわれてるの」

「んーと……じゃあ、オレの名前ね? 波知って言うの。隣の佐加井町に住んでて、お仕事は……大工、かな」

「なちくん。さかいまち。だいく」

「そうそう。これで知らない人じゃなくなったでしょ。でも、君の名前は教えちゃダメだよ」

 なるほど、な、昨今の教育方針を知ったことで、波知は少しだけ頭をひねる。心優しい少女の親御さんだ。きっと、きちんとした人なのだろう。

「とりあえず……名前が無いのは不便だから、ひよこちゃんって、呼んでいいかな?」

「ひよこちゃん……いいよ!」

 装いの印象だけであだ名を提案すると、少女はぱぁっと表情を明るくして、ポシェットを抱きしめる。

「これは、ひよこちゃんがオレを助けてくれたお礼。ママにはそう伝えて?」

「でも、ここ……ひよこは、あめと、ジュースと、ばんそこ、あげただけだよ?」

 普段の人称は名前なのか、気が緩んだらしい少女――ひよこは〝ここ〟という単語を途中で切って、しょんぼりとする。確かにこれでは、知らない人に連れて行かれそうだ。まだ二回しか会っていない自分ですら、ひよこの素直さは心配になる。

「あの時ね、オレ、すっごく疲れてて悲しかったから……声かけてくれたことが、嬉しかったんだ。だから……」

 ポシェットの紐にキーホルダーのボールチェーンを通しながら、波知は肘窩を見据える。

 提げた袋の中には、ソーダ味と、コーラ味のポリジュースが一本ずつ。もし会うことができたら、ひよこと一緒に飲もうと思い、先ほど駄菓子屋で買ったものだ。

「…………今度はこれをね、あの人と一緒に、飲んであげてくれないかな?」

 心配だと思う反面で、その素直さに頼ろうとする辺りは、打算的――

 縋る気持ちで二本のジュースを差し出し、波知は、申し訳なさと葛藤しながら返答を待つ。

「……あの、おめめのあおいてんしさんは、なちくんのおともだち?」

 対して、再び公園の中を覗き込んだひよこは、首を傾げて愛らしい表現をくれる。

 純粋な彼女の目には、今のユキも、綺麗な人として映っているのだろう。それが、何故か無性に嬉しい。

「……お友達、ではないというか、むしろ嫌われてるというか」

「おともだちじゃないの?」

「うん。でも……心配なんだ。今、きっと悲しんでるんだけど、オレじゃ元気にしてあげられないから……ひよこちゃんに手伝って欲しいなって……」

 どうにも上手く想いを伝えられずにいると、小さな手がジュースに伸びてくる。〝いいよ〟の一言に反応して顔を上げれば、ひよこはにっこりと笑い、麦わら帽子を揺らす。

 その柔らかな表情を見て、託すという判断は、正しいと確信した。

「オレが渡したのは、ナイショね」

 走り去ろうとする背中に小さく助言したあとで、波知は柱にもたれ掛かる。

 葉月と千草から何を聞かされ、この町で、何を知ったのかはわからない。ただ、昔と同じ、まるで感情のない顔が、無気力な青い瞳が、ユキの心情を物語っている。そして自分は、その胸の内の重りを、軽くしてあげることはできない――

 数十分、同じ場所で待っていると、ひよこは手ぶらで駆け戻ってくる。うさぎのマスコットを握り締め、眉尻を下げて首を傾げているあたり、懐柔はできなかったのか。

「てんしさん、ぜんぜんしゃべらなかった」

「…………そっか。ありがとう……ごめんね」

 横に振れる麦わら帽子に苦笑を向けた波知は、額を手で押さえ項垂れる。お礼をしに来たはずの子供に頼った挙句、困らせてしまっては元も子もない。

 家に戻るというひよこを見送ってから更に数分、躊躇した末に腰を上げると、軽い眩暈に襲われる。同じ姿勢で陽光に晒されていたせいなのか、足が、思うように動かない。

 意を決して公園に踏み込み、木陰へと近づくに伴い、心音は跳ね上がる。ユキの手元にはポリジュースの袋と、空の容器――一応、ひよこと一緒に、ジュースは飲んだのだろう。

「こんなとこにいると、熱中症になりますよ」

 気まずさを隠せないまま、波知は俯いた状態の頭に声をかける。だが、ユキは言葉を返してくることもなければ、ぴくりとも反応しない。

 仕方なく人ひとり分の距離を空けて胡坐を掻くと、樹木の隙間から差し込む光が、芝の上で揺れる。日影になっているからなのか、流れ込む風は心地よく、意外と涼しい。

 そんな他愛もない観察で気を紛らわせ、ひたすら無人のブランコを眺めつづけて、時間の感覚がなくなってきた頃。

「…………葉月、って人は、ハチの……おとうさん?」

 やっと届いた質問は、とてつもなく、突拍子がなかった。

「兄ですよ。オレ末っ子で、はっちゃんは一番上だから年離れてるんです」

「…………ハチ、兄ちゃん、いたんだ」

 ぽつぽつと現れ始めた声に苦笑を零し、波知は肩の力を抜く。こうなった以上、何を聞かれたとしても素直に答えを返す、と覚悟して、この場所には腰を据えた。

「……なんで、ジジィと名字一緒なの」

「え、マジですか」

 ただ、飛んでくる問い掛けが思いのほか的外れで、若干戸惑いを覚える。

「おばちゃんが亡くなった年に、養子に入ったんですよ。厳さんは遠い親戚なんですけど跡取りがいなくて、オレの実家は男四人兄弟だから……というか、隣に住んでるのに、なんで今更名字のこととか……」

「…………隣…………?」

 顔を上げてきたユキは、さも意味がわからないといった調子の声を出す。

「…………え? もしかして、気づいてなかった、とか」

 思い至ったことを言葉にしてみれば、横目には、きゅっと下がった唇が写り込む。

 千草と万知子にしか興味がないことは重々承知していたが、まさか、ここまで他人に無関心だとは思わなかった。とは言え、身の上話をしないようにしていた自分にも責任がある。

「…………ハチは、千草と、住んでると思ってた」

 続いて告げられた勘違いは、どこをどう捻って生まれたものなのか皆目見当もつかない。連絡を取っている風に装っていたせいなのか、それより以前から、疑われていたのか。

 どちらにしろ、大いに嫌われていた原因がやっとわかった。同時に少しだけ、ユキの天の邪鬼な言動の意味が見えてきて、波知は言葉を失う。

 作る料理に逐一文句を付けていたのも、いつも決まって〝さっさと帰れ〟と見送ってくれたことにも、嫌味以外の理由があった。昨夜の奇妙な行動も、全て、自分と千草を想ってのもので――きっとユキは、この二年間、想像以上の葛藤を抱えてあの家で過ごしていた。

「……ごめん」

 一体何に対しての謝罪なのか、聞けば教えてくれたのだろうが、波知は黙って言葉を受け止める。そもそものところ、罵られる覚悟こそあれ、謝られる想定はない。

「………………ハチは、いつから知ってたの?」

 ガラス玉のような瞳を前に〝知る〟が指すものを考えて、波知ははたとする。これまでは滅多に名前を呼ばなかったユキが、今日は〝おまえ〟という称を使わない。

「……由貴(よしたか)さん」

 どう、呼んであげるべきなのか。

 悩んだ末に、昨夜は口にできなかった名前を声に出すと、見る見るうちに表情が変わる。

「………………ユキ、でいい」

 苦しそうな、今にも泣きそうな声で呟いたユキの本音はわからないまま。千草と、自身の母親が共にいることを知ってしまったのだろう確信だけを得て、波知は拳を握りしめる。

「……ちぃさんが、ユキさんのお母さんを探してるのは……中学の時から、知ってました」

 誤魔化すことをせずに事実を伝えれば、視界の隅で、長い睫毛が一度だけ瞬きを落とす。

「……万知ばぁが、死んだあと……」

 確かめるように言葉を零したユキは、表情を変えることも感情を露呈させることもないままに、また、黙り込んでしまった。

 ユキの家庭環境に問題があることは、丸井家で過ごしている時点でわかっていた。両親と連絡を取っていないことも千草の様子から察していたものの、そこに、どんな事情が絡んでいるのかまでは知る由もない。ましてや、千草が〝好き〟だと言っていた〝ユキ〟が別の人物で――自分が〝ユキ〟と呼ぶ人にも、母親と同じように別の名前があるとは、考えもしなかった。

 だが、知らずとは言え、現状に加担してしまったのは事実だ。それならば、少しでも千草への嫌悪感を減らすべく憎まれ役になろうと決めて、波知はこの二日間を過ごしてきた。

「ハチが知ってること、全部、教えて」

 声が届いたことで左隣を向けば、昔と同じ、真っ直ぐな視線をぶつけられる。

 疑われようとも騙しきろうという意思も、見抜かれはしないかという不安も、今となっては無意味だ。因果なもので、嘘をそのまま受け入れてしまいそうな瞳を前にすると、嘘をつくことが躊躇われてくる。何より、自ら事実を知ろうとするユキを騙すことは、できない。

 昨日であれば、きっとまだ、二人が出会ったのは偶然だと、彼女は単なる第三者だと告げられた。優しい嘘で、傷を浅くすることができた――

 じわじわと込み上げてくる後悔を奥歯で噛みしめてから、波知は、細く息を吐き出す。

「……ユキさんのお母さんは、名前をふたつ持ってます。ひとつはサラ・カテリナ、これは彼女自身が買った人の戸籍で……本名はラバル 優希(ゆき)……今は、丸井家の養子に入ってます」

「…………養子って…………」

「続柄はおばちゃんの娘って形になってるんですけど、ちぃさんは、おばちゃんが亡くなった時に謄本取って初めて知ったみたいですね。……ただ、彼女、二十年以上前からサラの方の名前で生活してるから、ちぃさんでは行方が追えなかったみたいで……オレも、探ってはみたんですけど、本名の素性辿ったとこで手詰まりでした」

 自分の持つ情報を噛み砕きつつ、波知は、酷な事情をどう迂回すべきかを模索する。

「彼女が見つかったのは、おばちゃんちの買収計画がちぃさんに伝わったあとです。本名の方がまだ丸井姓で残ってて、現住所もおばちゃんちのままだから……ちぃさんは、港栄に、ユキさんのお母さんにも相続の権利があるから、って伝えて探させたみたいで」

「…………」

「見つかったのは、たまたま、港栄に関わりのある人がサラさんを知ってたかららしくて。あと……ちぃさんの借金は、彼女が作ったものを肩代わりしてるって感じです」

 嘘のように大人しいユキを横目に、波知はぐっと息を飲む。

 住み慣れた家を失う、というたったひとつのことでさえ、ユキには大ごとだ。本当は、少しずつ時間をかけて濁し伝えるはずだった事柄を、いっぺんに知った今、一体何を思うのか――

「初めはね、ユキさんとお母さんを合わせてあげたいのかなって、思ってたんです」

 他にも隠し持つ事実を、告げるべきなのか、否か――悩んだところで、細い肩にこれ以上の荷物を背負わせることは、どうしてもできない。

「…………黙ってて、ごめんなさい」

 声を絞り出して顔色を伺うと、ユキは無表情のまま小さく首を振る。待ってみたところで、言葉はおろか、感情や思考は一切表に出てこない。泣くことも、怒ることも、困ることもなくただひたすらに一点を見つめ、まるで置物のように座っているだけ――

 嫌な焦りを覚える中、波知はどうすることもできずに俯く。

 これがユキの元持つ性格で、過去に一度しか対峙していない〝おばけ〟の本性なのだろう。今までの強気な態度や横暴な物言いは、いわば与えられた鎧――千草は、それが無くなる前に逃げ道へ誘導しろと、支えになれと、言いたかったわけだ。よくよく考えれば、見ず知らずの他人に何を取られても文句を零さなかった〝おばけ〟が、自ら望む場所を選べるのか。

 自分の選択は間違っていたのかもしれないと、考えたところでもう遅い。

 動くに動けず悶々としていれば、ふいに、携帯端末に着信が入る。千草からの折り返しかと思い恐る恐る確認すると、画面には「厳さん」という文字が表示されている。

「もしもし?」

『おう。おまえ、葉月に何言うたんや』

 縋る気持ちで出てみれば、電話の向こうからは盛大な溜息が聞こえてくる。

「…………怒ってた?」

『怒るどころか、えらいしょげとったわ。朝寄ってきた時には頼られたーゆうて嬉しそうにしとったのに……あんま兄ちゃん困らせなや……』

「約束破ったはっちゃんが悪いんだもん。……でも、後で謝っとく」

 気の抜けるような内容に乗じて隣の様子を伺うも、やはり、動きはない。

『それより、はよう帰って来い。よーけ片付けんなんもんあるのに』

 こちらの状況を知ってか知らずか、厳三は間延びした声で帰宅を促してくる。

 ただ〝片づけ〟という一言が耳に届いたことで、波知は不思議と、普段の感覚を取り戻すことができた。

 今日この町に来た本来の目的は、別にある。すっかり忘れていたが、これからのことを考えるために、足を運んだのだ。それなのに、公園の片隅でじっとしていては、何も先に進まない。

「わかった」

 了承で通話を終えると、頭上にある枝葉の隙間から勢いよく蝉が飛び立つ。驚いたのは自分だけでは無かったのか、傍らにある肩も、大きく跳ねる。途端に、ここにいるユキも、昨日までのユキも、同じ人間なのだという実感が沸いてきた。

「ユキさん。家、帰りましょう」

 苦笑交じりに声を掛けて、波知はその場から立ち上がる。

「…………………………ユキに、帰る家は、もうないよ」

 根気強く待っていると、ユキは小さく唇を動かし、途切れ途切れの言葉を零す。

 連れ帰ったところで、無機質な瞳に届くものがあるのかはわからない。喜ばせるような内容も、楽しませてあげられるような事柄も、用意はしていない。それでも今は、空の容器を握り締める指の、消え入りそうな声の、震えを止めてあげたかった。

 再びその場にしゃがみ込み、波知は、ひよこにした時と同じように目線の高さを合わせる。

「まだあるよ。ユキさんのおうち」

 蒸し暑い真夏の、昼下がり。

 寄り添おうと触れた手は、まるで血が通っていないかのように冷たい。

「ユキさん」

 十四年前と同じ、ふわふわと宙に浮いたような存在を抱きしめたい気持ちを堪え、波知は、確かめるように名前を呼ぶ。絡めた指先に自分の体温が伝わればと、押し殺された感情が少しでも見えればと、それだけを願い、待つ。

 無理強いはしないでおこうと決めたのは、もはや、意地だ。

 しばらくすると、握っている手が微かに動き、ユキは困ったように眉尻を下げる。いつの間にやら汗ばんでいた掌は、確かにどうにも、心地が悪い。

 やっと掴んだ糸口を逃さないよう、波知は、正面の顔を両手で挟んで歯を剥く。

「帰ったら風呂入って下さいよ。水、勿体ないんで」

「…………うるせぇ」

 嫌そうな表情も、可愛げのない物言いも、いつも通り。

 ただそれだけのことが嬉しいと、感じる今を、望んだわけではない。



 電車には乗らない、と言い張るユキに付き合い、歩いた佐加井町までの道のりは長かった。

 靴擦れでも起こしているのか、引きずるよう動く足は痛々しく、進む速度も遅い。ずっと憧れ、追いかけてきた背中はとても頼りなく、衝動的に手を伸ばしたくなる。

 それでも、振り返らずに前を行く姿に強さを感じ、波知は黙って後ろをついて歩いた。

「今までに使わせた金は、ちゃんと返すから」

 道中で、ユキが発した言葉はこれだけ。

 電車に乗らないと言ったのも、タクシーを拾うことを嫌がったのも、飲み物を買うことを、喫茶店に入ることを拒んだのも、きっと金が絡むせいだ。

 そして、これまで全く執着していなかった事柄に突然固くなったのは、葉月が原因だろう。

 謝る発言撤回、次に会った時にはとことん文句を言おうと決め、波知は、家の壁に貼り付けられた【管理地】の看板を眺める。

 時刻は十一時半。伊崎町を出てから約一時間、歩き続けたせいで腹が減った。

 街灯の下で立ち止まってしまったユキを横目に、どう昼飯のことを切りだすべきか悩んでいると、ジャリジャリと、砂を踏むような音が近づいてくる。

「おう、おかえり。遅かったな」

 何故か丸井家の門中から顔を出した厳三は、麦わら帽子をかぶり、手に鎌を握っている。何事かと庭先を覗きこめば、壁際には高々と積まれた草山が四つ。

「片付けって……こっちのことね」

「おう。どこのことやおもとったんや」

 地面が見えるようになった庭と、からからと笑う厳三を前に、波知は腰に手をあてる。

 自分たちが暮らしている家に、大して荷物はない。おまけに厳三は、既に新しい家具を揃えていて、現状使っている家具は解体の際に一緒に廃棄してもらうつもりでいる。

 次に暮らす場所へと持っていくものは〝思い出の品〟だけだ。

 そうこうしている内に、無言で玄関先に佇んでいたユキがふらふらと家の中に入って行く。目で追ってみれば、進んだ先はいつものように、二階の階段――

 肩を叩かれたことで振り返ると、厳三は神妙な顔をして、すっと鎌を差し出してくる。

「………………オレ、腹減ったんだけど」

「あとで寿司でも取ったる」

 ここから先は、聞くなかれと言うことなのか。

 どんな隠し札を持っているのかがわからない老人としばらく睨み合った末に、波知は渋々、鎌と肉体労働を引き受ける。

「心配すな。悪いようにはせん」

 ひらひらと後ろ手を振る、曲がった背中が何を目論んでいるのかは想像もつかない。ただ、欲のない厳三のことだ。ユキを責めることや、貶めるようなことは考えていないだろう。

 庭に立ち、灼熱の太陽を仰げば、閉ざされた窓が視界の片隅に映り込む。

 叱咤するのか、励ますのか――何にせよ、厳三と過ごす時間がユキの救いになればと願い、波知は、伸びきった草に手を掛ける。

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