07 八月二日
何度か寝返りを打ったあとで、ユキははたとする。
雨染みのできた天井に、散らかった床と、閉ざされた窓。綺麗に片づけられたテーブルの傍に茶封筒と鍵はなく、意識が、夢と現実の境をふらふらとさ迷う。とは言え、久しぶりに熟睡できたお陰なのか、昨日までの鬱鬱とした感情や倦怠感は抜けている。
朝日が差し込む室内に、人影はない。ソファから起きあがってみると、入れた覚えのない冷房の送風が髪を揺らし、湿気た匂いが鼻につく。
携帯電話の画面に表示された時刻は、7時8分。
普段であればまだ寝ている、ちょうどハチがメールを寄こす時間帯だ。
空調のスイッチを切り部屋から出ると、階下から微かな物音が聞こえてくる。
間に合うようなら朝飯を作ってやろうと考えたあたり、まだ、思考は眠っていたのだろう。
「ハチ」
台所の暖簾を潜り、名前を呼ぶと、流し台で作業をしていた背中が動きを止める。
整えられた髪に、紺のジャケット――装いが違う時点で、おかしいと気付くべきだった。
「え?」
振り返った男は、不思議そうな声を出したあとで、手元と自分の顔とを交互に見る。
皺ひとつないスリーピーススーツや腕時計は、明らかに高級品で仕立てが良い。 声や雰囲気も落ち着いていて、表情には貫録がある。年は、三十代後半だろうか。完全に場違いなその男は――背格好と顔立ちが、驚くほどハチに似ている。
「…………なるほど。そういうことか」
手持ちの缶詰めをまじまじと見つめ、男は何かに納得した様子で苦笑を零す。目を凝らしてみれば、缶のラベルには「ねこのごちそう」という文字が並んでいて、どうにもミスマッチだ。
ここでやっと、見知らぬ人間が家にいる現状にはたとして、ユキは眉間に力を込める。
「……あんた、誰?」
「……港英コーポレーションの北沢です。お会いするのは、初めてですね」
港英コーポレーションの、北沢――忘れようもないその固有名詞は、先日、開発話を携えて家を訪れた人物のものだ。それが何故、今、台所で猫の餌を持ち佇んでいるのか。
「こちらの敷地は、一昨日付けで弊社所有となりました。一時間程度であればお待ちしますので、準備が整い次第退去してください」
「ちょっと待て。一時間とか、家具も荷物も……つーか、一昨日って」
「屋内の残置物は全てこちらで処分するように、と、契約時に丸井さんから仰せつかっております。必要なものがあればお持ちくださって構いませんので」
様々な情報が錯綜する中で視線を引き上げれば、コトリ、と小さな音を立て、シンクの上に缶が置かれる。
「……私は、この家に住みついている猫と一緒に花火を見たいから、立ち入りの期日を伸ばして欲しい、と頼まれたんですけどね」
溜息を吐いた北沢は、昨晩を彷彿させるかのような表情を顔に浮かべ、腕を組む。
「まさか人間だとは思わなかったよ。まんまと騙された」
皮肉めいた笑みは、似ていないようで、とても似ている。
加えて揶揄のような事実が合わさったことで、ユキは怖々と声を振り絞った。
「あんた……ハチの、家族?」
「……ハチ、と言うのが多岐川 波知のことを指すのであれば、血は繋がっているね」
「……たきがわ、なち……」
初めて聞いた、それでいてどこかで耳にしたことがあるような響き――口に出して改めて〝多岐川〟という名字が厳三のものだと察するや、北沢は自らの財布を探り始める。
「それを踏まえて言いますが……今後、波知には関わらないでいただきたい。多岐川さんの所にやったとはいえ、あの子はうちの身の者だ。害のある付き合いは見過ごせない」
「…………」
「躾もなってない、毛並みも良くない……私としては、そんな人間に入れ込む気持ちが理解できないけれど……」
蔑むような視線と、容赦なく突きつけられる嫌悪感――
明確なまでの否定は、過去、何度も目の当たりにしてきたものだ。それなのに、慣れているはずなのに、どうしてか上手く言葉を選ぶことができない。
「これで、しばらくは生活できるでしょう」
最初の時点で、十万以上。何の前触れもなく机に札を置かれたことで瞠目すると、しばらくの間をもって、更に枚数を足される。
「まだ足りないかな?」
見たこともない額の、自力では到底稼げないであろう、金――
眼前で巻き起こる事態に思わず首を振れば、続いて、帯の付いた分厚い束を投げられる。それこそ初めて目にする、百万という大金だ。
今まで無償で与えられていた日常が、ハチの時間と身銭で作られたものだという自覚はあった。数日前であれば「勝手にしていること」と断言できたものも、情に触れてしまった現状では、利用していたと認めざるを得ない。不利益を被った本人が責めない辺り、見ていた周りの人間が、目に余ると感じるのも当然のことだろう。
元より価値が尽きているのは承知していたが、ついに、存在が害だと言われてしまった。
大金を積んででも、排除したい。初めて第三者にぶつけられた現実は、胸の奥をじわじわと狭窄すると共に、嫌な記憶を呼び起こす。
たった一度の失敗が、たくさんのものを奪うことは知っていた。挽回を望んだところで、見切りを付けられてしまえば最後、次の機会が与えられることも、期待されることも、信じて貰えることもない。そのうちに、非を認め、相手の望みを聞くことだけが傷口を広げない、唯一の選択肢になっている。ただ――今回ばかりは意に沿えない。
「…………お金は、いりません」
正面にいる男の目を見据えて声を零せば、知らずと、指先に力が篭る。
「ハチにも、もう頼りません。使わせたお金もちゃんと返します」
劣悪な環境で、自分を守るためだけに覚えた術――相手が欲しいだろう言葉を淡々と並べていく行為は、なるほど、反感を買うわけだ。実行する意思はあるのに、何の確証もないせいかひとつひとつの発言が軽く聞こえる。現状は、条件を突っぱねているから余計に胡散臭い。
それでも、他に言いようがない。
「…………受け取って貰わないと、こちらが困る」
「いりません。貰わなくても、もう、ハチには会いません。家からも、出て行きます」
表情を固くした北沢を前に、ユキは現状持ちうる全ての手札を曝け出す。
「…………」
だが〝すみません〟というたった一言が、喉の奥につかえて、出てこない。
どうしても謝ることが、自ら終息を選ぶことが、できない。
震える唇を噛んで頭を下げれば、見かねたように足音が近づいてくる。怒りをぶつけられることを覚悟して身構えると、視界の先に伸びてきた指は、どうしてか、手の甲を包み込む。
たった一度、一瞬のできごと――それが、よもや、諸刃の剣だとは思わなかった。
「私は、後になってごねる人間を沢山見ているからね」
手に握らされた札束は、りんごあめよりも軽いはずなのに、取り落としそうなほど重い。
視線の先には似通った顔があるのに、そこには、ぎこちない笑みも、柔らかい癖っ毛も、のんびりとした声音も、記憶に残る優しいもの全てが存在しない。
これが、本当の終わりで、現実だ。
「……いりません」
崩れ落ちそうな身体を気力で支え、金を突き返すと、溜息を落とされる。
「なら、何が欲しいか言いなさい」
あからさまなまでの〝信用できない〟という態度は、押し問答では覆せそうにない。そもそものところ、ユキにはもう、北沢を言いくるめるだけの術も、気力も、残ってはいなかった。
「………………千草の……連絡先を、知っているなら教えてください」
「……個人情報か……こちらにも、守秘義務というものがあるからね」
息苦しさを堪えながら言葉を零せば、北沢はやっと、札束を引き下げてくれる。
「伊崎駅の北口から二分ほど歩いた中筋にある、ソレイユ、という喫茶店」
「……」
「あそこのミックスサンドは、なかなかのものだよ。あと、窓際の席から公園が見えるのだけれど、たまに氷屋が来る。食べてみるといい」
駅と店の名前に、ふたつの食べ物、どこが要点なのかはわからない。ただ、並べられた言葉のどこかに、望んだ答えがあるのだろう。
続いて千円札を差し出されたことで、ユキは会釈をし、踵を返した。
「歩いて行くには、遠いよ」
「…………これ以上、迷惑かけたくないんで」
金と助言を背に廊下へと出れば、昨日と変わらない蒸し暑さが身体に纏わりついてくる。
涼しげな音を鳴らす暖簾も、使い込まれた冷蔵庫も、色褪せたタイルの床も、これで見納めだ。古びた木の匂いがする空気を吸い込み、十四年間登り続けた階段を眺めていると、心臓が痛いほどに脈打つ。
「……千草くんに迷惑がかかる、という思考はないんだな」
耳に忍びこんできた呟きは、唯一の支えでさえをも、現実的な色に染める。
だが、北沢という人間が厳しいとは思わない。むしろこの男は、これまでの日常が、身を取り巻いていた環境が、いかに甘いものだったのかを教えてくれた。
長い年月を過ごした場所を惜しむこともできないまま、ユキは、全ての日常を残して家を出る。立ち止まれば、振り返れば、きっともう、動けなくなってしまう。 この家もろとも消え去ることができればと思う反面で、これ以上、人に憎まれたくないという思考が働く。
無心で人気のない路地を進んでいくと、次第に、足の甲がひりひりと痛み始める。万知子の生前、色んな人間に酷使されていたサンダルは、帯の部分がすり切れていて歩きにくい。青空で燦々と輝く太陽は、汗を誘うと同時、着実に体力を削っていく。
それはまるで、この町に来た日を、彷彿させるかのような感覚だった。
数年ぶりになる駅の構内で案内板を確認すると、目当ての文字は、ほどなくして見つかる。
佐加井町の、たったひとつ、左隣――
中学の課外学習の際に素通りしたきりの伊崎駅は、鈍行電車しか止まらない。有名な店も観光地もない小さな町に、電車に乗れば五分と掛からず行ける場所に、千草はいる――
重い足を引き擦り駅前広場に出たユキは、目的地へと連なる線路をぼんやりと見上げる。
今更、欲しいものなど何もない。大切なものを全て失った状況で、人に害を与えながら生活していたと気付かされた時点で、次を望むつもりもない。
それでも、十四年前と同じ、見知らぬ土地へと続く道に希望を見てしまうのは――人の優しさを知っているからこその、弱さだ。
フェンスに遮られた線路に沿って進んで行くと、何度も、電車に追い抜かれる。
長い橋を渡り、ゆるやかな坂を下りきったあとは延々と代わり映えのしない風景が続いたせいで、距離の感覚がおかしい。
休むことなく歩き続けて、一体、どれほどの時間が経ったのか。
ふと、蜃気楼の向こう側にある景色に違和感を覚えて、ユキは歩調を緩めた。
周囲を見渡すと、道路脇には何の変哲もない住宅地が広がっている。瓦屋根の古家と新しいハイツが混合する地域には、秀でて、目立つものはない。大きな鉄塔の前を横切ると、小汚いラーメン屋と美容室が軒を並べていて、更に五分ほど進んでゆけば、市営の駐輪場が現れる。
――ここが目的地だということは、駅舎の壁に掲げられた「伊崎駅」という看板で察した。
駅前のテナントビルには、昔ながらの写真屋と婦人服を売るブティック、ケーキ屋という異色な店舗が入っている。その隣の赤い提灯をぶら下げていた飲食店は無くなっていて、代わりに、お洒落な外観の居酒屋が一軒――
「……なんだ、ここ」
途端にこみ上げてきた動悸を諌めながら、ユキは、足を前へと踏み出す。
一度も訪れたことがないはずなのに、どうしてか、町並みに見覚えがある。馴染のない建物の装いを〝同じ〟〝変わらない〟と認識する時点で、何かが変だ。車窓から眺めたものにしては、記憶が鮮明すぎる。
北沢の言葉に従い、駅前の大通りから一本中の道に入ると、無意識のうちに歩幅が大きくなる。そこから先は、もはや、感覚だけのものだった。
〝ソレイユ〟の看板が掛かった純喫茶を通り過ぎ、裏手に回ると、小さな公園が視界に入る。
敷地を挟んだ向こう側には、二階建ての、白塗りアパートが一棟――
忘れようにも忘れられない風景の片隅で、ユキはただ、茫然と立ち竦む。
子供の頃に、一度だけ歩いた道――最初に目にした外の世界は、今もちゃんと脳裏に焼き付いていて、頭はすぐに、ここが、過去の数年を過ごした場所なのだと認識する。
何度も振り返った、階段を登って、右から二つ目の部屋。いつもカーテンが閉ざされ、物の散乱していたワンルームには、もう、あの頃のような険呑さはないのだろう。
ふいに開いた扉の向こう側で、女は、穏やかに笑っていた。
薄茶色の髪も、青い目も、背中でドアを押さえて男を送り出す姿も、昔と変わらない。記憶に残るものより多少老けたものの、女は間違いなく、自分を産み落とした女だ。
対する男は、気だるそうに欠伸を零し、女の髪をくしゃくしゃと撫でる。嬉しそうな、それでいて優しい笑みは、未だかつて見たことがない。
いなくなったはずの女が、過去と同じ場所で、宝物を眺める時と同じ表情を浮かべている。慣れた様子で玄関から現れた男は、まるで、その宝物から抜け出してきたかのような風体――
これは、夢なのか。
〝あれ〟は一体、誰なのか。
上手く思考が回らない中で既視感に苛まれていると、カン、カンと、靴が鉄板を踏む甲高い音が頭の中に響く。
横顔も背中も、十数年、傍で見てきた。別の人間かもしれないと言い聞かせたところで、目に映る姿や仕草の全てが――男は、他ならぬ千草だと、訴えかけてくる。
途端に本能が働いたことで、ユキは階段下の空間へと駆け込み、息を殺す。
自分と女を恨んでいるはずの千草が、どうして、女に笑みを向けるのかがわからない。相当な報復を目論んでいるのかもしれないと思おうにも、今しがたの光景が、否定をくれる。
これほどまでに、事実を確かめるのが怖いと感じたことはない。
だがそれ以上に、ユキは、ずっと待ち続けた背中に手が届くという衝動に、抗えなかった。
「……千草!」
葛藤はおろか、目的すら忘れて名前を呼ぶと、男は驚いた様子で振り返る。
「おまえ、」
声を、不遜な表情を目の当たりにしてやっと、彼が千草だという実感は沸いたが――同時に嫌な確信を持つことになるとは、思いもしなかった。
有無を言わせぬ威圧感は二年前と同じで、十四年間、変わらない。
足を踏み出そうとするや、手で口を塞がれ、元の場所に押し戻される。懐かしい、甘い香りが近くに来たことで視線を引き上げると、怒りを露わにした顔が、舌打ちを落とす。
「……めんどくせぇな」
苛立ったように髪を掻き乱す千草の左頬には、青痣がひとつ。
「会わせたらマズイことくらいわかんだろ。今すぐ連れに来い」
電話で呼び付けられた、傷を負わせた喧嘩相手が誰なのかは、全てに合点がいったからこそすぐに察した。
千草がハチを可愛がり、ハチが千草を慕っていたことには間違いない。ただ、二人の間に邪な情はなかった。大方ハチは、ある程度の事情を知っていて、押し付けられた面倒事を断れなかった、という感じだろう。
最上級だと思っていた愛情の、更に上――女に対する全く別次元の扱いを見て初めて、ユキは自分が、盛大な勘違いをしていたことに気づく。
一体どこから、と、考えてみれば、視界がぐるぐると回り、喉に苦いものが込み上げてくる。
十四年前の、最初に出会ったあの日から。
千草の中に〝由貴(ゆき)〟という人間は存在していなかった。
そっけなく粗雑な扱いに対して、時おり髪に触れる指先が優しかったこと。身体を繋げる時には顔を見ることを、声を聞くことを、拒むこと。普段は〝おまえ〟なのに、咄嗟の時には〝ユキ〟と呼ぶこと。これまで不思議だったちぐはぐな言動には、ちゃんと理由があった。突き離すような態度にも、時おり肌で感じる苛立ちにも、意味はあった。
自分は、性欲処理の道具でも、憂さ晴らしの対象でもない。単なる〝ユキ〟の代わりで――どれだけ手をかけても〝ユキ〟にはなれなかった、粗悪品だ。
「さっさと帰れ。ここには二度と来んな」
口を噤むことで吐き気を堪えていると、冷たい声が体温を浚う。
「……千草、なんで、あの女と一緒にいんの? ……いつから……」
「…………おまえには関係ねぇだろ」
思えば、いつから、名前を呼ばれていなかったのか。
「まぁ、ヤッてはねぇから心配すんな。あと、あの女とか言うのやめろ」
きっと〝ユキ〟という呼び名も、もう、自分のものではない。
居心地のいい場所と存在価値を失い、満身創痍で縋った先で、今まで〝ユキ〟として過ごしてきた時間を奪われる。これ以上無くすものはないと踏んでいたが、まさか最後に、自身の核になるものを取り上げられるとは思わなかった。
「…………千草は、よしたかのことが、嫌いですか」
空っぽになった胸の中に唯一残った言葉を零し、ユキは、対面にある表情の変化を伺う。
「その喋り方やめろっつっただろ、鬱陶しい」
新しい名前も、居場所も、喋り方も、常識も、全て千草が与えてくれた。だが、いくら聞き従ったところで、まがいものは、本物になれない。
ならば――〝由貴〟という存在を恨まれている方が、まだマシだ。
「嫌いだな。めんどくせーし……」
じっと答えを待っていると、突然前髪を掴まれ、頭の位置を固定される。
昔から変わらない千草の手癖は、俯くことを、首を振ることを許してくれない。どれだけ隠そうとも、強引で無遠慮な行動は身体の奥底にある感情を炙り出し――いつも、最後に小さな魔法をかけてくれる。
「………でもまぁ、おまえの身体は、使い勝手いいから気に入ってる」
案の定、投げかけられた言葉は、辛辣で、甘い。それはまるで、心の中を見透かしたかのような、自分が望んだ通りのものだった。
千草が傍にいると決めた相手は、ハチではなく、自分の母親――
不可抗力で知ってしまった事実は、とても薄汚れていて、受け入れがたい。
それでも、何かひとつでも、誰かの役に立てるのであれば生きてはいける。たとえ人から非難されようとも――〝ユキ〟の代わりでも、この場所に存在する意味が、欲しい。
全てを承知した上でそう願う自分が、何より一番、汚く、浅ましいのだろう。
「ハチ来るまでここにいろよ。……そのうち連絡してやるから」
しばらくの間を置いて、千草は溜息を吐き、片方の口角を上げる。
嫌味な表情も、髪を引っ張られる痛みも、他の誰のものでもない。〝由貴〟だけに向けられる表現が、これまでずっと疑ってきたものが、今度は百八十度意味を変えて身体を支えてくれる。その裏では、叫び出したくなるような衝動が、胸の中に渦巻く。
遠ざかる背中を見送ったユキは、唇を噛んで、震える膝に手を添える。
数分前に歩いてきた道は太陽に照らされていて、無駄に明るい。体力も底を尽き、渇ききった喉を持て余した状態で歩ける距離など、たかが知れている。おまけに、千草は〝ここにいろ〟と言い、再び自分に価値を与えてくれた。
元より、縋る先も、帰る家もない。北沢との約束を守ろうとすれば、今度こそ、全てを失ってしまうかもしれない。ならば、今まで通り、大人しく待つべきだ。
眩暈に負けて項垂れると、ボロボロのサンダルと、擦れて赤くなった足の甲が視界に入る。見るも無残な姿で足掻いたところで、きっと、得るものは何もないだろう。
そう思う反面で、昨夜のハチの言葉が、強く背中を押す。
感情を振り切るようにきつく目を閉じたユキは、細く息を吐き出してから、顔を上げる。
薄暗く狭い空間から、灼熱の夏空の下へ――意地で踏み出した一歩は、十四年前とは異なる答えを、くれるのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます