06 八月一日(3)

 煩いはずの周囲の音が、よく、聞こえない。

 視界の先には、ハチが置き忘れた鍵と、茶封筒――確認することはおろか、触れることすらできない現実を、一体どれだけの間、眺め続けたのか。

 ふとして足の力が入らなくなったことで、ユキはその場にへたり込んだ。

 鼓膜に水が入ったかのような嫌な感覚の中で、一分なのか、一時間なのかがわからない、重い時間だけが流れていく。

 やはり、千草は帰ってこなかった。この家も、無くなってしまう。

 唯一理解できる事柄を噛みしめたところで、喉の苦しさは増すばかり。ハチの言動ひとつひとつが薄らぼんやりと思考を巡る反面、掴まれた腕だけは、鮮明な鈍痛を訴える。

 凄むような目も、皮肉めいた表情も、初めて見るものだった。嫌味こそ言え、これまでは温和だったハチの本気は、畏怖と共に、敵わないという敗北感を突きつけてきた。

 成す術がない現状で出された条件の意図を、考えようにも、頭が回らない。今夜一晩と、千草と一緒にいられる、自分の居場所を守れる道が、どう繋がるのかも察しがつかない。

 それでも、たったひとつ。

 ハチのぶつけてきた〝嫌いですか〟という一言が、身体を支える原動力になる。

 ずっと心の奥に留め、目を逸らし続けてきた答え。どれだけ酷い言葉を投げかけられようとも知るべきだった千草の想いを、最後なのであれば自分も、聞きたいと思った。現実を受け止めない限りは、謝ることもできないと気付いた。

 膝を擦る形でソファまで進み、ユキは土壁に手を添える。

 役立たずの身体をどう扱われたところで、支障があるのは自分だけだ。完膚なきまでに叩きのめされても、今更、堪えることはない。どんな形でも、千草に会えればそれでいい。

 ただ、今までとは異なるハチの強引さが、想定を拒む。

「……痛いの、やだな……」

 ソファのヘリを握りしめると、徐々に指先の感覚がなくなってくる。

 千草の指示なのか、十数年の憂さ晴らしなのか、殴られるのか、嬲られるのか。いくら考えても、頭に浮かんでくるのは嫌な事態ばかり。何より、今日までのツケがこのような形で返ってくるとは思いもせず、どう立ち回ればいいのかがわからない。

 その半面で、妙な感情が思考を諌める。

 二年間、文句も言わずに通い続け、今日も殴られてまで家に来たハチが望むことならば、できる限り叶えてやりたい。どんな思惑があるにせよ、まだ自分に価値が残っていたことが、必要とされたことが――単純に、嬉しい。

 本当は、最後まで、いつも通りでいたかった。

 応援はできなくとも、何食わぬ顔で過ごし、後腐れなく送り出したかった。

 そんな、自分本位な思考と我儘を飲み込んで、ユキは怖々と下着の中に手を滑らせる。

 以前は毎日のように風呂場で慣らしていたものを、急遽、何もない部屋で、となると勝手が違う。二年使っていないせいか指も一本が精々で、二本目を入れようとした時点で、次を想像してしまい怖気づく。

 苦痛を軽減するための術も、体調を壊さないようにするための後片付けの方法も、回数を重ねるうちに自然と覚えていた。ただ、何度やっても、いつまでたっても上手くできない。

 必要なことだとはいえ、自らで中を探る行為は、痛みを与えられるよりも苦手だ。ねじ込んだ指で内壁を押し広げていけば、否応なく息が詰まり、背中が粟立つ。

 どれだけ強がっても、聞き分けがいいふりをしても、結局、中身はひとつも変わらない。昔から愚鈍で耐え性がなく、心も身体も思い通りにならない。

 それが余計に、相手の苛立ちを誘うということも、知っている。

「…………っ」

 情けなさと痛みを噛み殺して膝に額をつけると、目の奥がじわじわと熱くなる。

 だが、戸惑っている時間も、余裕もない。

 細く息を吐き出しながら、覚悟を決めて指を奥へと進めていけば――唐突に、ゴツッという何かが床に落ちる音がする。

「え、なに……」

 続いて声が聞こえてきたことで唇を噛んだユキは、ぎゅっと瞼を閉じ、手の動きを止めた。

 涙こそ引っ込んだものの、顔を、上げることができない。

「…………最近使ってねぇから……あんまりキツイと、よくないらしいし…………」

 跳ねる心音を呑み下して言い訳じみたことを呟けば、少しの間を置いて溜息を吐かれる。耳だけで気配を追っていると、ハチは落としたものを拾った後で、机に何かを乗せていく。

「…………心配しなくても、手出したりしないんで。そういうのは、やめて」

 使う価値もない。遠まわしに、そう言われた気がした。

 呆れたような物言いに羞恥心を煽られる中、つま先に力を込めていると、ガラガラと鈍重い音が聞こえてくる。途端に大きくなった人の声と雑音に頭を持ち上げたユキは、視界の先に、見たことのない景色が広がっていたことで息を呑んだ。

「やっぱり、ここだと綺麗に見えるんだ」

 窓辺に立つ背中の向こう側には、大輪の花が咲いている。これまで一度も、きちんと観賞したことがなかった、川祭の打ち上げ花火――

「一等席」

 弾むような声に誘われ周囲に目を向ければ、机にはビールが四本と、昨日食べ残したピザ、白い袋が乗っている。

「…………おまえ、何考えてんの?」

 自然と零れてしまった疑問に、早々と振り返ったハチは――

「言ったでしょ。一緒に花火見ましょうって」

 少し寂しそうに笑ってから、思いがけない言葉をくれた。

 込み上げる感情を噛みしめていると、机の傍に胡坐を搔いたハチが手招きをする。

「ちょっと冷めちゃったけど……」

 袋の中から出てきたものは、煙草が一箱と、たこ焼きが入ったパック一つに、鶏のロゴが印刷された袋一つ。途端に、これまで麻痺していた鼻先に匂いが届き、ユキは眉根を寄せる。

「……何しても、怒るのはナシ、ね」

 表情を見てなのか、ハチは困ったように首を傾げて夕飯を広げていく。

 用意された現状に、怒る要素は何もない。ただ、身にそぐわない想いが露呈しそうになるのを、堪えるのに必死だった。

 慣らすことを止め机の前に座ると、チーズにソース、焼き鳥のタレ、という異色な香りが迎えてくれる。ハチはビールを片手にピザを頬張り、窓辺に目をやっては、にこにこと笑う。野外の賑わいや馴染みがない匂い、勝手に室内に居座る空気は穏やかなもので、いつも過ごしている場所が、まるで違うもののように感じる。

「あ。でも、我儘とか嫌味は言ってくれていいよ」

 身体の強張りが和らいだのは、態度や喋り方が普段とは異なるせいだったのかもしれない。

「その方が落ち着くから」

 どことなく子供っぽいハチに充てられたことで、ユキはやっと、指先に温度を感じた。

 冷めた焼き鳥をつまんでみると、パサパサとした触感が舌先に残る。味も香りも、万知子が作るものとはまるで違うのに、どうしてか、いつものように文句が出ない。

 喉の苦しさを誤魔化すように租借していれば、屋台飯に対する感想が次から次へと飛んでくる。「やっぱり、おばちゃんの焼き鳥の方がおいしい」と串を齧る姿を見てしまえば、益々何も言えなくなってしまい、ユキは黙って飯を食べた。

 最終打ち上げに向けての間休憩を期に、ハチは、空いた皿を手に階下へ降りていく。

 封筒と鍵は、床に置き去りのまま。室内には生温い風と人のざわめき、微かな火薬の匂いが絶え間なく吹きこんでくる。

 しばらくの間ぼんやりとしてから、ユキは窓辺へと移動し眼下を覗きこむ。

 浴衣姿の客が多いお陰か、路地が、普段とは比べ物にならないくらい明るい。南側の商店街一帯も煌々と明かりを灯していて、夜空は、的屋から立ち昇る煙にまみれ白ばんでいる。

 これまで触れることのなかった夏の情景は、まるで映像のようで現実味がない。 その現実味のなさが、何故か、ふわふわとした心地良さを運んでくる。

 何もない夜空を見渡せば、遠くの方で打ち上げ再開のアナウンスが響く。

 ぽん、ぽん、と軽い音を伴い、時間差で空に散っていく花火は、覚えているものよりも随分と小さく、それでいて綺麗だった。

 視界を埋める極彩色の流れを追っていると、背後で木板を踏む音が鳴る。大方二十分ほど、階下で片づけをしていたらしいハチは、部屋に入っても声を掛けてこない。

 このまま好きにさせてくれる、と思ってしまったのは、身に沁み付いていた甘えのせいだ。

 振り返ることをせずに景色を眺めていれば、すぐ傍まで足音が近づいてくる。

 ハチも花火観賞に来たのかと思ったはなえ、背後からぐっと腹元を圧迫されたユキは――一瞬にして、自分がいるべき現実に引き戻された。

 意思とは関係なく膝が浮くと同時に、全身から、血の気が引く。

「……やっぱ無理だなぁ」

 ただ、後ろから聞こえてきた声は千草のものではなく、背中に加重がくることもない。

 胡坐の上に座らされた状態で固まっていると、何やらごそごそと足の位置を変えられる。その間も腹を捕える腕が解かれることはなく、徐々に、思考が冷静さを取り戻す。

 ハチは、手を出すつもりはない、としか言っていない。その真意は、わからないままだ。

 最終的には身体を膝で挟まれる体制で落ち着き、ユキは掌を握りしめる。

 一昨年までのことを思い出してしまえば首筋には嫌な汗が伝い、また、音や景色に霞がかかる。ほんの少しでも夢のような時間を与えて貰っただけで十分だ、と言い聞かせてみても、十数年味わってきた恐怖感は拭えない。

 腹に纏わりつく腕が脇へと滑り、流れ作業のように右手を取られる。掌で拳を包まれたことで肩が跳ねれば、ハチは何も言わずに、人差し指で手の甲を突いたり撫でたりを繰り返す。

 肌や爪をなぞられるくすぐったさに耐えかね、視線を移すと――手元には、丸い塊がひとつ。

「これ。先に返しとくね」

 緩んだ指先に割り箸を乗せられると同時、頬には、汗の匂いが触れる。

「あのあと、ものすごーく怒られてさ。次は一緒に食べようと思って、お小遣い貯めてたんだけど……結局、会えなかったから」

 どうしてこの男の善意を嫌い、最後まで、信じられなかったのか。

「りんごあめ、取っちゃって、ごめんね」

 諭すような声音と、留め具を外す仕草に否応なく息が詰まり、ユキは俯いた。

 優しいことも、手に入れたものは大切にすることも、昔から知っている。だからこそ、千草がハチを、ハチが千草を選んでくれてよかったという想いは、いつも心の片隅にあった。

 泣きながら、落としてしまったりんごあめの土を払い持ち帰る姿は、今でも覚えている。みすぼらしい由貴と向き合い抱きしめてくれたのも、持っていたものを〝だいじにするから、ちょうだい〟とねだってくれたのも、ハチだけだ。

 そんな人間を、今日まで、ここにいたいという欲に負けて否定し続けた。

 どれだけ当たり散らしてもハチは折れないと、許してくれると、わかりながら反抗を続けるうちに、取り返しがつかないほどに落ちぶれてしまった。

 袋の外されたりんごあめを見つめていれば、髪をくしゃくしゃと撫でられる。

 大きな手も、匂いも、背中に触れる体温も、懐かしいようでいてどこか違う。宥め方も撫で方も、きっと、千草がハチに与えているものなのだろう。

 電灯の下で艶々と光る赤い飴は、舐めてみるとそこはかとなく甘い。とは言え、齧れば酸っぱさが口の中に広がり、不思議な味になる。生まれて初めてりんごあめを食べた感想もその程度で、わざわざ買いに走ってくれたハチへの申し訳なさだけが、視界を霞ませる。

 りんごあめも、千草の膝の上も、この家も、自分のものではない。謝らせるつもりも、返してもらうつもりもなかった。自分の手には収まりきらない大切なものを、守ってくれるのであれば――全て、奪い取ってくれて構わない。

 たったそれだけのことが、この期に及んでも、まだ言えない。

 飴に歯を立てることで葛藤を堪えていれば、間近で着火石を擦る音が鳴る。耳元でジジッと葉の縮む音が聞こえ、数秒の間を置いて漂ってきたのは――馴染み深い、甘い匂いだ。

 この部屋で、背後から、ガラムの香りがする――

 条件反射で硬直したユキは、傍らにある腕に指を添えた上で、恐る恐る後ろを振り返る。

「…………今、顔見ちゃったら意味ないと思うんだけど…………」

 煙草を咥えてきょとんとしているハチは、怒ることも、押さえつけることもしない。苦笑交じりの表情はいつもと変わらず、途端に気が抜ける。

「…………おまえ、何でこんなことすんの」

「……自己満足、かなぁ」

 のんびりとした喋り方も普段通りで、急かすことや、何かを強いることはない。 そのまま胸元に頭を預けてみれば、身体を抱き留める力が、少しだけ強くなる。

 これまでずっと、嫌味か牽制かと疑ってきた〝千草の真似ごと〟――今更そこに、どんな意味があるのかと考えたところで、きっと、心の乏しい自分には見つけることができない。それでも、何か別の意図があるのかもしれないと、思えたことで随分と気持ちが軽くなった。

「……あと、食え」

 規則正しい心音と夜空を彩る花火を傍らに、ユキは持っていたりんごあめを差し出す。

「もういらない?」

「…………一緒に食べるんだろ」

 不思議そうな顔をしていたハチは、返答に対して少し考える素振りを見せたあとで〝飽きたんだ〟と笑い、煙草の火を消してくれた。

「これ、たまに食べると美味しいけど、一人だと多いよね」

 食べ残しのりんごあめが齧られる様子を眺めていると、視界を遮るかのように、頭に顎を乗せられる。距離が近くなったせいなのか、今度は強いクロエの香りが身体を包む。

「……おまえ、この香水、似合ってねぇよ」

「……知ってる」

 常々思っていたことを口に出せば、ハチはすぐに苦笑を返してきて、また、頭を撫でる。

「でもオレ、こんなことくらいしかしてあげられないから」

 髪を梳く指も、身体を抱きしめる腕も、素直な物言いも、全てが優しくて、強い。

 自分とはまるで違う男を、これ以上推し量ったところで、空しくなるだけだ。

「……ハチ」

「……ん?」

「今までごめんな。おまえ、何も悪くないのに、嫌なことばっかして」

「……急にしおらしくならないでよ。調子狂う……」

 目線を引き上げると、ハチは困ったような顔をして、背中をぽんぽんと叩いてくる。

 その仕草が、表情が、これまでせき止めていた感情の栓を、外してしまった。

「……もう、おまえのこと、疑いたくないんだよ。だから」

 頭に浮かんだままの想いを声に出すと、堪えていた苦しさが一緒に零れる。

「俺なんかに、気使わなくていい。もう、見捨てていいから」

 ずっと伝えられずにいた、万知子への言葉――

 それを、ハチに向けることになるとは思いもしなかった。

 途端に涙が止まらなくなり、ユキは、手元にあるシャツの裾を握り締める。泣くのも手間をかけると、わかってはいても自制が効かない。

 戸惑っているのか、あたふたとしたハチは、一瞬何かを言いかけて黙り込む。そのまま視界が陰ったことで首を斜にしてみれば――予期せず、瞼の上に口づけが降ってきた。

 目尻に宛がわれた指が涙を拭うのと並行して、軽く顎を舐められる。反射的に目を瞑ると、舌は雫を辿るように頬へと滑り、すぐに離れていく。肌に触れた息からは、ガラムではなくりんごあめの匂いがして、いやにくすぐったい。

 耐えかねて瞬きをすれば、至近距離でへらりとした笑みを向けられる。

「ソーダ飴みたいなのに、しょっぱい」

 これが、ハチなりに考えた、慰めだったのだろう。

「……ほんと、犬みてぇだな」

 半ば強制的に涙を止められたユキは、釣られて、表情を崩してしまった。

 子供、というよりは動物的な行動に笑っていると、対面の目が丸くなる。次第に下がっていく口角と眉間の皺、どことなく覚えのある変化は、感情を堪えている時のものだ。

 怒りとも困惑とも異なるその形相が、何を意味するのかを認識したはなえ、見上げていた顔が、また少し、近づいてくる。

 成長しても昔と変わらず、ハチは遠慮がない。あけすけな距離感を懐かしく思っていると、並行して首の後ろを捕えられ、これまでは撫でることしかしなかった掌が髪に絡む。

 以前は小さな手で握りしめていたのが、今となっては指一本。くっ、と軽く髪を引っ張られたことで妙な感情を覚えるや、泣きそうに見えた瞳が細くなり、口を塞がれる。

 ドラマや映画でしか目にしたことがない、愛情表現――突然の事態に対応する術がない中で、ユキはどうしてか、その先にある答えが知りたいと思った。

 視界を掠める髪の柔らかさに負け目を閉じれば、口角を舐められる。毛束をやんわりと掴んで弄る指先も、強引なようでいて様子を伺っているかのような仕草も、ハチらしい。

 唇を甘噛みされたことで気が緩むと、隙をぬい、口内に舌が忍びこんでくる。りんごあめの匂いに混じる酒と煙草の苦さは、感触にも勝って生々しい。それでも、子供の頃のあどけなさが、今、目の前にいるハチの中にも残っている気がして、不思議と落ち着く。

 遊んででもいるのか、舌先にゆるく触れた舌は、表面をなぞったあとで全体に絡みついてくる。粘膜が交わる感覚と、時おり上顎を舐められるくすぐったさは、知らずと身体の奥を熱くして――まずもってユキは、息が続かなくなった。

 シャツを引っ張ることで限界を主張すると、後頭部に宛がわれている手が大きく跳ねる。

 途端に距離を取ったハチは、我に返ったのか何度か瞬きをしたあとで、電池が切れたようにへなへなと項垂れた。

「ご…………めんなさい……」

 こっそり動悸を諌めていれば、情けない声で謝られる。

「…………これは…………怒るというか、殴っていいやつですよ……」

「……口舐めただけじゃねぇか。別に、殴る必要ねぇし」

「……やらかしといて言うの難ですけど……もっと、自分のこと大事にしてください……」

 気が抜けてしまったのか、ハチの口調は普段通りに戻っていて、ユキは思わず苦笑した。

 今までに、一体、どれほどの我慢を強いていたのか。

 いつだって、ハチは素直に向き合おうとしてくれていた。それを、捻くれた思考で嫌味だと決めつけ、受け止めることを拒んできたのは自分だ。

 思うに初めから、嘘をつく気も、貶めるつもりもなかったのだろう。なるべく傷つけないようにと気を使ってくれた結果が、今だ。そのことに、己の間違いに、もっと早く気付けていれば、きっと、今日のような終わり方も、息が詰まる日常を過ごすこともなかった。

 ふいに伸びてきた両手が、髪の房をきゅっと掴む。

 昔と同じ、まるで虫を閉じ込めているかのような、柔らかな拘束。そこには痛みも、強制しようという意図も感じない。

「……オレね、子供の頃から、この髪と飴みたいな目、綺麗だなぁって思ってて……まぁ、ほんっとに見た目騙しだなって思うことも多々あったんですけど」

 顔を上げたハチはまっすぐに目を見つめ、滑らせた手で両頬を挟んでくる。

「天の邪鬼だし、文句言うわりに適当だし足癖悪いし……でも、作ったごはん残さずに食べてくれるの優しいなって思うし、素直なのも、一途なのも……全部ひっくるめて、大好きなので」

 好き、とは、一体どういうものなのか。

 正面から言葉を突きつけられたことで初めて意味を考えてみたものの、よくわからない。何せ、嫌いとは正反対にある綺麗な感情は、自分には縁のない代物だ。

「だから、もっと自信持って、前向いて生きて下さい」

 視界の端で、枝垂れ柳に似た花火が打ち上げられ、余韻を残し消えていく。

「オレは、何があっても貴方のことが好きだし、味方でいるから」

 静かに笑うハチは、それ以上、何も言わず。浮ついた言葉の群れと、夏の夜の景色だけが、ユキの心の奥にじんわりとした温かさを残した。

「……風呂、入れてきますね」

 花火が終わると、ハチはバツが悪そうに腰を上げる。

 時刻は、午後十時十五分。

 いつもであれば煩わしく思う残り時間が、今日は少しだけ、名残惜しい。

「花火終わったし、もう帰れよ」

「…………今夜一晩って、言ったでしょ」

 思いきって帰宅を促すと、ふてくされたような、不満そうな声が返ってくる。

「ハチの言う一晩って、どこまで?」

「……寝るまで、かな。……下に人生ゲームありましたよね、ついでに取ってくるんで」

 八月一日が――千草の両親の命日が、終わるまであと僅か。

 たとえ明日、自分の居場所が無くなるとしても、最後くらいは二人のために何かがしたい。

 ハチには、少しでも早く千草の元に帰って、残りの八月一日を一緒に過ごして欲しい――そう、純粋な気持ちで願い、ユキは立ち去る背中を見送る。

 ここで眠るのも、今日で終わり。

 ソファに寝転がり、嘘のような現実と一緒に膝を抱えれば、蒸し暑さが身体を包む。

 悶々と何かを考えることなく、穏やかな気持ちで脱力できたのはいつぶりなのか。これが、今まで拒んでいた〝最後〟なのかと思うと、自然と目頭が熱くなる。

ただ、一睡もせずに酒を飲んだせいなのか、しばらくすると本当に眠気が襲ってきた。

 寝たふりでやり過ごし、ハチが帰ってから風呂に入ろうという現実めいた思考の裏で、瞼は徐々に重くなる。

「………………タヌキ寝入りしないでくださいよ。どんだけ帰って欲しいんですか」

 うつらうつらとする思考の端で聞こえた声は、忍び笑いが混じっていて。重い腕を伸ばしてみれば、すぐ傍に、人の気配が留まる。

「もしかして、ほんとに眠いの?」

 長いようで短かった、全ての終わり。

「……寝てもいいですけど、起きたら風呂入って下さいね」

 いつもと同じお節介と、指を撫でる温度にまどろんでいると、階下で鳩時計が鳴く。

「……ユキさん」

 名前を呼ぶ優しい声が、肌や髪に触れる手が、誰に向けられ、何を確かめていたのか――

「今まで傍にいさせてくれて、ありがとう」

 薄れゆく意識の片隅で見えたものは、幼い頃の自分と、ひとりの女の残影だった。

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