06 八月一日(2)
花火と屋台を目当てに押し掛けた客で、狭い路地がごった返す。
河原へと向かう人波に逆らい、やっとのことで家の前まで辿りついた波知は、少しだけ悩んでから玄関の扉を開けた。
「……なんや、どないした」
居間で晩酌をしていた厳三は、振り向くなりきょとんとして、すぐに腰を上げる。
「これ。預かっといて」
差し出した袋は受け取って貰えたものの、案の定、顔色を伺う表情は険しく――
「なち」
「じゃ、行ってきます」
続く言葉は聞くまいと、波知は早々に踵を返した。
再び路地に出れば、朱色に染まった空の彼方で、協賛のアナウンスが響く。打ち上げ開始までは、あと三十分。
人目を気にしたのか、もう来る必要が無くなったのか、隣家の壁に張り紙はない。有難く思いつつ、植木鉢の下から拾い上げた合鍵を使って玄関に入れば、薄暗い廊下が出迎えてくれる。いつもは一度足を止め、外で挨拶をしてから踏み込むせいなのか、妙に落ち着かない。
その感覚が、当たり前になっていた景色との差異からきていると気付いたのは、二階ではなく一階で、人の気配がしたからだ。
靴を脱ぎ揃えていると、背後で物音が聞こえ、廊下の電気が灯る。
振り返ってみれば、居間から飛び出してきたユキは驚いたような顔をしたあとで、これまでに見たことがない表情を浮かべた。
「……おまえ、それ」
「こんばんは」
下がった眉尻に向けて精いっぱいの笑みを返すと、何かを言い掛けた唇が真一文字に引き結ばれる。見慣れたジャージに対して、髪は綺麗な薄茶一色。いつ切ったのか、少し短くなった毛には、黒く染まった部分がない。
「………………千草に、やられたの?」
心持ち顔色が悪いように見えるユキは、じっと視線を合わせてきた上で、確かめるように言葉を紡ぐ。腫れこそ引いたものの、昨日殴られた跡は青痣になっていて、なかなかに目立つ。指摘されることは予想できたが――ここで〝千草〟という名前が出るのは、想定外だ。
「……違いますよ。仕事で、ポカしただけです」
ひとまず考えてきた言い訳を返して、波知はあがりかまちを登る。動揺を悟られないよう、嘘を見抜かれないよう、ユキの傍らをすり抜け廊下を進む。止められる前に、と歩幅を大きくし、階段に足を掛けるも――どうしてか、背後からは何も聞こえてこない。
嫌な心音を飲み下しながら段を踏んでゆけば、ちょうど二階についた辺りで、ユキが後を追ってくる気配を感じる。ただ、木板の軋む音は一定で、慌てる様子も、怒鳴られることもない。
階段途中での取っ組み合いを回避できたことに安堵する反面、波知は、ユキの様子がおかしいことに肝が冷える感覚を味わう。それでももう、後に引くことはできなかった。
これ以上先には踏み込んだことがない、未知の領域――
薄闇に支配された廊下は、一階と同じ長さのはずなのにやけに広く、威圧感がある。勘だけで進み、外から見る限りで目星をつけた部屋の前に立てば、額に嫌な汗が滲む。
もしかしたら既に、という、予感はあった。
ならば一層、立ち止まるわけにはいかない。
震える手でドアノブを握り、波知は勢い任せに扉を押し開ける。
雑踏の声が耳に飛び込んでくる中、電気をつけてみれば――そこには、誰もいない。
蒸し暑い部屋は乱雑に散らかっていて、床にはジーンズやベルトが投げ置かれている。机上にあるインディーズバンドのCDも、バイク雑誌も、ユキのものではない。
丸まった黒一色の布団に、微かなガラムの香り、姿はなくとも、あちこちに残る千草の気配は知らずと息を詰まらせる。同時に、これまでは憶測でしかなかった事実を目の当たりにした衝撃が、腹の底に更なる鉛を落とす。
灰皿に残る吸殻の殆どはマルボロで、小さなソファには、何度か洗濯したことのあるブランケットが一枚。二年間使われていないにしては生活感がある室内の匂いは、先日抱きしめた身体と同じ――
竦む足を惰性で動かし、波知はキャビネットの前にしゃがみ込む。ガラスの前の淵には埃が溜まっていて、最近触れられた形跡はない。戸を開き、巻数ごとに整頓されたDVDのラベルを目で辿って行けば、隅の方には二つ折りの状態になった権利書がねじ込まれている。
それを目の当たりにしてやっと、波知の中に、ここが千草の部屋で――いつも路地から見上げていた場所なのだという実感が湧く。
早々に立ち去りたい一心で封筒を引っぱり出していると、背後で蝶番の軋む音が鳴る。
「…………ちぃさんから、何か聞いてますか?」
振り返ることができないまま権利書を広げていれば、一言だけ「おまえが一番わかってんだろ」という、曖昧な返答が届く。連絡があったのかなかったのか、帰ってきたのか来ていないのか、どうやら、教えてくれるつもりもなさそうだ。
流石にここからは顔を見て話すべきだと思い、波知は細く息を吐き出す。
呼吸を整え足の向きを変えてみると、ユキは壁にもたれ掛かった状態で俯いていて、動きを見せる気配もない。ただ、右腕を押さえるようにしている左手が、震えている。
「この家にいられるのは、今日で最後です」
声を掛ければ、華奢な肩があからさまに跳ねる。
「頼まれたものは厳さんに預けてるので、ここで過ごすか、厳さんのところに行くかは自分で選んでください」
幸か不幸か、表情が見えないお陰で告げることができた言葉は、自らが考え発したものなのに、酷く胸を苦しくした。
「……わかった」
どんな反応をするのか気が気でない中、ぽつりと零れた返事は、意外なもので。
「用事済んだなら、さっさと帰れよ」
続いて聞こえてきた声は、感情が読めないほどに小さい。
態度と発言からして、ユキは、何かしらの事情を知っている。唐突な言動を反論もなく受け入れているあたりで〝飼いはしないが、首輪は付ける〟が既に成立しているようにも感じ、胃がもやつく。ただ――千草を信じるのであれば、判断は、委ねられているはずだ。
下を向いたままのユキに歩み寄り、波知はぎゅっと眉根を寄せる。
強張る白い指に触れてしまったのは、最後の、我儘のつもりだった。
「……明日から、住むとこと職が見つかるまではここに行って下さい。しばらく生活できる程度のものは用意してあるんで」
ポケットから探り出した鍵とメモを渡そうとすると、勢いよく手を振り払われる。
突然の行動に対応できない中、顔を上げてきたユキは唇を戦慄かせながら、これまで堪えていたのだろう感情を吐露してきた。
「……なんなのおまえ……そういう同情、いらねぇから」
憎悪というよりは嫌悪に近い表情を前に、波知は、知れずと苦笑する。
「そんなに、オレのこと嫌いですか」
「…………」
「そこまで嫌われるようなこと、した覚え無いんですけどね」
言うつもりのなかった本音は、相乗効果でも生んでしまったのだろう。
青い目の奥に憤りを見るや、これまで大人しくしていたユキが殴りかかってきた。
寸でのところで拳を受け止めると、正面にある頭の位置が微かに下がる。体制の低さで次に来る行動は直感的にわかり、波知は咄嗟に、空いていた手で目下の腕を掴んだ。
力を込めて引き寄せると、ユキはバランスを崩して胸元になだれ込んでくる。その勢いで後ろへと突き飛ばそうとした矢先、目に飛び込んできたのは――扉の向こう側の、景色だった。
離しかけた腕を慌てて掴み直し、波知は、細い身体を抱き留める。
「なにすんだよ! 離せ馬鹿!」
四角く切り取られた、闇一色の空間。
単に電気がついていないだけの廊下が、どうしてだか一瞬、落とし穴のように見えた。
「……こうしてたら蹴れないでしょ」
もがき暴れるユキを全身で押さえこみ、波知は正面を見据える。
無意識でも、大切だと思う人を暗い場所へ突き離しそうになった自分が不甲斐ない。嫌われていようが報われなかろうが、背中を押そうと決めてきたのに、些細なことでこの様だ。
動揺を抑えるべく息を吐くと、腕の中に収まる身体がびくりと震える。
「…………な……おまえ……の」
顔を伏せ胸元でぼそぼそと喋ったユキは、何を考えているのかそのまま抵抗を止め、また口を噤んでしまった。
「ごめんなさい、もう一回言って貰っていいですか」
聞き取れなかった発言を拾うべく、少しだけ力を緩めると、Tシャツの裾を掴まれる。
「おまえ、何でも持ってるだろ。俺には、ここしかないのに」
これが、ずっとひた隠しにしてきた想いだったのだろう。
「俺の場所、取らないで」
震える声が曝け出した弱音は意外なもので、波知は若干、呆れてしまった。
「そう思うなら、黙って見てないで取り返して下さいよ」
ちょうどいい位置にある頭に顎を乗せると、勝手に忍び笑いが零れる。
酷い悪態をつく割に、ユキの独占欲は子供のように純粋で、裏がない。そこには確かに〝おばけ〟がいるように感じて、愛しくなる。
「……見てるだけで、よかったんだよ……ハチになれるとか、思ってない……何もできないのも、汚いのも、自分が一番よくわかってる。俺が、一番、俺のこと嫌いだ」
「汚いって……」
ふいに剥がれ始めたメッキを前に、波知は、はたとする。
ユキが自身の容姿を嫌っていることは、滞在者たちの噂話で知っていた。薄茶色の髪も、青い目も、日本人離れした顔立ちも、みな口を揃えて〝綺麗だ〟と言っていたが――
その時、野外からドンッという音と、大きな歓声が届く。
続けざまに地鳴りのような音が響いたことで窓辺へと目をやれば、擦りガラスの向こう側には極彩色が散っていて、波知は静かに瞼を伏せた。
「…………ねぇ…………オレのお願いひとつ聞いてくれたら、ちぃさんと一緒にいられるようにしてあげます、って言ったら、どうします?」
「……え?」
「あと、ちょっと時間はかかりますけど……この場所も、返してあげますよ」
本当は、どちらも、駆け引きの材料に使うつもりなどなかった。千草が動きを見せないのであれば、明日以降で裏からこっそり、と、考えていたことだ。
それが、脆い一面に充てられたせいで、いてもたってもいられなくなった。
「…………言えよ」
少しの間を置いて、ユキはのそのそと顔を上げてくる。一度だけ瞬きをしてから真っ直ぐに視線を合わせてきた目は、先ほどまでとは雰囲気が違う。
不安そうでいて芯が強い、いつも通りの色だ。
「メンタル的な問題があるので……何しても怒るのはナシ、が条件ですけど」
苦笑交じりに小首を傾げて、波知は身体を囲っていた腕の力を緩める。
「今夜一晩、貴方の時間を、オレに下さい」
ほんの少しでも、ユキが前を向くための自信に、支えに、なるのであれば――
欲にまみれた自己満足も、初めて、価値を持つかもしれない。
今回ばかりは、そんな言い訳が、強く背中を押す。
「………………いいよ。好きにしろ」
しばらく黙してから、ユキは何も聞き返すことをせずに一歩後ろに下がる。
離れていく細い指と、皺が付いたシャツ、甘さの混じった心地よい匂い――
「嫌いな人間の言うこと、鵜呑みにしちゃっていいんですか?」
「…………おまえ、嘘つくのヘタだもん」
名残惜しい気配を意識で追いつつ苦言を呈せば、思いがけない言葉を零される。
それは要するに――交換条件を守ると、信じてくれているということだ。
「……ちょっと待ってて下さい。すぐ戻るんで」
途端に時間が惜しくなり、波知は部屋を飛び出す。
そのまま階段を下り軒先へと出れば、夜空には大輪の花火が打ち上げられ、路地は大いに盛り上がっていた。
人波をかき分け家に戻ると、渡した袋のひとつは手つかずのまま靴箱の上に置いてあり、傍らには、持ち出さなかった煙草とライターが添えられている。隅の方にはいつもと同じ、口にリボンの結ばれた、薄ピンク色の四角い瓶がひとつ。まずは、と、残り少なくなったクロエの蓋を開け、波知は首筋と手首に匂いを振りかける。
ブランドが女物として売り出している香水は、結局、最後まで自分に馴染まなかった。
甘く透き通った匂いは、ガラムの紫煙に混ざると目が眩みそうなほど妖艶な香りになる。子供の頃から傍にあったせいで、当たり前のように感じていたが――この匂いは、千草だからこそ似合うもので、他の誰にも真似はできない。
それでも、今日だけは、気休めにはなると、自分に言い聞かせる。
「ぴざ! よーけ残っとるから、食うてまえよ」
居間から声が届いたことで、波知は大きく息を吸い込み、両手で頬を叩く。一分一秒が勿体ないと感じながらも二の足を踏んでしまう辺りは、まだ、迷いがある証拠だ。
煙草とライターをポケットにしまい、袋を提げて丸井家へと向かえば、ふいに、人の会話が耳に入るようになる。
父親にお面をねだる子供、綺麗だと感嘆する女の子たち、人ごみに辟易する老人――雑多で賑やかな雰囲気は、毎年恒例で、昔から変わらない。たとえ今日が終わったとしても、これからもずっと、この場所で続いていく。
今は無理でも次に笑うことができれば。そう胸に留めることでしか、足も前には進まない。
「こんばんは、おばちゃん。今日は賑やかでいいね」
残り物を温める傍ら、写真に挨拶をしていると、ふと、視界の隅で何かが光る。
目を凝らしてみれば、縁側の籐座椅子の横には、ビールの缶が一本。ユキが置いたのだろう酒は珍しいことに開けられておらず、また少しだけ、胸が痛む。
十年前の賑やかな食卓も、数日前に食べた不味い豆腐ハンバーグも、思い出すのは簡単なのに、もう、手が届かない。飾り棚の奥に鎮座する手作りシーサー、ガラス扉のヒビ、テレビの右端に貼り付けられた、数年前に流行ったキャラクターのシール――この場所に積み重ねられた小さな日常は、見れば見るほどに、未練を呼ぶ。
「…………ごめんね、おばちゃん」
写真の中の老婆は静かに笑うだけで、いつものように背中を押してはくれない。
「……オレ、やっぱり、ユキさんのこと突き離せないや」
囁くように懺悔を零せば、野外から届く賑わいが声を浚ってくれる。
時計の秒針のように、少しずつ刻んできた気持ちに終止符を打つ時。密かに決意した、最後にして最大の我儘は――千草と万知子への、裏切りだ。
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