05 七月三十一日(2)

 どれほどの時間ぼんやりとしていたのか、気付けば、空は朱色になっていた。

 公園の入り口まで来ては引き返す子供を見送る度、立ちあがろうとしたものの足は動かず。結局、千草を、止めることもできなかった。

 傍らに置いた携帯端末の震えが収まるのを待って、波知は、手元に視線を落とす。

 茶ばんだ紙の一枚目には、懐かしい達筆文字で「お願い」のメッセージが少し。二枚目からは個人の名前と住所、電話番号がびっしりと並んでいる。数から考えて、万知子の家に滞在していた者たちの情報だろう。

 そして、別に預けられた一枚――

「……こんなの、どうしようもないよ」 

 枠があしらわれた薄手の紙切れを前に、波知は、堪え切れず涙を零す。

 届出日の欄に六年前の明日の日付が記入された、しわしわの養子縁組届。万知子が養母になる、という内容の書類には、これまで知らなかったユキの本名や生年月日、親の名前や本籍地が載っている。二つある証人欄の左側には他の箇所と同じ筆跡で、千草の名前が書かれていたものの――判は、押されていない。

 ユキが十八歳になった年、六年前の八月一日、万知子はもうこの世にいなかった。提出されていない、養母がいない養子縁組届に、効力はない。死ぬよりも前に、未来の日付で作ったのであろう書類に、どんな願いが込められているのかを聞くこともできない。ただ、単なる紙切れになってしまった今でも、万知子が残そうとした温情は十分に伝わってくる。

 同時に、千草の意思の固さと、かねてからの言動の意味も身に沁みてわかった。

 再び着信を受けた携帯端末に肩を跳ねさせ、波知は、指先に力を込める。

 その際にふと、地面に伸びる影が、視界に入った。

 のろのろと顔を上げてみれば、小さなサンダルが後退りで砂利をにじる。一メートルほど離れた場所に立っていたのは五歳くらいの女の子で、怯えているのか、視線が合わない。

 ピンク色のワンピースに麦わら帽子、ひよこの形をしたポシェット……どことなく見覚えのある装いにはたとして、波知は手の甲で目元を擦る。彼女は、何度か公園の入口まで様子を伺いに来て、引き返して行った子だ。

「…………おにーちゃん、だいじょうぶ?」

 流石に立ち去るべきかと迷っていると、思いがけない言葉を掛けられる。

「あんまりないたら、おめめ、とけるよ」

 カバンの紐をもじもじと弄っている少女は、そっぽを向いているせいで顔が見えない。それでもわかる気遣いが、また、涙腺を刺激する。

「…………大丈夫だよ。公園、一人占めしちゃってごめんね」

 泣くのを堪えて笑ってみせれば、ちょうど正面にある帽子が大きく横に振られる。直後に傍に歩み寄ってきた少女は、何を思ったのか、目の前でごそごそとポシェットを探り始めた。

 黙って見ていると、膝の上に「サイダードリンク」と書かれたポリジュースを置かれる。続いて出てきたものは、小包装された飴がひとつと、絆創膏だ。

「あげる」

 広げられた小さな掌に視線を縫い留められたまま、波知は、ぐっと唇を引き結ぶ。

 ここに来るまでの通り道に、一軒、昔ながらの駄菓子屋があった。子供が好きそうな菓子がたくさん並ぶその店に、少女はわざわざ、自分の小遣いを持って行ってくれたのだろう。うさぎ柄の絆創膏も、家まで、取りに戻ってくれたのか。

「……ありがとう」

 水滴と冷たさが残る袋に触れると、勝手に、涙が出てくる。

「どういたしまして」

 飴を受け取って初めて、照れたような笑みを見せてくれた少女の瞳はとても綺麗で、何の邪心も伺えない。

 その姿が、昔の〝おばけ〟と重なったことで、波知は次の言葉を失った。

 止めどなく流れる涙が頬を濡らし、払われた跡がじわじわと熱を帯びる。

 走り去ってしまった子供の名前は、結局、聞けないまま。赤の他人のために大金だろう額を叩いてくれた純真さだけが、いたく胸を打ち、尾を引く。

 ユキを物のように例える千草に苛立ちを覚える影で、望まれたことが、自分の欲望と同じだという事実に気持ちが揺らいだ。いらない、という一言に、期待した。面と向かって身体の関係があると告げられた衝撃が、長年付けてきた枷を、外してしまった。

 背丈も、体格も、子供の頃とは違う。昨晩抱きしめた華奢な身体を、力ずくでねじ伏せようと思えば、簡単にできてしまう。千草が背中を押すのなら、万が一にでも、報われる可能性があるのなら――そうすることが、ユキのためになるのなら。

裏切ってきたという事実を隠したまま、道を奪い組み敷いてしまえばいい、と、嫌な考えが脳裏を過った。

 知られていないと思っていた本音を見抜かれていたことで、腹の奥には鉛のような重さが居座っている。結局のところ、どう取り繕っても根底に持っている浅ましい感情は隠せない。手に入れたい、という思いは、消すことができない。本性を肯定された今〝傍にいるために手を出さない〟という心許ない規制を、守れる自信もない。

 それでも、まだ、支えはある。

 貰ったポリジュースの袋を破き、波知は中身を取り出す。幼い頃、夏場によく買っていたこの駄菓子は、あたり付き。内側に書かれている文字を確認するのも、楽しみのひとつだった。

 とは言え〝あたればいいな〟程度の感覚で、それ以上の想いは持ったことがない。実際に当たった試しはないが、はずれたからと落胆した記憶もない。あの頃はただ、乾いた喉を潤す、また走り回れるだけの元気をくれる甘い味に価値があり、外袋は単なるおまけだった。

 現状は、その、初めから答えが決まっているおまけに執着しているようなものだ。

 水色のボトルの先端を歯でねじ切ると、口角が、ズキズキと痛む。泣きすぎたせいで重い頭と沁みる傷跡は、成長に伴い得たもので。サイダーと謳いながらも炭酸が抜けたような味のする飲み物には、懐かしさと、優しさを感じる。

「…………やっぱりかぁ」

 広げた袋を空に翳せば、沈みかけている夕日が、文字を照らす。

「これ、あたり、入ってるのかなぁ」

 光に透けた答えは〝はずれ〟

 期待を裏切らない結果に苦笑を浮かべた波知は、少しのあいだ思い出に浸ってから――覚悟を決めて、現実に、目を向けた。

 飴と紙束をポケットにしまいこみ端末を手に取ると、チカチカと光るランプと共に、着信二十件の文字が飛び込んでくる。どういう内訳なのかを考えればまた、逃げたくなったものの、いつまでも公園を占拠するわけにはいかない。

 思い立って、先ほど渡された絆創膏の外袋をめくってみると、もう一匹、同じ顔をしたうさぎが出てくる。まるで少女の人柄を表すかのような愛らしい模様は、心を諌めると共に少しだけ勇気をくれて、波知は小さく「ありがとう」と呟いた。

 携帯端末の裏に絆創膏を貼りつけ、画面に指を添えると、否応なく心拍数が上がる。

 意を決して開いた履歴は、全てが兄貴分と厳三からのもので――ユキからの着信やメールは一件もない。

「……よかった」

 まだ間に合う、そう思えただけで、上出来だった。

 仕事をすっぽかしたことによるお怒りは後回しにして、波知は電話帳を探っていく。

 数年ぶりに通話を試みた相手は、珍しい事態に驚いたのかワンコールで出てくれ、開口一番から『元気か』『楽しくやってるか』といった、少々親父じみた心配をしてくれた。

「あのね。ちょっとお願いがあるんだ」

 世間話もほどほどに用件を切り出すと、なんだ、と、言葉を返される。

 少し迷ったものの、事情と要望を濁して告げれば、電話口の向こうからは『わかった』という了承だけが聞こえてきた。

 通話を終え、目に飛び込んできた時刻は、午後七時。

 いつもであれば、丸井家で夕飯を食べ始めている頃だ。

「…………流石に無理かなぁ…………」

 暗転した画面に映る顔を見つめて、波知は目を眇める。瞼も顔も無残に腫れ上がっていて、服も血まみれ。精神的な問題以前に、この姿で、足を運ぶわけにはいかない。

『おまえは、いったい、何をしとんのや!』

 十一件の着信主に電話を掛けると、第一声で怒鳴られる。

 かなりご立腹だったのか、謝る間もくれずに懇々と罵声を吐き続けた厳三は、噎せてやっと喋ることをやめてくれた。

「ちぃさんと会って、話してました」

『…………そうか』

 隙を見て理由を告げると、咳払いと共に、意外とあっさりした返答がくる。

「……厳さん……オレ、今日、行けそうにないから……」

 だが、内容から大方の事情は察してくれたのか。

「……張り紙、捨てて……ユキさんと一緒に晩御飯、食べてあげてくれない?」

 声の震えを抑えながら呟いたお願いには、長いため息が返ってきた。

『ぴざ』

「……え?」

『宅配ぴざ、いうのあるやろ。あれ、万知さんのとこに届けさせ。新発売の、すぺしゃるせぶんいうやつ。普通のサイズで、生地はふわふわな』

 あとそれから、と、ポテトにフライドチキン、ポップコーンシュリンプ、コーラ、ティラミスと食べきれないであろう数の品名を並べた上で、厳三は『二枚目無料券は、しーふーどぴざで、生地はくりすぴー』と付け足してくる。よほど、ポストに投函されているチラシが気になっていたのか、見事なまでのメニュー把握具合だ。

 齢八十の老人の、ここぞとばかりの注文に苦笑を洩らすと、ふんっと鼻を鳴らされる。

『今日だけやからな。……明日は、絶対、帰って来い』

 ただ、さっさと電話を切ってしまった厳三にも何かしらの思いがあるのだろう。今日だけ、明日は、という言葉が添えられていたことで、波知は携帯端末をぎゅっと握りしめた。

 二年間まずい飯を食べ続けたユキは、きっと、本日の夕飯を喜ぶ。厳三と二人、蚊取り線香を焚いた縁側に座って、ジャンクフードに舌鼓を打ってくれる。量が多すぎると文句を垂れながらも、夜中にこっそりつまんでいるかもしれない。

 そんな姿を想像していたら、再び、涙が込み上げてくる。

 これまでにも何度か、仕事や所用で丸井家に行けない日はあった。もちろん、ユキは気にしていなかったが――今日は、せめて、一人にしたくない。

 画面にぽたぽたと落ちる雫を見据え、波知は、人差し指で絆創膏の感触を確かめる。

「だったら、あいつに選ばせろ」

 千草の望みは、残酷で、救いようのないものだ。

 示された道は二つ。考えることを放棄させ従わせるか、辛い思いを強いて向き合わせるか。そのどちらを選んでも、ユキは傷つく。

 本当は、知らないふりをして傍で慰め、甘やかし、楽な方へと導きたい。そうすることが誰にとっても最善の体だと思う。ただ〝おばけ〟が居場所を見つけて幸せになるには、心から笑うためには――自分を、逃げるという道を、選ばせてはいけない。

 ここで現実から目を背けてしまえば、全員が、後悔する。

 どれだけ恨まれても、この先、たとえ傍にいられなくなっても。

 行くべき場所に続く道を作ってあげることが、元より嫌われている自身の役どころだと言い聞かせ、波知は瞼を伏せる。

 子供の頃、純粋な気持ちで追いかけていた背中を、脳裏に焼き付ける。

 一緒に待つということが叶わなくなってしまった今、ユキにしてあげられることは少ない。まずは宅配ピザを頼み、数年帰っていないハイツを掃除し、煙草を買い溜め、実家に出向く。残り一日でどこまでのことができるかはわからないが、動かないことには始まらない。

 心を決めて公園を後にすると、頭上で、野外電灯がチカチカと点滅する。

 路地を進んでいけば、ほどなくしてシャッターを下ろした駄菓子屋が横目に入り――波知はまた、足を止めて泣いた。

 次に泣くのは、全てに決着がついた時。

 臆病になるのも、迷うのも――今日で、最後だ。

 喉の苦しさを隠すことなく曝け出し、空を仰ぐと、昔見た飴玉のような瞳が脳裏に蘇る。

 これからたくさん泣き、悩むだろう〝おばけ〟が、新しい居場所で笑ってくれたら。

 ただそれだけを願い、見つめ続けた夜空には、星が満ちていた。

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