05 七月三十一日(3)

 どこが面白いのかが分からないお笑い番組を一瞥して、ユキは机に突っ伏す。

 目線の先に立てた煙草を指で弾いてはまた元の位置に戻しを繰り返していると、諮ったかのように画面の中から甲高い笑い声が飛んできて、知らずと肩が竦んだ。

 昨晩奇妙な行動を取ってから、ハチは姿を見せていない。それ以前に送ったメールの返信も、朝のメールも、朝食もなし。挙句、夕飯には食べきれないほどのピザを注文し、代わりに厳三が訪ねてくるという奇妙な状態だ。

 音沙汰のない携帯を手に、ユキは腹這いの状態で床を進む。いつからか甘い匂いのしなくなったジーンズやジャケットを退け、ソファに転がり込んでやっと、気持ちは落ち着いたものの――自問自答は、絶えない。

「…………やっぱ、ハチの方がよかったのかな」

 あちこちが剥がれてしまっている土壁に指を添えると、勝手に身体が丸くなる。

 綺麗だった壁をひっかいてしまったのは、ここに来てちょうど一年目。

〝爪とぎ板〟と揶揄されていた場所と向き合えるようになるまでには、三年かかった。

 女の絶えなかった千草にとって、男の身体はさぞ面倒で、魅力に欠けるものだっただろう。

 だからこそユキは、どれだけ雑に扱われようとも、黙っていた。たとえ憂さ晴らしでも、性欲処理の道具だったとしても、使い道があるだけで十分だと、自分に言い聞かせていた。

 痛みと恐怖しかなかった行為に意味をこじつけ、価値を見出すのに、必死だった。

 抱き締められたこともなければ、頭を撫でられたことも、愛しげに名前を呼ばれたこともない。記憶の中にいる千草はいつも横暴で、笑顔も優しい声も、別の誰かのもの。もちろん、その位置を欲しいと望んだことも、成り替われると思ったこともない。

 大方ハチは、一番身近な比較対象で、届かない場所にいる相手だ。

 存分に甘やかされ可愛がられる様を、薄汚れた姿のまま傍で見続けることが――自身の受けるべき罰で、千草が望む報復なのだと、あの時までは思っていた。

 唯一、居心地がいいと感じられる空間で、ユキは膝を抱える。

 五年前から、千草は「ババァの三回忌が過ぎたら、家を売る」と言っていた。

 その期日を過ぎた二年前に「おまえが出て行かないなら、俺が出て行く」と、告げられた。

 否定も肯定もできず、いつものように頭を押さえこまれた最中に聞こえた言葉は、断片的にしか覚えていない。

〝おまえとヤるのはこれが最後だ〟

〝ハチも呼ぶか〟

〝おまえの情けねぇツラみたら、ちったぁ頑張るだろ〟

 咄嗟に抗い手を上げてしまったことも、しこたま殴られたことも、未だに尾を引いている。

 なにより、あの日――ハチに自分の価値を奪われたというやるせなさが、生まれて初めて足元を突き崩された感覚が、今も忘れられない。

 重い身体を持ちあげ、ユキはソファのふちに手をかける。

 どれだけ粘ったところで、この場所も、自分も、もう必要ないのだろう。携帯電話を開いてみたところで新しい表示はなく、いよいよ嫌な予感がする。

 疎ましくて大嫌いなハチは、後ろめたさからなのか献身的で、これまでずっと数時間後、数日後の約束をしてくれていた。嘘が下手ゆえに、無理なことは無理だと口に出し「わかりました」と了承した事柄は、大きく違えたことがない。

 だからこそ、終わりを知っていても、待つことができた。

 まだここに、自分の価値はあるのだと信じられた。

 見慣れた部屋を一通り眺めてから、ユキはぎゅっと目を閉じる。

「…………頼むから、帰ってきて」

 二人が連れ添うことに、不満はない。

 大切にしてきた場所を、価値を、最後には全て奪われ、裏切られる――そのためだけの存在だったとしても、構わない。

 ただ、止めを刺すのはどうか、ハチではなく、千草自身であって欲しいと祈る。

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