05 七月三十一日


 普通電車しか止まらない小さな町には、遊べるような環境がない。

 路地のほとんどは住宅やハイツに占められていて、あとは学校、病院、個人経営の飲食店にスーパー。最近になってやっと、コンビニが数軒できたものの、夜間は相変わらず静かだ。

 見かけるのは、年寄りと家族連ればかり。余所から越してきた人間が多いのか、近所付き合いはおろか挨拶もほぼしない。お陰で――これまで居所を掴まれることなく過ごせた。

 欠伸混じりに煙草をふかし、千草は公園へと向かう。

 普段ははしゃぎ声に占領されている場所は、アニメが放送されている時間帯だからなのか、子供の姿がない。代わりに、懐かしい人物がひとり、ベンチに鎮座している。

「よぉ」

 日向で項垂れている頭に声を掛けると、返事の代わりに勢いよく立ちあがられる。

 いつから待っていたのか、腕にも汗を滲ませている波知は――二年前から比べると、少し大人びて、男臭くなっていた。

「……でかくなったなぁ」

 日に焼けた顔と、汚れたツナギをしみじみと見つめ、千草は苦笑を洩らす。

 記憶の中では少しばかり低かった背丈に、今や、五センチほど差がついている。見上げなければいけなくなってしまった時点で、もはや〝チビ〟とは呼べない。

 とは言え、中身はひとつも変わっていないのだろう。

 波知が単身、何も持たず手ぶらでやってきた時点で、現状は察せた。

「あいつ、生きてんの?」

 一応はと聞いてみれば、正面にある顔が苦悶を滲ませ、小さな頷きを落とす。

 資金力も生活力もない状態の由貴が、一人で生きていける筈はない。自分が家を出ればその時点から――波知と厳三が世話を焼くだろうと、千草は踏んでいた。

 そのため、この場に由貴が来ない、権利書がない、という展開は予想外だ。

「……今、あいつを飼ってんのはおまえだよな」

「飼う、って……」

 呆れ交じりに確認すると、波知は一瞬目を丸くして、そのまま黙り込んでしまう。

 溜息と一緒に紫煙を吐き出した千草は、どうしてこうも臆病になっているのかと思う半面で――まだ駄目か、と、妙な納得感を覚えた。

「……ユキさんが生きてて、おばちゃんの家で生活してるって、携帯とか……光熱費、出してるならちぃさんわかってますよね。だったら……」

 煙草の火を消していると、尻切れになった言葉が耳に入る。

「あー……何。ジジィ言ってねぇの?」

「……厳さん、が、何ですか?」

「ババァの家の維持費とか諸々……あと俺が使ってた携帯? ジジィが金払ってんだよ。俺名義の通帳作って」

 どうやら何かを誤解していた様子の波知は、話を聞くなり眉を顰めて、俯いてしまう。

 携帯は、居場所を探知されないために、データを消した上で置いてきた。由貴が使う可能性を考えて波知の連絡先だけは残したものの、後のことは知らない。光熱費に関しても、勝手に話を通すだろうと放置していたら、これだ。

 一体、何をどうしたいのか。行動に対して目的が見えてこない厳三は、やはり食えない。

 気を取り直し、まずは目の前の問題を、と、千草は首を斜にする。

「とりあえずな。あいつは餌くれて、面倒見てくれる人間の言うことなら何でも聞く。そういう風に躾けられてるから、さっさと首輪付けて連れていけ」

 顔を覗きこんでみれば、波知は黙って唇を噛み――大きな目に涙を溜めていた。

「……それ、本気で言ってるんですか?」

 怒っているのか、泣くのを堪えているのか、握りしめられた拳は震えている。

「ユキさん、ずっと、あの家でちぃさんが帰ってくるの待ってるんですよ?」

 感情を抑えるかのような声と、零れた内容、どちらが火種だったのかはわからない。

 ふいに、腹の奥に燻っていた苛立ちを炙られたことで、千草は一歩前に進み出た。

「言わなきゃわかんねぇなら、言ってやる」

 顔に皮肉めいた笑みが浮かぶと同時、直観的な滾りが、全身を駆け巡る。

 ただ、正面にいる男も同じく、耐えきれない衝動に苛まれていたのだろう。

「俺はもう、あいつもあの家も、いらねぇんだよ」

 そう、言い切った瞬間、頬に鈍い痛みが走った。

 条件反射で足に力を込めると、口の中には血の味が広がる。脳が揺れるような衝撃に、疼くような鈍痛、どちらも久しく体感していないもので、千草は自然と目を眇めた。

 視界のぼやけが解消されるなり、勝手に身体が動いたのは――慣れだ。

 お人好しなのか馬鹿なのか、殴ってきた張本人は〝やってしまった〟と言わんばかりの表情で立っていて、蹴り飛ばせば対応もできずに転んでしまう。地面に腰をつけたままぽかんとしている辺り、状況も、よくわかっていない。

「戻るもなにも、くれてやる気で置いてきたっつーのに……おまえに自力で取れるだけの度量がねぇなら、このまま、俺が使って捨てるまでだ」

 盛大に煽って、やっと、腑抜けていた顔つきが一変する。

「せいぜい妄想に浸って、大好きな〝ユキさん〟観賞してろ」

 常々思っていた皮肉を吐き捨てれば、こちらも神経の糸が切れてしまったのか、波知は勢いよく被りを振るってきた。

 避けるついでに顔を薙ぎ払うも、今度は倒れることなく、脇を取られる。そのまま、体制を立て直すこともできず地面に放り投げられた千草は――不覚にも、楽しくなってきた。

 体格の差は目に見えてわかっていたが、力の強さでももう、敵いそうにない。かつては胡坐の間に収まっていた、転んで擦り傷を作っただけでも大泣きしていた子供が、動じることもなければ、泣きもしない。

 蹴りを交わせば首の襟を掴まれ、思い切りよく地面へと引き倒される。だが、まだ遠慮があるのか、追い打ちをかけてこないあたりは波知らしい。

「やっぱ甘ぇな、チビ!」

 胸倉を掴んだ状態のまま制止されたことで、千草は、眼前の顔に渾身の頭突きをかます。

一瞬ひるんだ隙を見て起き上り、拳を振り上げれば――

「千草!?」

 突然、後方から、名前を呼ばれた。

 聞き馴染んだ声に否応なく動きを止められると同時、波知も、目線の向きを変える。

「君、大丈夫!?」

 慌てて駆け寄ってきた同居人は、自分の方が先に殴られたとは考えてもいないのだろう。

「……もう喧嘩はしないって、約束したの誰だったっけ?」

 マウントを取っている波知を心配するのと並行で、すこぶる不満そうに睨みつけてきた。

「……ちょっとじゃれてたら、ヒートアップしただけだし」

 弁解したところで機嫌は直らないと踏み、千草は、行き場の無くなった拳を下げる。

 お互いに殴り合いの跡がある時点で通らない言い分だが、他に、言葉もない。

「な、ハチ」

 予想通り固まっている波知に同意を求めると、探るような視線を向けられる。数秒、目線で訴えてみれば小さな頷きを貰えたものの、やはり、同居人には通じなかったようだ。

 軽く頬を叩かれた上で「今日の夕飯、抜き」の通達が、降ってきた。

「……病院行ったんじゃねぇのかよ……」

「たかが診察に何時間かかると思ってんのよ」

「………………あー……そうですね、ごめんなさい。……とりあえず、帰って?」

 想定外も想定外、会わせるつもりのなかった人物の急な乱入に、千草は頭を垂れる。

 面倒だからと、波知を家の近所に呼びだしたことが失敗だった。

「………………喧嘩しねぇから」

 後頭部に痛いほどの視線を感じたことで溜息を吐くと、今度は、背中を叩かれる。

「ごめんね、ハチ君? これ使って」

 その後で波知に何かを渡した様子の同居人は、何やらぶつぶつと文句を垂れた上で、帰路についてくれた。

 陽光が照りつける長閑な公園で、蝉だけが、煩く喚く。

「……ちぃさん……あのひと……」

 砂利を踏む音が途絶えるのを待ってから顔を上げれば、波知はポケットティッシュを持った状態で、じっと路地を見つめている。払った左頬は腫れ上がり、頭突きが原因なのか、いつの間にか鼻血が出ていて口元も血だらけ――これでは確かに、怒られるわけだ。

「一緒に住んでる」

 もはや隠す意味もない、と諦め、千草は、苦笑交じりにふわふわの頭を撫でる。

途端に大粒の涙を零した波知は、暫くのあいだ、黙って泣いていた。

「……いつからですか」

 ベンチに腰を据え煙草を咥えれば、掠れ声で問いかけられる。

「完全に転がり込んだのは二年前だけど。正味なとこは五年くらい」

「…………オレらに黙って借金作ったのも、あの人のためですか?」

「……あー……」

 続いた質問には少し迷って紫煙をくゆらせると、波知はそれ以上、何も言わなかった。

 代わりに、地面に正座をされ、真剣な表情で見据えられる。

「……家、売るの、明後日じゃだめですか」

 明後日。

 その日を望む意味は、聞かずともわかる。

 ただ――波知にとっての〝明後日〟と、自分にとっての〝明後日〟は、価値が違う。

「契約は今日だ。どうにかしてぇなら、おまえが動け」

 片方の口角を上げて、千草は、血と涙でぐしゃぐしゃになっている顔を手の甲で擦る。

「いるいらねぇは別としてな。さっき言ったのが、俺の本音だ」

「……さっき?」

「おまえが自力で奪えねぇようなら、このまま俺が使う。あいつも、あの家も」

 再度牽制してやれば、波知は少しだけ眉を顰めて、また掌を握りしめていた。

 一度発散したお陰なのか、先ほどのように急に殴りかかってくる気配はない。とは言え、これ以上の発破掛けは本末転倒になりかねないので、やめておく。

「代わりに、いいもんやるよ」

 空気を変えるべく、千草は本日最大の目的をポケットから探り出し、目下の膝に放る。

「……なんですか」

「ババァの、クソめんどくせー遺言」

 万知子がわざわざ弁護士に預けていた遺言書は、まさかの紙切れで十五枚、期限指定付き。遺産についての項目もなければ、有益な情報も何一つ書かれていない。ただただ、とてつもなく面倒なお願い、という名の我儘が羅列されている。

 とは言え、使う者によっては、価値のある代物になるだろう。

「……オレ、ちぃさんが何考えてるのか、全然わかんないです」

「だろうな」

 ポケットティッシュと分厚い紙束を手に俯いてしまった波知に、千草は忍び笑いを送る。

 本来考えていた過程と現状は、あまりにも違いすぎて、自分ですら戸惑う。かつての奔放さがあればすぐに見える結末も、今の腑抜けた波知では、掴めそうにない。

 だが、その臆病さに、別の道を賭けてみる意味はあると思えた。

「一応聞くけど、チビ、まだあいつとヤってねぇよな?」

 立ち上がるついでに話を振ってみると、目下の肩が大きく跳ねる。

「………………好きな人がいる人に、手を出す、趣味はないんで」

 本心を指摘された羞恥心からなのか、確かめるように紡がれた言葉は明らかに震えている。

「ほんっと、甘いなぁ」

 尋ねたこともなければ、告げられたこともない。初めて会った日にはおもちゃ感覚で欲しがっていたものに、波知が別の感情を抱いていることは、変調は、傍で見てきたからこそすぐにわかった。長い間ずっと、気持ちを押し殺して想い続けていることも知っている。隠し事が下手な不器用さも、聞けば教えてくれる素直さも、昔から変わらない。

 だからこそ――千草は、波知を選んだ。

「あいつは、おまえが思ってるほど身持ちも意思も固くねぇよ。言えば簡単に股開くし、一回従わせさえすりゃあ、後はずーっと従順だ」

「…………そんなこと」

「あるんだよ。……つーか、俺が言ってることの意味、理解してねぇだろ」

 項垂れたままぼそぼそと喋る姿に呆れて、千草は腰に手をあてる。

「あいつを囲いたいっつー馬鹿、結構いたからな」

「…………」

「引きこもっててアレなら、外に出したらすぐ食われる」

 黙り込んでしまった波知にも、心当たりはあるのか。

 実際のところ、由貴に目を掛ける物好きな輩は、ボロ宿の滞在者の中にも一定数いた。

「それでも、首輪、付ける気はねぇか?」

「…………はい」

「ヤったら、確実に落とせるっつってもか?」

 最後にもう一段階たたみ掛けた上で、千草は言葉を待つ。

「そんなことで傾かないですよ。あの人は」

 間も置かず、答えにならない否定をくれた波知は、顔を上げるなりふっと表情を緩めた。

 意思が強いのか、弱いのか、まるで諦めているかのような笑い方は、なかなか癪に障る。家を出てから今日までの間に、十四年を過ごしたうちに、何があったのかはわからないが――兎にも角にも、目の前の男は、面倒な方向に成長してしまった。

「わかった」

 宣戦布告にも似た状況に内心で安堵して、千草は金色の髪をぐしゃぐしゃに撫でる。

「じゃあ、俺がもっかい首輪付けてやるよ」

「……え?」

「飼いはしねぇけどな。おまえらが答え出すまでは付き合ってやる」

 これは、果てしない遠回りだ。

 それでも、最良の未来に繋がる道なのであれば、苦ではない。

「オレの答えは、もう、出てますよ」

 蒸し暑い、夏の日の夜。

 一度だけ選び間違えた分岐点が、正しきれない、大きな歪みを生んだ。

「おばけが笑ってくれて……ちぃさんにも、幸せになって欲しい」

 泣きそうな顔で笑う優しい男に、自分の背中を見てきた幼い子供に、託すことではない。

 そう、わかってはいても、願うことはひとつ――

「だったら」

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