04 七月三十日(3)
窮屈な湯船に浸かり、ユキは膝を抱える。
蛇口を捻ることでしか温度調整ができない風呂は、入れてから時間が経っているせいか非常にぬるい。とはいえ、元々湯に浸かる習慣がないために、こだわりもない。
水面につくまで伸びてしまった髪も、放置しすぎたせいで斑色になっている。
丸井家に来てからは、千草が口煩く容姿に手を入れていたお陰で〝それなり〟にはなっていたが――素に戻れば、この様だ。
「…………」
子供の頃はどうでもよかった風体が、汚点だと感じるようになったのは、外の世界を知ってから。青い目も、薄茶色の髪も、色素の薄い肌も、自分の持つもの全てが、ユキは嫌いで仕方がなかった。
それでもやってこられたのは、この家にいたからだ。
ただ存在しているだけで意味のないもの、に意味をくれたのも千草と万知子で――だからこそ、一人取り残された今となっては、どうでもいい。
湯船から掌を浮上させると、今度は伸ばしっぱなしになっている爪が視界に入る。
こちらも、最後に切ったのはいつだったのか。以前は短くしていないとすぐに欠けてしまった爪が、女のように綺麗な形を保っていたことで、ユキは溜息を吐いた。
考えるのに飽きて風呂から出ると、心持ち、すっきりとした気分になる。脱衣所の扉を開けた時、熱気が逃げるのと同時に涼しい空気が身体を包む感覚は、嫌いではない。
虫の声を聞きながら適当に髪を拭いていると、廊下で小さな物音がたつ。
古い家ゆえ、誰もいないところで音がするのはしょっちゅうのこと。隙間風か、軋みか、はたまた老朽か――木の鳴らす音ともなれば余計、日常の一部となっていたために、ユキは暫くのあいだ、それが人工的なものだということに気付かなかった。
ギッという床板を踏む音が継続して聞こえてきたことで、知らずと手の動きが止まる。
風呂に入る前に確認した時刻は、深夜の二時。
聞き間違いかと思いよくよく耳を澄ませてみれば、足音は、控え目ながらも着実に近づいてくる。この時点でユキは、一番現実的で、最も望んでいる可能性に、思い至った。
慌てて服を掴み取りズボンに片足を通せば、ぴたりと音が止む。
シャツを着る間も惜しんで廊下に飛び出すと――階段の下には、影がひとつ、佇んでいる。
「……千草?」
ただ、半信半疑に声を掛けたところで、違和感を覚えた。
「……ハチか?」
背格好から思い浮かんだ名前を呼んでみると、暗がりの中で影が揺れる。
返事はなかったものの、電気をつければ案の定、階段の麓には数時間前に帰った筈の男がいて、ユキは眉根を寄せた。
「何してんだよ」
怪訝さを露わにして問うと、ハチは少しだけ驚いたような顔をしてから、へらっとした笑みを返してくる。いつものように、軽口を叩くことも、慌てる様子もない。
牽制しようと正面まで歩を進めてみても、やはり動きはなく、大人しく笑うだけ――
人一人が通れるかどうかの階段口に立ち塞がり退きそうもないハチを前に、ユキは、一気に不安を煽りたてられる。
その反面で、普段とは異なる態度と雰囲気が、妙に気にかかった。
「……どうかしたのか?」
思ったままのことを口にすると、眼前にある表情が一瞬だけ揺らぎを見せる。
「……何となく……来たいなぁって思って」
わけのわからない発言と共に俯いてしまったハチは、今にも泣きそうな顔をしていて、ユキは条件反射で押し黙った。
問い質すべきか、放っておくべきかを迷っていると、ふいに手首を掴まれる。痛みを感じるほどきつく捕らわれたことで視線を落とせば、次の瞬間には勝手に足が前へと進んでいて、どうにも対応ができなかった。
引き寄せたかと思えば肩に傾れかかってきたハチは、おまけで腰に腕を回してくる。
押し退けようにも力が強すぎて、手を挟む隙間すら作り出せない。
「……酔ってんの?」
「…………どうでしょうね」
適当な質問をすると更に強く抱きしめられ、ユキは渋々、足掻くことをやめる。酔っているのかは定かでなかったものの、ハチが、ここまでの奇行に出たことはなかったからだ。
肩口に当たる髪は見た目以上に柔らかく、肌に触れるとくすぐったい。至近距離で、太陽と汗、整髪料の匂いがするという状況に頭が追い付かない中、ただ漠然と思ったことは――ハチ自身の匂いは、嫌いではないということだった。
時間を置いているせいか、クロエの香りは薄れ、花を彷彿させるものに変わっている。嫌気が差すほどの香水臭さも、生活感を伺えない甘い匂いも、ここにはない。いくら同じ嗜好品を使っているとはいえ、ハチと千草は全く違っていて、途端に居心地が悪くなる。
「いい加減に、離れろ」
はたとして腕を引き剥がしにかかると、先ほどとは違い、あっさりと拘束が解ける。
「……ユキさん」
のろのろと頭を持ちあげたハチは、確かめるように名前を呼んだあとで――
「ありがと」
なぜだか嬉しそうに笑って、礼を言った。
「ちゃんと髪乾かして寝て下さいね。戸締りも、忘れずに」
掛けていたことすら忘れていたタオルの端で髪を拭かれ、お節介な注意をされる。
睨んでやろうと顔を上げた時に気づいた身長差は、知らない間に頭ひとつ分ほどになっていて、ユキは思わず視線を逸らした。
「……とっとと帰れ、酔っ払い」
前方にある脛を力任せに蹴り飛ばすと、垂れた双眸が細くなる。
「ほんと、足癖悪いっすね」
いつの間にか、ハチは、泣くこともなければ〝痛い〟とすら言わなくなった。
いつの間にか、自分ではなく千草と、同じ目線の高さになっていた。
風呂上がりだったことが幸いして適温に感じていた廊下が、徐々に蒸し暑くなってくる。
会話の終わりを機に階段に足をかければ、背後でハチも、方向転換をした気配があった。
「ユキさん」
扉の前に立つと、階下から、名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「いってきます」
今日が、終わりではないよう。
震える指先を掌で隠し、ユキは目を伏せる。
太陽の下が似合う笑顔も、千草のうしろをついて歩く姿も、憎たらしいほどに可愛かった。昔から変わらない素直さと感情表現に、敵うとも、思っていない。みんなから大切にされ、愛される理由も、痛いほどにわかっている。
だからこそユキは、自分の傍で笑い続けるハチが――未だに現実を認められない自分が、大嫌いで、憎かった。
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