04 七月三十日(2)


 隣家の二階から顔を覗かせる人物と、幼い頃に祭で一度だけ会った〝おばけ〟が同じ人間だということには、間近で風体を見るまで気付けなかった。

 ずっと丸井家にいた筈なのに、万知子の葬式までの間、一度も顔を合わせることがなかったのは、ユキの元来の性格と千草の思惑のせいなのだろう。

 年月を経て対面した〝おばけ〟は、健康的な肉付きになり、綺麗な色の長い髪も、黒く染められ短くなっていた。乏しかった表情にも変化が付き、憎まれ口を、叩くようになっていた。

 当たり前のように千草の隣で、警戒心を、張り巡らせていた。

 唯一変わらなかったのは、瞳の色だけ。

 ただ、その眼光の鋭さを目の当たりにして改めて、波知は、自分の持つ感情が〝ユキ〟と〝おばけ〟どちらに向くものなのかが、わからなくなった。

 年に一度、夏だけに訪れる場所でしか見ることが叶わなかった、綺麗な景色。

 落ちた日を背にした横顔も、柔らかな表情も、嬉しそうな「おかえり」という声が降ってくる光景も、全て〝ユキ〟が千草に向けたものだ。望んだところで、手には入らない。

 それでも〝おばけ〟なら、と欲を出してしまったことが、自分にも届くと思い込んでしまった、浅はかさが――今を招いた。


「ただいま」

 打ち水をしている背中に声を掛け、波知はいつものように、隣家を望む。

 時刻は、午後六時半。春夏秋冬、どんな天候の時でも必ず夕刻になれば開いている二階の窓が、今日はどうしてか、閉されている。しばらく待ってみても、ユキは、一向に顔を出さない。

 具合が悪いのか、はたまた寝ているのか。そんな当たり前の事情よりも先に、嫌な思考が脳裏を過ったことで、波知は買い物袋を握りしめる。

「げ、厳さん、あの」

 やっとのことで声を絞り出せば、厳三は横目で何かを確認し、自らの家を顎でしゃくる。

 一瞬だけ逸れた視線の意味を察した波知は、重い足を踏み出すと同時に、ユキがまだ丸井家にいるという確信を得て、安堵した。

 壁に挟まれた細い空間を抜けると、殺風景な小庭に出る。誰かを招くためでも、景観を楽しむためでもない、ただ空いたスペースに物を置いただけの場所は、庭というより倉庫に近い。

「……昼に、葉月が来とった」

 雨に晒され、座面が破れた椅子に腰を据え、厳三は溜息を吐く。

 思いもよらない名前が出たことで足を止めた波知は、ひとまず動揺を諌めようと、荷物を下ろした。

「…………本格的に、買収かかった、ってことだよね」

「……せやな」

「厳さんの方は…………」

「…………いや、まだや」

 上手く会話が続かない中で、互いが、確認の確認をする。

 小声で進むやりとりは、案の定、家の前では堂々と喋ることが出来ない内容だ。

 県や市とは無関係なところでの大規模開発を推進する、港英コーポレーション。現在、国内で発展途上にあるデベロッパー会社の背後には――関西で名知れの極道一家が絡んでいる。

 時間をかけ綿密な計画を遂行する企業と、どのような汚い仕事でも請け負う裏業界。二者が繋がっているということは一部では有名な話で、成長ぶりが著しいことから、揶揄の意味を込めて「表裏一体の革新組織」と噂する者も多い。

 快く土地を売却する所有者に対しての見返りが大きく、周囲で暮らす人にとっては利便性の高いものを造ることから、港英自体の評判は悪くない。だが、その実――大多数が受ける〝恩恵〟の裏では、売却を拒んだり、提示した条件を跳ねのけた所有者が、悲惨なほどの追い込みをかけられている。

 手法としては、表面上からはわからない巧妙さで負債を負わせ、土地を手放さなければいけない状況を作り出す。叩き落とした条件でも飲まなければいけない程に追い詰めたあとで、更に提示額を下げる、といった体だ。こうして生まれた利益が、大多数の得る見返りと、極道への報酬、顧客になっている。

――ゆえに最近では、港英からの話を蹴る人間自体が、珍しい。

「あとから西嶋の若い衆も来とったから……ちー坊の居場所は、割れてない思うんやけどな」

 唐突に耳をついた〝ちー坊〟という言い回しに、条件反射で肩が跳ねる。

 厳三と波知は――この「表裏一体の革新組織」に、遠からず縁がある。千草はそれを知りながらも独断で、利を得ない側に回った。

「港英が動いたゆうこっちゃ、時間の問題や」

「…………そっか」

 いつか、と思っていた事態がふいに訪れたことで、波知は返す言葉もなく俯く。

 時間を稼いでいるのか、急かしているのか。気まぐれな千草が、どういう意図で借金を作り雲隠れしているのかは知る由もないが――自分一人の力では手掛かりすら掴めなかった男も、大きな波が動けば、すぐに見つかるだろう。

 そうなれば、今のこの生活も、必然的に終わる。

「……欲を言えば……もうちょっと、時間欲しかったなぁ……」

 思ったことを口に出すと、間髪入れずに背中を叩かれる。

「…………すまんな。なんもできんで」

 行動に反して弱々しい声で呟いた厳三は、いつも以上にしょぼくれた様子で、突っかけサンダルをぶらつかせていた。

「厳さんのせいじゃないでしょ」

 元気づける意味を込めて、波知は丸まった肩を摩る。

 どう動いたところで、決まっている事柄を覆すことも、起きてしまった失態をやり直すこともできない。この先ユキが、全てを明かした自分を受け入れてくれることも、ないだろう。

 そう、この二年で認め、諦めた時点で――波知は、心の置きどころを決めていた。

「オレは、ユキさんが幸せなら、それでいいしね」

 あと何回、見られるかがわからない風景に目を細めると、ぬるい風が木々を揺らす。

 時間の流れは早いもので、いつの間にか、瓦屋根の上では一等星が瞬いていた。

「……なち」

 ふと、俯き気味だった頭が持ち上がってくる。

「おまえまさか、よし坊に言わん気か?」

「…………何を言っても、結果は変わらないでしょ」

 探るような視線を向けていた厳三は、本音を告げるなり顔を顰め、ぽりぽりと頬を掻いた。

「…………何で、そんなひんまがった性格になってもうたんかな…………」

「これでも、ちぃさんよりはひんまがってないつもりなんだけど」

 何やらぶつぶつと呟いている養い親に苦笑を送り、波知は、買い物袋を手に取る。

 性格をひんまげた原因の一人は、紛れもなく目の前にいるのだが、その辺りはご愛嬌だ。

「…………ほんまに、男らしないやっちゃ」

 庭から出ようとすれば、背中に、これみよがしな文句が届く。

 重々承知しているものの、それは厳三にも言えることで、波知は忍び笑いを零した。

 シャッターで閉ざされた店の中に陳列されている文房具たちは、いつから売れていないのかパッケージが色褪せていて、おまけに埃まで被っている。綺麗好きだと豪語しているにも関わらず店内の掃除をしないのは、現状、中に入る人間が波知以外にはいないからだ。

 塀の前に並べられたプランターには、今年もたくさんの風船蔓が実った。錆びたバケツも、取っ手が捥げそうな柄杓も、全ては四十年以上前から、この場所にある。

 たった一人の人間のために、これまで築いてきた地位を捨て、不便極まりない家に移り住んだ厳三は男前だと、波知は思う。最後まで、愛する人が大切にしていた場所の傍らに寄り添おうとすることにも、感服している。

 ただ、度量のない自分には、倣えそうもない。

 借金の返済を迫る罵詈雑言をひとつずつ剥がし、波知は指先に力を込める。

 毎日のように並べられる〝さっさと出ていけ〟という文字は、隠したところで、何の解決にもならない。自分にできることはちっぽけなもので、どう暗示をかけたところで、何一つ、守れていないのが現実だ。

「……おまえ、何やってんの?」

 張り紙を手に路地に佇んでいると、ふいに頭上から、声が降ってくる。

 二階の窓辺に目をやれば、起き抜けなのかユキは気だるそうに欠伸をしていて――波知は、何とも言えない複雑な気持ちになった。

「ただいま、ユキさん」

 条件反射で挨拶をすれば、予想通り、無言で顔を背けられる。早々に閉ざされた窓はまさにユキの心中を表しているようだったが、今日だけは、その行動が有難く感じた。

 年季の入った表札をぼんやりと眺めつつ、波知はツナギのポケットから煙草を探り出す。底の方を指で叩いて中身を押し上げ、ライターに火を灯し、安物の香水に似た香りを身に纏う。

 いつもと同じ――単なる自己満足にしかならない行為を、気力だけでこなす。

「……時間、無いんだな……」

 空を仰ぐと、薄らと輪郭を浮かび上がらせた三日月が視界に入る。

 記憶に焼き付いているものと似通った月に充てられ、目を凝らしてみても〝おかえり〟という言葉が、降ってくることはない。

「…………マジで何やってんだよ。さっさと飯作れ」

 立ち止ったままでいると、ユキが玄関の戸を開き、文句を垂れる。

 自分勝手な催促が、見慣れたジャージと表情が、昨日より愛しく思えたのも〝終わり〟が迫っているからなのか。

「……ただいまっす」

 無駄になることがわかっていても、波知は、その一言を言わずにはいられなかった。

「……いーから、飯」

 一度だけ瞬きをして、ユキは、玄関口で踵を返す。

 そっけない返事と、遠ざかる背中――

 これが、何年かけても変えることのできなかった、変わることがなかった、答えだ。

 毎日欠かさずつけているクロエの香水も、三年間吸い続けているガラムも、最初は千草の猿真似だった。挨拶をすることも、料理を作ることも、自分に気を引くための行為だった。

 それが全て、今、ここにいるユキのためになればいいと思うようになったのは――千草でなければ意味がないのだと、気付いたからだ。

「ユキさん」

「……なんだよ」

 縮みきってしまった煙草を玄関口の灰皿に捨て、波知は目を伏せる。

 当たり前のように、声を、言葉を、返してくれる今が。

 大切に思う二人だけの時間が、もうすぐ、終わる。

「今度のお祭り、一緒に行きません?」

「……行くわけねーだろ」

 それでも、今を、変えようとは思わない。

 好奇心で一度だけ聞いた質問を、千草は「オレが好きなのは、ユキだけだ」と一蹴した。

 その日から波知は、最後まで、何があっても〝おばけ〟を守ろうと、心に決めた。

「……じゃあ、食べたいものあったらメールして下さい」

 喉元に詰まった言葉と感情を飲み込めば、不思議と、顔には笑みが浮かぶ。

 いつの間にか染みついてしまった嫌な癖は、諦めと、逃げからくる賜物――

 最後の日まで、ユキが寂しい思いをしないようにと願う本心と、どんな形でもいいから傍にいたいという自己欲を隠す、仮面だ。

 欲しくないと言えば、嘘になる。

 だがそれ以上に、出会った時から今まで、一途に千草だけを想い続ける〝ユキ〟が、千草の傍でしか笑えない〝おばけ〟が――波知は、どうしようもなく好きだった。



 日夜磨きをかけているからか、万知子の家は、二年前より小奇麗になったと思う。

 手持無沙汰の拭き掃除も功をなし、置物や家具の隙間にさえ埃はない。

 ただ一か所だけ、未だに、手をつけられないでいる領域がある――

 細い階段の先に続く闇を見上げて、波知は洗濯籠を抱え直す。

 広い建物の二階部分、丸井家の人間が居室として使っていた空間は、暗黙の了解で「立ち入ってはいけない場所」になっている。

 万知子や千草が、言及したわけではない。酔っ払って踏み入る人間も過去にはいたが、二人が嫌な顔をすることもなかった。察するに、数多くの人間が出入りをするうち、自分たちに温情をかけてくれた二人を守るために、自然とできたルールなのだろう。

 それを確固たるものに変えたのが、ユキだった。

 どれだけ丸井家に馴染んだ者でも、無断で立ち入ろうとすれば、片っ端から殴り飛ばして威嚇する。たとえ酒を飲んでいたとしても、千草の友達であろうとも、関係ない。

 そんなユキの度の過ぎる行動に、一時は「ボロ宿の二階には大量の死体がある」という都市伝説まがいな噂まで流れたこともあったが――真意は、別だ。

 いつからか、誰からか、滞在者たちがユキを〝千草の猫〟と呼ぶようになり、上階の件は口に出すのもタブーになった。その揶揄の本当の意味を知ってからしばらくは、波知も、二階には目を向けないようにしていた――

 いつの間にか見入っていたことにはたとして、足の向きを変える。

 二度目はない、と意識はしていても、傍を通るたびに胸を騒がせるのが、この階段の恐ろしいところだ。何より、前科がある時点で、麓に立つ姿を見られるのもまずい。

 焦りを隠せないままに廊下を進むと、床板が軋み、ギシギシと嫌な音が鳴る。

 普段よりも音が大きく響いているように感じたのは、心中が穏やかではなかったからなのか。

「……ハチ」

 やっとのことで居間を通り過ぎたはなえ、ふいに名前を呼ばれたことで、波知は息が止まる思いをした。

 恐る恐る振り返ってみると、ユキは腕を組み背後に佇んでいる。

「……なんですか?」

 気が気でない中で〝いつも通り〟を意識して首を傾ければ、予想外にも、何かを言いたげにしていた唇は真一文字に引き結ばれた。

「…………煙草」

 ひっきりなしに携帯電話を開閉させ、ユキは重い溜息を吐く。

 一緒に呟かれた単語は、多分、本来告げたかった言葉ではないのだろう。従来から見慣れている手癖と険しい表情を前にした波知は、顔に、出来る限りの作り笑いを貼り付けた。

「はい。どーぞ」

 新品の煙草を差し出せば、白い指が、矧ぐように箱を奪う。目も合わせることなく傍らを通り抜けて行ったユキは、牽制こそしなかったものの終始無言で、普段より歩調が早い。

 時刻は、午後九時四五分。

 声をかけることもできずに立ち竦んでいると、頭上から、扉の閉まる音が聞こえてくる。

 廊下の隅にある鳩時計は、まだ、今日の終わりを告げていない。

 一瞬にして虫の声に占拠された空間で、波知は、汗ばんだ掌を握りしめる。

 これまでの二年間、ユキが十一時になるよりも前に二階に上がることはなかった。どれだけ不味い飯を出しても、口論をしても、自分が帰るまでは必ず、居間にいてくれた。

 それが――たった一日で、ほんの些細なことで、簡単に覆るのだからやるせない。

 自然と中央に寄ってしまう眉根を指で伸ばしていると、廊下の奥から水音が届く。

 思い出して洗面所へと急いでみたものの、風呂の湯船からはすでに大量の湯が溢れていて、波知は我慢できずに項垂れた。

 長年使いこまれた古い蛇口は、錆び付いていて、閉まりが悪い。

 欠けたタイルを濡らす湯は、温度調節が悪かったのか酷い熱さで、足の裏が痛くなる。

「…………何やってんだろ」

 むっとした蒸気の中に本音を零すと、次から次へと、頭の中に、嫌な言葉が浮かんでくる。

 つい数時間前に心を決めたはずなのに、簡単に気持ちが揺らぐ辺り、まだまだ小者なのだろう。結局のところ〝全て〟を偽りきることが出来ないまま、波知は、風呂場を後にする。



 二年前の夏、ユキと千草は殴り合いの大喧嘩をしていた。

 上階からけたたましい音と怒号が飛んできたかと思えば、口から血を流した千草が降りてきて「あと頼んだわ」とだけ告げ、家を出て行ってしまう。

 喧嘩の原因は未だにわからないものの、当時の波知は、慌てて二階へと向かった。深い意図はない。ただ、ユキも怪我をしているだろうと――長年二人の傍にいた自分であれば、触れても許されるだろうと、思っての行動だった。

 古びた木の匂いがする廊下も、目も当てられないほどに殴られた顔も、まだ、脳裏に焼き付いている。だがそれ以上に、怒りに震えた冷たい声が、忘れられない。

 二階に踏み込んでも、ユキは、怒鳴ることも殴りかかってくることもなかった。

代わりに一言だけ――感情の読み取れない顔で「おまえ邪魔。消えろ」と、言った。

 虫の居所が悪かっただけだと思いこもうとした言葉が、変わらない本音だと痛感したのは、一ヶ月が過ぎた頃。今まで通りの態度の中に、鋭い視線が混じるようになってからだ。

 それでもユキが家を訪ねることを許してくれている理由には、大体、検討がつく。

 現状、波知が負担しているのは、日々の食費と生活費だけ。光熱費や家の地代、ユキが使っている携帯の料金は、使えている以上、千草が支払っていることになる。

 もちろん、相談や、分担をしたわけではない。ユキはその事実を知らないからこそ――自分と千草が繋がっているのだと、思い込んでいる。

 食事や生活に重点を置いていないことは、三年間、家に引きこもっていることからして明らかだ。単にユキは、千草に関する情報を得たいがためだけに、自分を、招き入れている。

 居所も連絡先もわからないということを、知られればその時点で、用済みになるだろう。

 万が一、千草を見つけ出したとしても、傍にいることは適わない。

 ならば、と、波知は――素直に話をすることができないユキの、弱さに付け込んだ。



 縁側へと続く硝子戸を開けると、夜風が髪を揺らす。

 封を切られていない蚊取り線香を手に、籐座椅子の横に腰を下ろした波知は、後方を確認したあとで溜息を吐いた。

「…………どうしてあげるのが、正解だったのかなぁ」

 緑色の渦巻きに火を灯すと、懐かしい匂いが周囲に漂う。

「……もうすぐちぃさんに会えるよって……言ったら、笑ってくれたのかな」

 わかりきった質問を零したところで、誰からも、返事はない。 

 干したばかりのジャージが風に煽られる様子を眺めつつ、波知は携帯端末を開く。

 毎日のように態度で訴え掛けられたところで、期待には答えられない。千草が戻るまでの間だけ、と、つき続けた嘘が、ユキを苦しめていることも、わかっている。

「…………ねー、おばちゃん…………」

 無人の籐座椅子に凭れかかって、波知はアドレスデータをスクロールしていく。

 佐加井町に籍を移した時点で聞かされていたことを、今更、止められるとは思っていない。止める術も持たない以上、この家が無くなることは、確定事項だ。

おまけに――酒癖も女癖も悪かった千草が、ユキの元に帰ってくる保証も、どこにもない。

「…………どうしたら、ユキさんのこと、泣かせずに済むのかな」

 全てを知らせて殴られる方がいいのか、何も告げず憎まれる方がいいのかは、つい最近まで悩んでいた。ただ、千草の思惑がわからない以上――波知は、現状維持を、事実を告げないまま傍で一緒に待つことを、続けるしかなかった。

 しばらくのあいだ夜風に当たっていると、室内から、鳩時計の音が聞こえてくる。

 午後十一時――二年前、千草が家を出たのと同じ時刻だ。

「ユキさん! 風呂湧いてるんで、ちゃんと入ってくださいね!」

 振り子の音色を傍らに、めいっぱいの明るさを装って声を張り上げる。

だが、いつもの〝さっさと帰れ〟という一喝は、返ってこない。

 物音ひとつしない階段から顔を背けると、ふと、昨夜置いて帰った煙草が脳裏を過る。気を紛らわせるために台所を覗いてみれば、赤い箱はそのまま、冷蔵庫の上に乗っている。

 減ったとしても、多くて二本。常日頃から〝一箱では足りない〟と言っているヘビースモーカーのユキが、ガラムには手を付けない理由を、波知は知らない。

 そして今後も、聞くことはないだろう。

 今までに出会ったどの男よりも懐の深い千草を、信用していないわけではない。 もちろん、憧れの対象を出し抜くつもりも毛頭ない。むしろ、時間をくれたことに感謝している。

 なので波知は、千草がひょっこりと帰ってきたら――要望通り、ユキの前から姿を消すつもりでいた。

 ただ、ここまで来ると、別の欲も出る。

 たくさんの思い出があるこの場所で、川祭を楽しめるのは今年が最後だ。

 例年通り厳三に付き合うのも良かったが、今年はユキと花火を見られれば、というのが、波知のささやかな願いだった。

「じゃー、帰りますね!」

 暖簾から手を離せば、しゃらしゃらという涼しげな音が見送りをくれる。

「……明後日、屋台飯買ってくるから! 一緒に花火見ましょうね!」

 あと二日。

 いつからか、ユキを思う気持ちよりも肥大していた〝どうか千草が戻りませんように〟という捻くれた感情に、折り合いをつけるための期限が、迫る。

 大好きな二人の幸せを優先できるよう。自分の長年の思いを、断ち切るために。

 最後にはどれだけ嫌われても、恨まれても構わないからと強く願い、波知は、自己嫌悪に塗れた心に蓋をする。



 街灯に群がる蛾を眺めていると、ポケットの中で端末が震える。

 珍しく夜半に届いたメールには驚いたものの、内容は『焼き鳥とたこ焼き』の一文だけで、波知は思わず頬を緩めた。

 振り返れば、丸井家の二階の窓には灯りがともっている。人影こそないものの、ユキはちゃんと部屋にいるようだ。

 安堵しつつ扉の前に立つと、こちらも珍しいことに、電気がついている。

 玄関に入るなり、軽快な笑い声が出迎えてくれたことで厳三が起きていることを察した波知は、肩の力を抜くと同時に大きく息を吐き出した。

「ただいま」

 TVの前で晩酌をする背中に声を掛けると、ひらひらと後ろ手を振られる。

「風呂。沸いとるからはよ入れ」

 普段は九時に就寝する年寄りが、この時間まで、寝ずに待っていてくれた。

 ただそれだけのことが痛いほど身に沁みて、波知は唇を噛む。

「……なんや」

「たまには、厳さんも労っとこっかなって」

 久しぶりに掴んでみた両肩は、覚えているものよりも遥かに華奢で、力を込めれば折れてしまいそうなほどに細い。昔は壁のように見えていた背中も、随分と、小さくなってしまった。

「なんぼ揉んでも、小遣いはやらんぞ」

「いらないよ」

 苦笑交じりに肩を叩き、波知は、馴染み深い部屋を目で追う。

 十畳の居間兼寝室には、必要最低限の家具しかない。使い込まれたちゃぶ台に、穴の空いた座布団、TV、棚、布団。食器も二人分だけで、服や日用品も、生活に困らない程度。

 代わりに、室内の至るところに、厳三が大切にしてきたたくさんの思い出が並んでいる。

 セピアとモノクロが混ざったような写真を見つめて、波知はぐっと息を飲む。

 養子に入る際、追々使えるようにと親が用意してくれたハイツには、結局、二回しか帰っていない。男二人では手狭になったこの家を、出ようとした矢先に千草がいなくなったからだ。

「お小遣いの代わりにさ、ひとつだけいいかな」

「……なんや」

 幼い頃からずっと、二人で過ごしてきた家にいられるのも今年で最後――

「…………明後日、ユキさんと花火見ていいかな」

 そう、わかった上で、波知は頭を垂れた。

「かまへん。好きにせぇ」

 迷うことなく言いきって、厳三は一升瓶からコップへと酒を注ぐ。

「ただし。何があっても、べそかいて帰ってくるなよ」

 嫌味にも似た言葉に尻を叩かれた気がしたのは、本質を見越されているからなのか。振り返った養親は、呆れたような、それでいて嬉しそうな顔で笑っていた。



 厳三が寝静まったことを見計らい、波知は、廊下の先にある納戸へと向かう。

 引っ張り出した銀色の箱は元々煎餅が入っていたもので、雑に扱っていたせいか所々がへこんでいる。蓋の部分には汚い文字で〝たからばこ〟と書いた紙が貼り付けてあるが、もちろん大したものは入ってない。

 今となっては何が宝なのかがわからない貝殻やミニカー、折り紙でできたメダルに目を細めつつ、波知は、探し物を摘まみ上げる。

 子供の頃に、厳三が捨てようとしたシャツを切って作った小袋――

 小銭すら入らないその袋の中身は、万知子がボロ宿の滞在者だけに配っていた、種だ。

 過去、何度頼んでも「なっちゃんには必要ないからね」と一蹴されていたそれは、ホームセンターどころか、探せば道端にでもある。だが波知は、万知子が〝魔法の種〟と呼ぶ何の変哲もないそれが、幼心にどうしても欲しかった。

 失くさないよう、取り上げられないよう、大切にしまいこんでいた種を掌の上に出すと、愛らしい模様が裸電球の光を浴びる。

 ひょんなことで手にできた、この一粒は――過去に〝おばけ〟が、くれたものだ。

 くれた、というよりは、奪った、の方が正しい気もするが。

「……可愛いなぁ」

 初めは玩具感覚で欲しいとねだっていたものを、たくさん集めて〝おばけ〟にあげたい、と思った時点で、もう、好きだったのだろう。結局のところ、別の誰かに目を向けても、何度現実から目を背けても、帰り着く先は、ここだった。

「……これも、返してあげなくちゃ」

 手の上でコロコロと転がる種を見つめて、波知は口角を上げる。

 その時に――思い描いていたものとは違う〝転機〟は、やってきた。

 十秒以上続く振動に気づき携帯端末に目をやると、見覚えの無い数字が並んでいる。

 深夜の一時半、未登録と表示された番号からの着信は何故だか一気に不安を煽り立てて、指先が震えた。

「…………もしもし?」

 恐る恐る通話口に出ると、まずもって雑音が飛び込んでくる。車の走行音と多数の人間の声が混じっている辺り、相手は街中にいるのだろう。

 それでも、たった一言。

『よぉ』

 聞こえてきた声に全ての思考を浚われ、波知は、微動だにできなくなった。

『元気にしてたか、チビ』

 懐かしい呼び名が一瞬にして眠気を飛ばすと同時に、ふつふつと焦りが湧いてくる。

「……ちぃさん……?」

 確認するまでもないことを問えば「おー」と、何とも間延びした返事が届く。声音も喋り方も、二年前と全く変わらない。間違いようもないほどに――電話の主は、千草だ。

 それなのに、一言も言葉を発せなかったのは、想定の範疇を、越えていたからなのか。

『明日……じゃねぇか。今日、ババァの家売るから』

 波知は、続いて耳に入った一大事ですら、上手く飲み込むことができなかった。

『で、権利書は俺の部屋のキャビネットにある』

 淡々と告げられる要件に頭が追い付かない中、足だけが、痺れるように竦む。

『後は、おまえとジジィの方でいいようにしろ』

 一人喋り続ける千草が、何を思い、何を考えているのか。

「……冗談ですよね?」

 発言の意図も、意味も考えることができずに、波知は震える声で呟いた。

『冗談なわけねぇだろ……つーか、もしかして、あいつまだ落とせてねぇの?』

 突拍子もなく聞こえてきた〝あいつ〟という単語が、否応なく、冷や汗を誘う。

『…………二年もあって、何やってんだ』

 次いで耳に届いた忍び笑いは、周囲の音を消失させるかのような衝撃をくれて、波知はぎゅっと掌を握りしめた。

「ちぃさん、帰ってきますよね?」

 かろうじて出た質問に、間を置いて、溜息が返ってくる。

『……十時に、伊崎の浜公園に来い』

 呆れたようにひとつ隣にある駅の名前を告げた千草は、それ以上は何も告げることなく、電話を切ってしまった。

 これまではかろうじて交わしていた目の前の落とし穴に、蹴り落とされたような錯覚に苛まれる中で、指先の感覚だけが鮮明になっていく。

「……なんで」

 何故、自分なのか。どうして、今日なのか。

 終わりの日も結末も、千草が用意しようとしているものには、救いがない。

 静寂に包まれた廊下で、波知は茫然と、暗転した画面を見つめる。

 強張った掌の中に収まる〝魔法の種〟は、たったひとつの、小さな望みすら叶えてくれそうにない。


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