04 七月三十日

 好きなだけ睡眠を貪り階下へ降りると、居間には料理が用意されている。

 時間帯によってはラップが掛かっていたりいなかったりする朝昼兼用の食事は、ハチが仕事前に作りにきているものだ。

「……律儀な犬だな……」

 いつもながらの光景に思わず独り言を零して、ユキは定位置に腰を据える。

 律儀も律儀、毎度、冷房の温度調節までしていくハチのお陰で、室内は暑くも寒くもない。

 寝起きの一服をしながら携帯電話を開けば、画面の中央には新着メールの知らせが表示されている。半ば惰性でボタンを押すと、一面には、同じ名前がずらりと並ぶ。

 一応は、と、確認してみたところで、内容は『今日は魚の予定です』

 毎日一通、必ず朝方にハチが寄こすメールは『いってきます』や『今日の飯は』といったどうでもいい情報ばかりで、ある意味、冴えない一日の始まりにはおあつらえ向けだ。

 欠伸交じりに二本目の煙草をふかして、ユキは、本日の昼食の隣に携帯を置く。

 切子硝子の器に盛られてはいるものの、水を吸って伸びきった素麺は、目も当てられない。本当に料理が苦手なのか、嫌味なのかはわからないが、ハチの作るものは大抵、どこかがおかしい。連日の暑さに加え、外出をしていないせいで食欲もない。それ以前に、約一か月、毎日続く素麺には心底飽きている。

けれど、麺の上に盛られた不揃いな錦糸卵や刻み胡瓜を見てしまえば、どうしてか箸に手が伸びるから、不思議だ。

 だまになっている麺をすすっていれば、急かすかのように鳩時計が音を鳴らす。

 正午を過ぎると蒸し風呂状態になる居間は、すでに床の半分が太陽光に占拠されていて、じわじわと温度が上がってきていた。

 流し込む形で用意された飯を平らげ、ユキは食器を片づける。といっても流し台に浸けておけばハチが夕方にまとめて洗うため、台所にも長居はしない。

 むっとした空気が立ち込める廊下を進み、脇目もくれず、二階へと向かう。

 いつもと同じ、何も変わらない流れの日常――ただ、この日は少しだけ、様子が違った。

 階段に足をかけるなり、リンッという珍しい音が耳に飛び込んでくる。

 反射的に玄関を振り返ったユキは、しばらくの間を置いてもういちど同じ音が鳴ったことで、自然と息を殺した。

 引き戸の向こう側では黒い影が揺れていて、よくよく見れば、その人物が呼び鈴を鳴らしていることがわかる。ボロ宿を訪れていた者であれば、合鍵の隠し場所は知っている――そう頭では理解していても、珍しい事態を前に、意識は勝手に軒先へと向く。

「ごめんください。私、港英(こうえい)コーポレーションの北沢(きたざわ)と申します」

 音を立てないよう電話台の傍まで歩を進めると、擦り硝子に映った影が動きを見せる。

 よく通る声で挨拶をくれた北沢、と名乗る人物は、夕方に訪れる輩とは少し違うようでいて――多分、同じ類のものなのだろう。

「本日は、駅前開発の件で参りました」

 淡々と告げられた要件に目を眇め、ユキは腕を組み、壁にもたれかる。

「決して悪いお話ではないので。一度、お話させていただけませんか?」

 居留守を見抜く術を持っている様子の無駄に丁寧な男は、返答していないにも関わらず、勝手に話を進めていく。

 だが、黙していれば、それ以上の内容が聞こえてくることもない。

 酷く息苦しい時間をひたすらに耐えていると、影が傾き、硝子戸がカタンと音を立てる。

「……資料、置いておきますので。一度、目を通してみて下さい」

 根負けした、ではなく、今日はこれでいい、とでも言いたいのか。北沢は、別段ねばる素振りもみせず、数分で会釈を残して去っていった。

 石段を踏む靴音が途絶えると、代わりに車のエンジン音が聞こえてくる。

 排気ガスを吹かす音が遠ざかってやっと、今まで霞んでいた蝉の鳴き声が耳に届いて、ユキは荒々しく髪を掻き乱した。

 ぼろぼろのサンダルをつっかけ、引き戸の真ん中についた鍵を捻る。念のために少しだけ開いた隙間から外の様子を伺えば、いつもと同じ、寂れた路地が視界に入ってきた。

 屋外は、じりじりとした熱気と煩いまでの音に支配されていて、一気に頭が痛くなる。足元に倒れてきた白い袋は無駄に重く、手に取る気にもなれない。

 北沢の置き土産は、青い包装紙に包まれた箱がひとつと、水色の封筒が一通。〝港英コーポレーション〟のロゴが入った袋の淵には、クリップで一枚「北沢 葉月(はづき)」と印字された名刺が留められているだけで、見た目的には害はない。

 ただ、中身に害があるということは、北沢の残した言葉で、わかっていた。

「………………マジか」

 長い溜息を吐いてから、ユキはその場にしゃがみこむ。

 開発部 部長という肩書が、どの程度のものなのかはわからない。それでも、綺麗にタイピングされた文字が今、目の前にあるということが、かつてないほどに疎ましい。

「どないした」

 引き返すこともできず軒先で項垂れていると、ふいに、視界が陰る。

「熱中症にでもなったんか?」

 嫌な声が降ってきたことで顔を上げてみれば、影を作りだした人物はお馴染みのバケツと柄杓を手に、あろうことか、からからと笑っていた。

「何でもねぇよジジィ。…………つーか、そっちは来てねぇの?」

 どこからどう見ても按じているようには感じない老人に、ものを訊ねるのもどうかと思いつつ、ユキは言葉を吐き捨てる。

「なにがや?」

「…………不動産屋」

 一応表情を伺ってはみたものの、皺で弛んだ目に、変化はないまま。

「わしには、用無いんやろな」

 結局のところ、厳三は何の含みもない発言で、会話を切り上げてしまった。

 万知子と千草が、影で〝食えない狸〟と呼んでいただけのことはあり、この隣人は、とてつもなく偏屈で面倒だ。

「そや。一緒にスイカ割ろか」

「…………はぁ? 一人でやれよ」

「あないな固うて重たいもん、年寄り一人でどうこうできるわけないやろ」

 突然話をすり替え、突拍子のないことを強行しようとするあたりも、関わり合いになりたくない要員になっている。

「わしは、今、よし坊とスイカを割りたいんや」

 断言するなりそそくさと踵を返した厳三は、返答を待つことなく自宅へと向かう。

 話を振ったこと自体が間違いだったが、今更、無視をかますわけにもいかない。何より今、一人で北沢の置き土産と向き合う気にもなれず、ユキは渋々、重い腰を上げる。

「…………その名前で、呼ぶなっつってんだろ」

 したり顔で振り返った厳三は、年を盾にするほど弱っていない。

「よし坊は、よし坊やろ」

 何より、遠い昔に捨てた名前を未だに使い続けられることが嫌で仕方なく、ユキは、曲がった背中から目を背けた。



 ボロ宿と同じ年月の付き合いになる隣人は、万知子とよく似ている。

 意図の読めない言動や我の強さなどは本当にそっくりで――だからこそ、付かず離れずの〝ご近所付き合い〟をしていたのだろう、と思う。

 六年前まで、厳三は毎日のように家を訪れ、万知子と縁側で茶を飲んでいた。談笑していたかと思えば罵りあい、数分で帰った次の日にはケロリとした顔で数時間、楽しそうに喋る。正直なところ、仲が良かったのか、と問われれば答えに困るような、不思議な雰囲気だった。

 そんな二人の過去に、何があったのかは知らない。

 ただひとつ、かねてより厳三は「無断で丸井家の敷地には立ち入らない」ということを約束していて――万知子が死んだ今でも、その決まり事を守り続けている。

 単身はもちろんのこと、誰かと共に訪れることもない。

 厳三が丸井家の門を潜るのは決まって、千草か自分、どちらかと〝一緒に〟の時だけだ。

 


 門柱のところで待っていると、突然、緑と黒の縞模様の球体が路面に転がり出てくる。

 あろうことかサッカーボールの要領でスイカを運んできた厳三は、よほど楽しいのか、ひとり子供のようにはしゃいでいた。

 示されるがままスイカを拾うと、ずしりとした重みが腕にくる。かろうじて割れずに済んでいる丸い物体は、冷蔵庫に入っていたのか少し冷たく、火照った肌には丁度いい。

 当たり前のように先を行く背中を追っていけば、門を潜った辺りで歩調が緩やかになる。玄関の前に並ぶ鉢植えの草を引き、竹を繋ぎ合わせた庭戸の調整をし、樹木を眺めつつ縁側へと向かう。これが、厳三お決まりの行動なのだが、今日はやたらと、一か所で足を止める時間が長い。そう言えば、と、思い返してみれば、記憶の中の景色には桜の花があり――ユキは、この時に初めて、屋外に出たのが三カ月ぶりだったということに気付いた。

 足元にスイカを降ろすと、ジジジ、と、嫌な音が飛んでくる。ハチが洗濯物を干す以外に使っていないせいなのか、広い庭の殆どは地面が見えていない。虫と蝉の大合唱も去ることながら、外壁や納屋を隠すように覆い繁った草の酷さは、もはやジャングルだ。

 とは言え誰も、怒ることも、口を出すことも、手を入れることもない。

「……よし坊。塩あるかいな」

 縁側に座り目をしょぼつかせる厳三を一瞥して、ユキは、サンダルを脱ぐ。

 六年前から比べると随分と小柄になった年寄りは、通夜でも涙を流さず、仏壇に手を合わせることもない。代わりに、ここに来ると必ず、万知子が愛用していた籐座椅子の肘置きを撫でる。何を喋るでもなく、ただひたすら、無人の椅子の隣に腰を据えて庭を眺めている。

 その、見慣れている筈のしみったれた光景を、時間を、気が済むまでと思ったのも、北沢の来訪があったからなのだろう。普段ならば真っ先に口を突く「さっさと帰れ」という一言を出せないまま、ユキは台所へと向かった。

 盆と塩を手にのれんをくぐると、昔、居候たちも同じ遊びをしていたことを思い出す。夏になると色々なものを庭に持ち出し、割り、みんなで食べる――万知子はそのイベントをとても楽しんでいたが、後の片付けが大変だよ、とも、零していた。そして現状、夜間と早朝にしか来ないハチに、野外の片付けをさせることも、無理だ。

 思い至って倉庫へと急ぐと、庭の方から物々しい音が飛んでくる。

 慌てて縁側に引き返してみれば、厳三は感傷に浸る、どころかひとり豪快に笑っていて――地面には、粉々になったスイカと、物干し竿が投げ置かれていた。

「…………先に割るなよ…………」

 ブルーシートが間に合わなかったことと、本気だった〝割る〟発言にげんなりとして、ユキは髪を掻き乱す。

「お? 悪い悪い。冷えとるうちに食べた方がえぇかおもて」

 目的が叶ってご満悦なのか、厳三は一番大きな塊を両手で拾いあげて、齧り付いていた。

 ハチが買ってきたスイカは、綺麗な色をしているわりには甘くなく、安いというだけあって水気も少ない。おまけに、同じものがもうひとつ、冷蔵庫の中にある。

 過去に見たものとは随分と違う現実に溜息を落とし、ユキは、割れた欠片に手を伸ばす。

 もちろん、鬱蒼とした庭で、偏屈な年寄りと肩を並べスイカを食べたところで、楽しいことも、気分が晴れることもない。

 そんな、息の詰まるような時間がしばらく続いたあとで、ふいに厳三が口を開いた。

「よし坊は、ここ、手放す気ないんか?」

 じりじりと照りつける陽光が、肌を焼き、視界を眩ませる。

「…………決めるの、俺じゃねぇし」

 自分自身の掠れた声が、煩いまでの蝉の声が、口内に広がる微妙な甘さが――今、身を占めている全ての感覚がふと遠くなった気がして、ユキは指先に力を込めた。

「そか」

 短い返事と共に、黒い粒が、弧を描いて雑草の中に消えていく。

 夏になると万知子がしていた〝みんなで飛ばした種が、いつか庭をスイカ畑にする〟という空想が、実現する日は――もう、来ない。

「どんだけ足掻いても、世の中にはどうにもならんこともある」

 人の声を恋しく思いはじめたのは、使われなくなった部屋や庭を眺めることを寂しく感じ始めたのは、いつからだったのか。

「万知さんもな、オニュウで楽しいもんの方がえぇて言うんちゃうか」

 穏やかに笑う厳三の顔を直視できないまま、ユキはもう一口、味気ないスイカを齧る。



 紙袋の無駄な重みの正体は洗剤の詰め合わせで、こちらが本体なのだろう封筒には分厚い計画書が収まっていた。ご丁寧にファイリングされた書面の表紙には〝完成予定図〟という見出しと共に高層マンションの画像が載っていて「関係者様 説明用」という文字が記されている。 

 中身はといえば、コンセプトや外観、間取り、設備表といった、建物に関する事細かな説明が続いていて、目で追うのも面倒臭い。

 それから、もうひとつ。

 しばらくの間〝丸井 千草 様〟という文字と睨み合って、ユキは唇を噛む。

 青色の封筒からマトリョシカの要領で出てきた小さな封筒、これが北沢の、本来届けたかったものなのだろう。【重要】という朱印を見る限りで、入っているものにも大体の想像はついた。

「…………どこにいんだよ、千草」

 頬を伝った汗が首元へと流れ、嫌な感覚が、身を過る。

 酷い息苦しさに負けて机に伏せたユキは、一度きつく目を閉じてから、周囲を見渡した。

 落書きだらけのテーブルにボロボロのソファ、効きの悪い空調。脱ぎっぱなしの服も、読みかけの雑誌も、起き抜けのままなベッドも、あの日からずっと、変わらない。

 変わってしまったのは――

「万知ばぁ…………俺は、ここにいたいよ」

 細い息と共に本音を吐き出し、ユキは、煙草に火をつける。

 理想だけでは生きていけないことも、綺麗事を言っていては現状が変わらないことも、頭では理解している。何をどう足掻いたところで、最後に決断を下すのも、千草だ。元よりユキには、口を出す権利すらない。それでも、受け入れてしまえば最後――何も残らないことがわかっているから、怖くて踏み出すことができない。

 一年ほど前から近所に軒並みかけられ始めた「管理土地」という看板がボロ宿の前に立つ日もそう遠くない。いつかその日が来ることも、ユキはずっと前から知っていた。

 千草がこの家を手放すことも――自分を突き離すことも、わかっていた。

 中学を出てからは万知子の手伝いだけで生き凌ぎ、万知子が死んだあともバイトを転々としていただけ。この三年に至っては、働きすらしていない。その堕落さが許されていた時点で――きちんと、現実に目を向けるべきだったとは思う。何せ、後悔したところで成す術がない。

 この、悪循環な生活からは、抜けだせない。

 柱時計が三時を指せばまた、近頃お決まりのいらない訪問者たちがやってくる。

 戸を叩く音も催促の波も、黙ってやり過ごしていればいい。誰が何のために作った借金なのかももう、考えることは、やめた。

 封を切ることすらできない最終通知を尻目に、ユキは首の後ろに手を回す。唯一残る柔らかな感覚を、髪に触れた時の意地悪い笑みを、信じるよう、忘れないよう、心を諌める。自分の全てを作り上げ必要としてくれた千草に、受け入れてくれた万知子に、最後まで報いる存在でいられれば本望だと、言い聞かせる。

 僅かな期待とそれを覆す不安、日常にも侵食してきている葛藤に、答えはない。望む道を選ぶこともできもなければ、待つ以外の、方法もない。

 使い古された携帯電話を開けば、画面には、青空の写真が現れる。

 二年経っても電波が絶えることのない通信機器に、残されたデータは波知のアドレスと、この写真だけ――

 昨日と同じように短い文章を打ち込み、ユキは、震える指で送信ボタンを押す。

 いつ絶えるのか、いつまで繋がっていられるのか。

 十二年間傍にいても理解できなかった男の、意図の知れない行動は――ある種の呪縛だ。

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