03 千草


 じりじりと太陽が照りつける駅前のロータリーで〝それ〟は静かに佇んでいた。

 もつれた長い髪に、裾がほつれてシミだらけのシャツとズボン。背丈からして小学生くらいだろう子供は明らかにやせ細っていて、何故だか、一本の柱をじっと見つめていている。

 おまけに、つっかけているのは履き古されたヒールパンプスで、左右が逆だ。

「うーわー……」

 あまりの小汚さと、亡霊に間違われてもおかしくないその姿に、千草は思わず顔を顰める。

「これ」

 だが、齢六十とは思えない瞬発力で背中を叩いてきた万知子は、いつものように声をかける気でいるのだろう。雑踏に紛れることもできず、遠巻きに周囲の視線を集める子供の元へと、躊躇することなく歩いて行く。

「…………おいババァ。最低限の人選はしろよ」

 人の話を聞かない祖母から少し距離を置いて、千草は頭の後ろで手を組む。

「最低限の人選をするなら、まずはおまえをポイ、だねぇ」

 すかさず嫌味を返してきた万知子は、冗談なのか本気なのか、後ろ手で〝ポイ〟をやってのけたあとで――ぴたりと動きを止めた。

 妙に思って身体を斜にしてみれば、前方で、亡霊もどきがのろのろと頭を揺らす。

 毛染めとは無縁のみすぼらしい身なりをしている子供の髪が、綺麗な薄茶色――その違和感に気付いてすぐに、千草は、祖母が言動を押さえた意味を悟った。

「……坊や。花火を見るのかい?」

 声がかかるなり、子供は大きく肩を跳ねさせ、おずおずと顔の向きを変える。

 長く伸びた前髪の隙間で瞬いたのは、宝石のような青い瞳――

「……ユキ?」

 途端に脳裏を過った名を口にして、千草は、その異質な存在に目を凝らした。

まるで周囲の時間が止まってしまったかのような感覚に陥る中で、汗が頬を伝う。まっすぐに視線を合わせてきた双眸は、夏の空に似た色をしていて、まるで邪気が無い。どことなく懐かしい感じがしたのは、纏う雰囲気が似ていたせいもあるのだろう。こけた頬と、垣間見える面影、相反するふたつに意識を捕われたまま、千草は口角を上げる。

 しばらくすると、子供が、手に握りしめていたものを無言で万知子へと差し出す。

 それを受け取った万知子も少しのあいだ動きをみせず、場には雑踏のざわめきと、蝉の声だけが響いていた。

 柱に貼り付けられた【第五十回 川祭】の広告が、陽光を孕み、様相を薄れさせる。

「………坊や。おばちゃんと、家でぃとせんかね」

 何十回と聞いてきたはずの台詞が遠くに感じたのは、浮かれた空気と、暑さのせい。

 そう、ぼんやりと考えながら、千草は十年前にこの町から消えた、一人の居候のことを思い出していた。



 年に一度の祭当日とあって、家の中は駅前以上にごった返している。

 毎年のことながら、出店の準備が間に合っていないようだ。夕方の五時だというのに、未だ玄関周りは段ボールや備品に占拠されていて、前半に店番をする居候たちが入れ替わりで取りにやってくる。はしゃぎ声が飛び交う物置きの横をすり抜ければ、居間では酒盛りが続いていて、庭では何故かスイカ割り――要するに、一階には居場所がない。

 少し悩んだ末に、千草は濡れ鼠状態の子供を連れ、二階へと上がる。

 文字通り骨と皮だけでできている物体は、水を浴び、服を着替えたことで多少小ましになったものの、相当厄介だ。風呂場から出てくるまでに一時間以上かかった挙句、団子状になっている髪からは水滴が落ち、貸し与えた服も既にびしょびしょ。まるで〝拭く〟という概念がないといわんばかりの風体には、洗うことすらしていない可能性も伺え、恐ろしくなる。

 余計なものを拾った張本人は「お風呂に入れた後で連れてきてあげなさい」と、言い残した上で河原へと向かったため、不在。いつもながら神経を疑う自由具合だが、暑い中、面倒な準備を手伝わなくてもよくなったと考えれば、まだ幸いかもしれない。

 程よく冷えた室内に腰を据え、千草は溜息を吐く。

 ぶかぶかのジャージを着て扉の前で俯いている亡霊は、ここに来るまで無表情を徹し、一度も喋っていない。

「…………突っ立ってねぇで座れ」

 声をかければ反応を見せるあたり、耳は聞こえていて、言葉もわかるのだろう。しかしもって、言葉の意味が理解できているのか、という点は、定かでない。

「そこじゃなくて、ここな」

 ひとつひとつの事柄をいちいち示さなければいけないことに呆れながら、千草は正面にあるソファを叩く。入口を塞ぐ形でちょこんと正座していた子供は、一度だけ瞬きをして、これまた大人しく言うことを聞くから、不気味だった。

 手近に落ちていたタオルを乗せてやれば、小さな頭がびくりと跳ねる。人に慣れていないとでも言うのか、驚く時だけはいやに反応が大きい。だが、警戒心はないように思える。

「おまえ、年いくつ?」

 妙な空気に耐えかねて質問をすれば、首をゆるゆると横に振られる。

「喋れねぇの?」

「…………しゃべられ、ます」

 ただ、もしかして、の予想だけは、か細い声に覆された。

 階下から届く音に押し負けてしまいそうな声音は、想像していたものよりも、ずっと高い。それでも〝男〟だと思えたのは、みすぼらしい風体と――先入観があったからなのだろう。

「年。何歳かって聞いてんの」

「…………わからない、です。すみません」

 たどたどしい物言いと煮え切らない答えに苛立ちを煽られ、千草は、目下の頭を雑に拭く。

「じゃあ、名前」

「…………よしたか」

 半ば投げやりの問い掛けに、似合わない名前を口にした子供は――なにが楽しかったのか、その時に初めて、表情に変化を見せた。

 一瞬だけ細くなった青い双眸は、またすぐに、無機質な雰囲気へと立ち戻る。

 しかしもってその一瞬、紛れもない笑みを見た千草は、手を止め〝よしたか〟と名乗った子供の顔を覗き込んだ。

 そのまま距離を詰めると、華奢な身体が、僅かに後ずさる。

「どんな字書くの。って、漢字わかんねぇか?」

 お構いなしに掌を差し出せば、よしたかは少し迷ったあとで、人差し指を伸ばしてきた。

 伸びた爪が皮膚の上をなぞり〝由〟〝貴〟という二文字を記す。

 年もわからず、まともに喋ることすらできない子供が嬉しそうに書いたその文字に、どんな意味があったのか。

 万知子が、名前も知らぬ子供を〝坊や〟と呼び定めたのは、何故なのか――

「……へー」

 ただ一点にしか目を向けられなかった十五の千草には、考える余裕もなかった。



 賑わう屋台通りの隙間を抜け横道へ反れると、背後で、わっという歓声が上がる。

 声と音に釣られて後方を振り返った千草は、ついてきていた由貴がおもちゃのように身体を強張らせていたことで、けらけらと笑った。

 市が無い予算を振り絞って打ち上げた十連発花火に観客が盛り上がる半面、無表情を貼り付けた顔はどんどん青冷めていく。大方、音か人か匂いに酔ったのだろう。由貴は服の裾を握りしめたままの状態で固まり、冷や汗を垂らしている。

「家、帰るか?」

「…………」

 見かねて声をかければ、少しだけ持ちあがってきた頭が、斜めに傾く。

 その、否定にも肯定にもとれない動きにはたとした千草は、周囲を眺めた上で、のんびりと歩きだした。

 薄闇の中に、ぽん、ぽん、と軽い音が響き、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってくる。夏の風物詩に夢中な人の流れは緩やかで、誰も、前などは見ていない。

 祭を堪能するために訪れた者にとっては、この浮足立った空気もまた、一興。

 ただ、一般常識が欠落している子供が、その空気を読むことはない。空を仰ぐことも店に目をやることもなければ、前から来る人間を避けることも、謝ることもしない。後を追うのに必死なのか、無言で人波に押され逆らい、挙句にぶつかりと、大変だ。

 恰幅のいい男が盛大に舌打ちをくれたことで、千草は渋々、由貴の手を掴む。

 一瞬引っ込みかけたものの、大人しく掌の中に収まってくれた指は――驚くほどに冷たく、今にも折れそうなほどに、細かった。

 観客で埋め尽くされた堤防と通路を尻目に、一本樹の傍まで歩を進めると、すっと空気が変わる。花火が見えないせいなのか、的屋の簡易テントと線路の高架が視界を遮るその一角だけは、人が少ない。ちらほらとある影も露店の売り子たちばかりで、存外、快適だ。

 適当な場所を見繕いしゃがみ込むと、腕に下げた袋から、何ともいえない匂いが立ち上る。

 万知子が夕食に、と渡してきたそれの中身は、察するに、売り物の焼きそばと串焼き、あとは近場の店に並んでいた、りんごあめだろう。

「座れ」

 相も変わらずな木偶の坊に指示を出し、千草は、ポケットから煙草を探り出す。

 視界が陰ったことで顔を上げてみれば、由貴は部屋と同じ、真正面の至近距離に正座していて、流石に苦笑が漏れた。

「おまえ、家出してきたのか?」

 手持ちの袋を押しつけながら質問をすると、ゆるゆると首を振られる。

「ちゃんと喋れっつってんだろ」

「……すみません」

 再度の反応に、思わず語調を荒げた千草は――この時に初めて、由貴の喋る言葉全てが、敬語だということに気が付いた。

「おまえさ……もしかして、誰かにそういう風にしろって言われた?」

「そういう、ふうとは」

「あー……敬語使えとか、あんま喋るなとか、黙ってろとか?」

 考え至ったことを口にしてみると、今度は、小さな頷きのあとに首を傾げられる。

「いい子にできるように、と、おきゃくさんが、ことばをおしえてくれました。でも、サナさんは、よしたかが、はなしをするのは、きらいです。だから、たくさん、はなしができません」

 まるで教科書でも読んでいるかのような単調さで、由貴は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。これまでの短い返しではわからなかったものの、下手をすれば知的障害でもあるのかと疑ってしまうほどに、内容が拙い。喋ることを避けていたのは――大方、知りうる単語の中から、会話に相応しいものを選ぶのに時間がかかってしまうから、といったところなのか。

「ばかで、すみません」

 ただ一言。

〝すみません〟という言葉だけがすんなり出るという状況に対し、千草は髪を掻き乱す。

 どこから来たのか、親はどうしているのか、お客さんとは何なのか、サナさんとは誰なのか――山のようにある質問をぶつけたところで、望む回答が返ってくる気配もない。

「…………よしたかは、サナさんが、いなくなったので、へやから出ました」

 しばらくすると、由貴は小さな声を零して、袋の上に置いていた手をぎゅっと握りしめる。

 震える拳から顔へと目線を移した千草は、そこに何の感情も伺えなかったことで、会話をするという行為を諦めた。

「…………もーいい。先に飯食うぞ」

 気を紛らわせるべく煙草に火を着けると、すぐ傍で、ぐるるるる、と間抜けな音が響く。腹の虫を鳴かせた当人はといえば、特に恥かしがることもなく、風に靡く煙を目で追っている。

 独特の風味ゆえに喫煙者の間でも好き嫌いが分かれるガラムは、慣れない人間であれば咳込んでしまうほどに、紫煙の量が多い。とはいえ、甘い香りが美味そうにでも見えるのか、由貴は膝に乗せた袋ではなく、空中の匂いを嗅いでいる。腹が減っているのは明白だが、何も言わないあたり、妙な躾をされているのだろう。

「……おまえ、変わってんな」

 一向に開けられる気配がない食料を奪い取り、千草は煙草の火を地面でにじり消す。

 言葉に反応したのか音に反応したのかはわからないものの、ふわふわとさ迷っていた青い目は一度だけ瞬きを落とし、今度はじっと、手元を見つめてきた。

 一本だけ入っていたビールの缶を膝に置き、手前のパックを開けると、肉と魚介の入り混じった匂いがする。隙間なくぎゅうぎゅうに詰められた焼き串は、万知子なりの施しなのだろう。単価が安い鶏の他にも、余った時にしかありつけない牛や車海老が、たらふく入っていた。

「食え」

 脂の乗った牛串をひとつ拝借した上で、千草はパックを押しつける。

「…………どれを、たべて、いいんですか?」

「おまえが好きなやつ取りゃいいよ」

 自分で聞いたにも関わらず、その後しばらく動きを見せなかった由貴は――最終的に、端の方に追いやられていた鶏の串をつまんで「いただきます」と呟いた。

 色とりどりの浴衣が行き交う傍らで、無駄にゆっくりとした時間が流れる。

 一本ニ〇〇円。子供でも買える小さな塊を、こっそり舐めては前歯でちびちびと齧っている由貴は、相変わらず無表情で、常識がなく、面倒臭い。

 それでも、どうしてか怒る気にはなれず、千草は苦笑交じりに串を手に取る。

 万知子こだわりの出汁と香辛料をふんだんに使った、甘辛いタレの絡む焼き鳥。 滞在者にも祭客にも人気があるこの一品は、正直なところ、食べ慣れ過ぎて、飽きている。久しぶりに口にしたところで、感想も、変わらない。

「美味い?」

 確実に明日の食卓にも並ぶ品を惰性で貪り、千草は、何もない夜空を眺める。

「…………おいしいです…………ありがとう」

 消え入りそうな声で礼を言った由貴は、隠すことも拭うこともなく、涙をぼろぼろと零し続け――最後の塊を食べきった後もずっと、串を離そうとしなかった。

 右手には空の串、左手は、屋台を後にした時から閉じられたまま。文字通り、両手が塞がった状態で動かなくなった子供を前に、千草は次の串をつまむ。岩塩のみで味付けされた車海老は、焼き串の中では一番美味いものの、処理が面倒なのでいつもは手を付けない。

 それを剥こうと思い立ったのも、単なる気まぐれだ。

「……エビ食うか?」

 一応聞いてはみるものの、由貴は無表情のまま泣くだけで、反応を見せない。もちろん、自ら次の食べ物に手を伸ばすこともない。

「もーいい、口開けろ」

 痺れを切らして指示を出すと、目下の唇が小さく動く。

 まるで虫歯治療のような状態に溜息を吐いた千草は、案の定、その後の行動が伴わなかったことで、開きっぱなしの口に海老を突っ込んだ。

 反射的なものなのか、由貴は海老の尾を咥えた状態でぴたりと固まり――すぐに、舌で物を押し出そうとする。もごもごと口を動かしているあたり、嫌いなのではなく、味わいたいのだろう。

「……出すなよ」

「……………………」

「一口で食えよ。クソほどあんだから」

「おったおった!」

 無言の主張に力で対抗していると、ふいに、聞き馴染みのある声が飛んでくる。

「ちー坊!」

 呼ばれたことで身体を斜にしてみれば、由貴の向こう側には凸凹のついた影が二つ並んでいて、千草は自然と顔を顰めた。

 足早に近づいてくる厳三の傍には、一年ぶりに見る秘蔵っ子の姿がある。少し背が伸びているものの、身に纏う雰囲気や高そうな服、顔立ちなどは昨年から大差ない。

 ふわふわのくせっ毛に目尻の下がった大きな瞳、コロコロ変わる表情と、人懐っこさ。正しく〝毛並みの良い犬〟を体現したかのような波知は、会うたびに構い倒していることもあって、とても懐いている。十個年が離れているお陰か、普段は「可愛い」の一言に尽きるが――ご機嫌ナナメ状態の時は非常に厄介なので、できることならば関わりたくない。

 現状は、膨らんだ頬と八の字になっている眉を見る限りで、御察しだ。

「ちぃさん」

 そんな気持ちも露知らず、波知は存在に気付くなり、ぽてぽてと歩み寄ってくる。

 同時に、何を思ったのか後方を振り返った由貴のせいで――その場は、更に面倒なことになった。

「お……おばけ!」

 流石子供と言うべきなのか、波知は、瞬時に素直すぎる反応をみせ、大きく飛び上がる。不満げな表情も、驚いたかと思えば泣き出しそうなものに代わりと、大忙しだ。

 ただ、生きているか否かの判断はできたのだろう。怯えつつも〝おばけ〟を迂回して抱きついてきたことに笑いを堪えながら、千草は、ゆっくりと視線を引き上げる。

「……ジジィ。こいつ、何でふてくされてんの?」

 おおよそ予想できた状況に片方の口角を上げると、目線の先にある眉間が、深い皺を刻む。

「……焼き鳥をな。買いに行ったら、万知さんに「もうないわ」って門前払い食ろうて……」

 会話の内容とは裏腹に、物言いたげな様子を匂わせていた厳三は――それでも、万知子と同じように、何も言及することはなかった。

「チビ。焼き鳥あるぞ。食うか?」

 妙な空気が流れる中で、千草は、腹元に収まっている頭をわしわしと撫でる。途端に顔を上げた波知は、よほど焼き鳥が食べたかったのか、斜め前方に目をやるなり表情を明るくした。

「たべる!」

 嬉々とした声が上がったのと、衝撃がきたのは、ほぼ同時。胡坐に覆いかぶさる形でパックに飛び付いた波知は、そのまま両手で焼き鳥の串を掴み、大口で頬張る。

「こら! 行儀悪いやろ! ちゃんと座って食べんかい!」

「らって、おばけこわいもん」

「だってやない! おばけでもない! おまえはほんま……」

 秘蔵っ子の自由具合に意識が逸れたのか、厳三も、叱咤を飛ばすのに忙しそうだ。

 呆れ顔と満面の笑みを交互に眺めながら、千草はふわふわの髪に指を埋める。先ほどとは別の意味で膨らんでいる頬は、タレまみれになっているものの、つつけばにこーっと笑いかけてくるから、憎めない。

 甘える理由にされた由貴はと言えば、隣人のやりとりに多少ビクついてはいたものの、未だ海老を租借中。瞬く間に減っていく串を前にしても、むろん、表情は変わらない。

「ちぃさん、えびむいて?」

「おー……って、食うのはえーな」

 おねだりに乗じて目線を下げると、波知は、えへへ、と照れながら足をばたつかせる。

 いつの間にか、パックの中は底が見えるまでになっていて、牛と鶏の、姿がない。地面に散乱する串の数からして、こちらも相当、腹が減っていたらしい。

「……悪いな。これ、坊主のやろ?」

 本日二匹目の海老を剥いていれば、申し訳なさそうな声が降ってくる。

 一応、自分に向けられた言葉だということはわかったのか、由貴は厳三の謝罪に小さく首だけを振り――やはり、だんまりを決め込んだ。

「あめ!」

 愛想も糞もない態度にため息をつくと、今度は目下から、脈絡のない単語が飛んでくる。

 手を止め身体を斜にした千草は、視界の端に放り投げられた袋と、赤いまんまるの塊が映ったことで、苦笑を洩らした。

 幼稚園児の片掌には、収まりきらないほどに大ぶりなりんごあめ。それを両手に乗せた状態で、波知はキラキラと目を輝かせている。

「それはあかん。戻しなさい」

 ただ、流石に痺れを切らせていたのか、間髪いれずに厳三が止めに入った。

 語調の強さからして、本気で怒る寸前だということもわかるが――

「おっきいりんご」

 波知は暫くの間りんごあめと見つめあった後で、そそくさと袋の留め具を外しにかかる。話を聞いていないのか、許して貰えると踏んでいるのか、強行具合が甚だしい。

「後で買うたるから……」

「やだ! これたべる!」

「それは、おまえのやない。戻せゆーてるやろ」

 ごねる子供と爆発しそうな老人を観賞しつつ、千草は、ぬるくなったビールを飲む。

 自分のものという認識がないのか、はたまたりんごあめに興味がないのか、本来食べるべき木偶の坊は蚊帳の外。しまいめには厳三が波知の腕を掴み、半ば強引にものを取り上げにかかる。要するに、とてつもなく、面倒だ。

「あー……いいよ、別に。食っても」

「ちー坊……これは」

「いーんだよ。どうせこいつ食わねぇし」

 今にも泣き出しそうな波知を抱え止めた上で、千草は、小さな手からりんごあめを奪う。一瞬ぽかんとしていたものの、袋を剥いでやれば膨らんでいた頬は見る間にしぼみ、その場は何とか、終息した。

 厳三の追撃から逃れるためなのか、波知は無言で胡坐の間に収まり、赤い塊にかぶりつく。

 その際に初めて、正面にいる〝おばけ〟の姿を、はっきりと見たのだろう。

「……あめみたい」

 またもや突拍子のない発言が出たことで、千草は目下の頭に顎を置く。ただ、顔を覗きこむより先に腕の隙間から抜け出されたために、言葉の意図が、わからなかった。

 脇目もくれずに由貴の元へと歩いて行った波知は、両手を伸ばし、薄茶色の髪を掴む。

「おばけの目、きれい」

 それはまるで、りんごあめを前にした時と同じ様子で――今にも〝欲しい〟と言いだしそうな素振りで、小さな背中が、これまで見えていた景色を阻む。

「おい、チ」

「えぇ加減にせぇ!」

 刹那、怒号と、ゴツッという鈍い音が上がる。

「物をもろたら礼言わんかい! 人をおばけ呼ばわりすな! おまえこのまま川に放り込んで魚の餌にしたろか!?」

 拳骨と共に厳しすぎる叱咤を飛ばした厳三は、どうやら、怒りが頂点に達していたらしい。

「子供や思うて甘い顔しとったらつけあがりよってからに、何でもかんでも自分の思い通りになる思うなよ!?」

「う……うわぁあああああああああん」

 厄介な年寄りが本性を露呈させたことで修羅場と化した空間に、サイレンのような泣き声が響く、毎年恒例、いつも通りの展開。

 その、見慣れている筈の光景をひとしきり目で辿ったところで、千草は、はたとする。

 宙を仰いで泣きじゃくる波知は、振り返ることも、飛びついてくることもない。 小さな掌が伸びた先も、地面に落ちた齧りかけのりんごあめではなく――由貴だった。

「……びっくりさせて悪いな、坊……ちゃうわ。名前、聞いとこか」

 いやにゆっくりと感じた時間の中で、たったひとつ。

「……よし」

「ユキ」

 曖昧でいて明確な感情だけが、言葉になり、口をつく。

「そいつ、今日からうちに住むから」

 無意識のうちに出た発言に瞠目する厳三と、ボサボサの頭に掻きついて離れない波知――

 ただそれ以上に、小さな肩越しに見えた、由貴の、



 ――耳元に忍びこむ音が、徐々に大きさを増し、疎ましくなる。

 手探りで携帯端末を掴んだ千草は、ひとまず、画面を連打することで煩わしさを遮った。

 TVから流れる猛暑日のアナウンスに相応しく、野外では、蝉が喚いている。太陽の位置は相変わらず高いようで、昼寝を始めてから、それほど時間も経っていない。

 欠伸混じりに重い身体を起こせば、ものが散乱した机が視界に入る。飲みかけの酒の傍らには、先日隣人から貰った土産が鎮座していて――夢見の悪さの原因も、すぐにわかった。

「………………これか」

 無駄に重量のある瓶を手元に引き寄せ、千草は髪を掻き乱す。

 現状、一度も蓋を開けていないガラス容器には、身体に悪そうな色味の飴玉やガム、砂糖にまみれたビスケットなどが大量に詰まっている。子供ならば喜んで飛びつくのだろうが、甘いものを食べる習慣が無い大人にとっては、無用の長物だ。おまけに、赤、青、緑、全てが極彩色で構成された珍しい毛色の菓子は、部屋のインテリアにも馴染んでいない。それでも無性に懐かしさを感じて、これまでは誰かにあげることも、捨てることもできずにいた。

「……ほんと、甘ったるそう」

 英字の装飾が施されたラベルを苦笑交じりに指で押し、千草は窓辺へと目をやる。

 クーラーの送風で揺れるカーテンと、その向こう側から聞こえる子供のはしゃぎ声。数週間前に新調したソファのお陰で益々狭くなったワンルームには、匂い以外の、過去はない。

 ベランダの片隅では、真新しい土の盛られたプランターが、夏の日差しを浴びている。

 種が根付き、芽吹くまでにも、そう時間はかからないだろう。

「……そろそろ、潮時だな」

 思いのほか固く締められている瓶の蓋を回していくと、中からふわりと、柑橘系の香りが立ち昇ってくる。適当につまみ上げた一粒を口に放り込んでみれば、予想外にも鼻に抜けるような味がして、千草は片方の口角を上げた。

 凛とした雰囲気も、憎たらしい喋り方も、従順な性格も、全てを自分が作ったつもりでいた。

 それでも、最初から変わらないものが、ひとつだけあった。

 最初から――行き着く答えは、ひとつしかなかった。

 机に積み上げられた紙束の山から一通の封筒を拾いあげ、千草は中身を取り出す。

 大切に握りしめていたものを手放してしまうのは、諦めなのか、情なのか。

 いくら考えても理解できない思考の先にあるのは、いつも、夏の空に似た青い瞳だ。

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