02 波知


 タイムセールと銘打たれた安い食材を買い込んで、スーパーの自動扉を潜る。

 数分前に届いたメールには、昨日と同じく『マルボロ1カートン』という飾り気の無い文字が並んでいて、波知(なち)は思わず肩を竦めた。

 店の傍にある煙草屋で、頼まれたものを一箱だけ買い、ポケットの中にしまい込む。

 一日一箱も十日で十箱も値段は同じだが、買い与えた分はその日に吸いきってしまうのがユキなので、要望には応えない。不要になる日のことを考えて、買い溜めることもしない。

 道すがら顔見知りの主婦とすれ違い、簡単な挨拶を交わす。

 数年前から始めた料理には未だ慣れないのに、他人と会話することだけは嫌に上 手くなっていく自分が可笑しくて喉を鳴らすと、どこからか蜩(ひぐらし)の鳴き声が聞こえた。

 駅前のアーケードとは違い、廃れた商店街は空気がぬるい。こぢんまりとした店が密集する路地を抜け、交差点まで進むと、今度はシャッターの方が目立つようになってくる。

 近所の老人が寄るだけのトタン屋根の喫茶店に、小さな祠と地蔵。古びた建物が軒を並べる通りには、新しい家も人気もない。と言うよりも、ここ数年で、景色が変わった。

 粉塵と音を防ぐための養生シートが、はたはたと、風に揺れる。

 この時期になると少しずつ活気が満ちてくるはずの路地も、今年は連日、大人しい。

 ゆらゆらと揺れる夕日を目指して進んでいけば、いつものように、水を打つ老人の背中と、二階の窓の縁に伏せる隣人の横顔が見えてくる。

「ユキさーん、ただいま」

 一応は、と呼びかけてみたところで、ユキは鬱陶しそうに顔を背けるだけ。

 毎度お馴染みの出迎えに加え、早々に窓を閉められたことで苦笑した波知は、そのまま割れたプランターの側へと歩を進める。

「厳さんも。ただいま」

「おぉ。相も変わらずやな」

 声を掛けると、厳三は少しだけ頭を持ち上げて、からからと笑う。

「……今日は、鶏肉が特売だったよ」

 同じように〝相も変わらず〟の矛先に目をやった波知は、窓に映り込む入道雲をしばらく眺めたあとで、話題を変えた。



 夕刻になれば、いつも二階から路地を見下ろす影があった。

 独特な雰囲気のその人が、女の子ではないと知ったのは出会って暫く経ってからのこと。猫に似た青い瞳に、白い肌と薄茶色の髪――まるで人形のような風体の彼に、少しだけ異国の血が流れていると知ったのは、数年前のことだ。

 普段から歓談の場には現れず、他人と慣れ合うこともなければ、笑うこともない。口数が少ない代わりに喧嘩っ早く、万知子以外の人間に対しては、全て等しく攻撃的。

 ただ、ある一人を出迎える時だけは嬉しそうに、はにかんだような表情を浮かべる――

 その落差ゆえなのか、隣人の評判は、大きく二分していた。



 経年劣化で所々が崩れた石柱を横目に、波知は壁に貼り付けられている紙を剥がしていく。

 塀の高さ以上に育った野草に、塗装が剥げた壁、瓦屋根に至っては陥没しているところもあり、もはや手の施しようがない。おまけの張り紙効果は、近隣からの評判を軒並み落としている。元々からして綺麗とは言い難かったものの――今の隣家は、まるで廃墟だ。

「…………檻を寝床と間違えて居座っちゃった、野良猫、かぁ」

 脳裏に蘇った皮肉を呟けば、益々、目の前の景色が鬱蒼として見える。

 鍵のかかっていない古びた家は、檻、というよりはお化け屋敷に近いような気もするが、どちらにしろ、踏み込みにくいことに代わりはない。

 と、立ち止まる理由を探していれば、ふいに正面の引き戸が開いた。

 予想外の事態に加え、胡乱げな表情と対峙してしまったことで、波知は慌てて紙束を背後に回す。その仕草が気に障ったのか、一瞬だけ、青い瞳が顰められる。

 素材自体はいいものの、その他の部分に関しては全くもって無頓着。本日も、寝癖がついた染めムラのある髪に着古したジャージ、という井出達のユキは、見るからに機嫌が悪い。

「……何してんだよ馬鹿ハチ」

「た、ただいまっす」

 戸惑いながらもへらりと笑えば、案の定、戸を閉められる。

 気まぐれな言動は今に始まったことではないものの、そこに、様子を伺うような素振りが混じるようになったのはここ最近の話だ。警戒しているのか、心を開こうとしているのか、更に掴みどころがなくなってしまった辺りで対応にも困る。

 どれだけ考えても意図がわからない行動に、波知は少しの間を置いて忍び笑う。

 すると、どこからか吹いてきたいなさに乗って、甘いムスクの香りが鼻先に届いた。

 反射的に後方を顧みても、そこには誰もいない。馴染み深い匂いを追ったところで、行き着く先には違和感しかないことも、もう、知っている。

 陽炎が揺れる路面に瞬きを落とし、波知は、スーパーの袋の底に張り紙の束をしまい込む。代わりに取り出した新品の箱からフィルターを外せば、今度は独特な匂いが、鼻につく。

 本日一本目の煙草は、無駄に甘く、噎せ返るような煙が出る癖の強いもので――三年間吸い続けても、慣れることがない。

「…………」

 口内に残る味を噛みしめていると、腕に提げた買い物袋がガサリと音を立てる。

天の邪鬼なユキは、きっと何をしても、文句をつけるだろう。

 それでも、と目を伏せて、波知は今日も、似合わない香りを身に纏う。


 

 刷り込み意識とは怖いもので、どれだけ狭い世界にいようとも、脳は自身を取り巻く環境こそが「普通」なのだと認識してしまう。もちろん、自分の〝当たり前〟がごくごく一部の場所でしか通用しないということは、外に出てみないとわからない。

 四人兄弟の末っ子で、上の兄たちとは年が離れすぎているせいか、家族からは叱られたこともなければ窘められた記憶もない。今思えば、生まれた時から処遇が決まっていたからなのだろう。実家にいる間、波知は何の不自由もない、甘いだけの環境下で過ごしていた。

 小さい頃から年に一度、八月初旬の一週間にだけ訪れていた町屋通りは、非日常的で物珍しさに溢れる、いわゆる避暑地――

 そこに、何の前触れもなく放り出されたのは、中学に入る直前。万知子が、死んだ年だ。

「死に際の面倒を見て欲しい」という名目の跡取りとして、波知は、遠縁の親戚に当たる厳三から養子縁組の申し出を受けた。流石に驚いたものの、二つ返事で承諾してしまったあたりは両親と厳三の計画勝ちと言える。

 狭い部屋で食べる質素な食事や、手伝いをしなければ貰えない小遣い、小言に昔話、波知にとっては、厳三が与えてくれる日常のどれもが魅力的だった。

 ただそれ以上に――隣の丸井家に惹かれていたから即決した、ということは、内緒だ。



「高くて美味しい、よりも、安いのに美味しい、を見つける方が楽しいやろう」

 生前、万知子が野菜を吟味しながら呟いていた言葉を思い出し、波知は眉根を寄せる。

 早さ重視で作った豆腐ハンバーグの出来は、最悪だった。

 細切りにした野菜と豆腐、そこに塩コショウを混ぜただけの塊はフライパンに乗せる前に崩れしてしまい、もはや〝ハンバーグ〟とは呼べない。そぼろ状の水気過多な物体にソースをかけたあたりで、食欲を削ぐ見た目にも拍車がかかっている。

「何を入れたらこんな不味いもんが出来んだよ」

 諸々を誤魔化すために付けた鶏の塩焼きを一人で平らげて、ユキは盛大に舌を打つ。

「……これは……ほんと、すみません」

 滅多に出ない「不味い」という単語に思わず頭を垂れた波知は、せめて、作り方くらいは調べるべきだったと後悔した。

 箸をつける気になれない夕食をどう処理すべきか悩んでいると、溜息をつかれる。

「飯にもツマミにもならねぇ。つーか、肉使えっつったろうが」

 ごもっともな意見に加え、予想していた文句が飛んできたことで怖々と顔を上げた波知は、ユキが睨みを効かせながらビールを飲んでいたことで口をつぐんだ。

 いつの間にか、皿の上のそぼろハンバーグは半分にまで減っている。

 万知子の料理を食べ慣れている人間からしてみれば、間違いなく不味い代物だろう。コンビニやスーパーで買う惣菜の方が美味いことも、見てわかる。

 それでもユキは、絶対に、作ったものを残すことはしない。

「おまえさ、いい加減、野菜くらいまともに切れるようになれよ。あと、材料調べろ」

 掻きこまれる形でなくなっていく夕食を眺めつつ、波知は目を細くする。

 たらふく文句を言いながらも、出したものは食べ切ってくれるのがユキのいいところだ。

「おばちゃんのやつのね、作り方がわかればいいんですけど」

「……は?」

 自然と出てしまった独り言に反応して、ユキが箸を止める。

「…………おばちゃん、牛肉あんまり使わなかったでしょ。ユキさん豆腐好きだし」

 少し悩んだ末に思ったままのことを告げた波知は、対面の表情が珍しい変化を見せたことで続く言葉を飲み込んだ。

「…………万知ばぁの作るやつには、ジャガイモもニンニクもピーマンも入ってねぇよ」

 空っぽになった取り皿が、手荒く食卓に戻される。

「それっぽいもの、入ってませんでした?」

「…………山芋と山椒と獅子唐。どんだけバカ舌なのおまえ」

 頬杖で口元を隠して余所らを向いたユキは、ちくちくと嫌味を垂れながらも、どこか嬉しそうだった。

 余計な詮索をして機嫌を損ねないよう、波知は切りの良いところで話をやめる。

口に入れてみれば、火が通っていない野菜に豆腐、大量の水分とソースで構成されたハンバーグは、ユキが怒るのも頷けるほどに、不味かった。

 残したいという感情を料理共々酒で流し込み、すぐさま食後の一服に取りかかる。失敗した料理の後の甘い煙草、はなかなかに辛いものの、間を空けるよりはマシだろう。

 無言で雑音混じりのテレビを見て、ガラムを二本吸い、食器をまとめて席を立つ。

 洗い物を済ませたら風呂に湯を張り、洗濯をして、残りの時間は掃除に回す。

 どれだけ疲れていても、どれだけ会話を続けたくても、一旦背を向けてしまえば夜十一時の「帰ります」の挨拶をするまではユキの元に戻らない。

 これが〝他所者〟なりに考えた「丸井家」での難がない過ごし方だ。

 洗濯機の鳴らす騒音が聞こえなくなったことで、波知は冷蔵庫の整理をやめ廊下に出る。そのまま洗面所へと向かって行けば、ふと、居間戸の隙間から洩れた光がつま先を照らした。

 傍らを通り抜ける際に中の様子を伺ってみると、ユキは、気難しい顔をして携帯電話を開閉させている。

 塗装がボロボロの、いなくなる直前まで千草が使用していた旧式の機器と、だ。

 毎度ながら違和感を覚える光景に足を止め、波知は目を伏せる。

 アドレス帳にある千草の連絡先は、二年前から更新されていない。お陰で、日々送られてくる端的メールの送り主が「ユキさん」だと頭が認識するまでにも、時間がかかった。

 現在、所在がわからない丸井家の本来の主は、自由奔放で気まぐれだ。完全に行方を眩ませる前にも、たびたび家を空けたり、連絡が取れなくなったりと不規則な生活をしていた。今回の件に関しても、財布ひとつでの不在ゆえに、あって数週間だろうと踏んでいて二年になる。

 裏を返せば――いつ帰ってきてもおかしくはないので、心配はしていない。

「ユキさーん。スイカ食べます?」

 頼まれてもいない家事をあらかた済ませて、波知は再び、台所に戻る。

「いらねー」

 あとは、顔を見ない会話を交わしながら、時計が鳴らす十一時の報せを待つだけだ。

 手持無沙汰に水屋の中を覗いてみれば、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた瓶が目に留まる。大きなものから小さなものまで、たくさんの色と形が混在しているそれは万知子が愛用していた調味料で、京都から移り住む際に持ってきた品だと聞いている。ただ、名前を見たところで、どの料理に使うのかがわからない。醤油と塩だけでもかなりの種類があり、薬味に至っては葉や実ごと保管されているので、これまでは見て見ぬ振り状態だった。

「ごめんね、ちゃんと活用できなくて。でも、山椒? は使っていいみたいだから」

 手前の小瓶を床へと出し進めながら、波知はお目当てのものを探す。

「…………何やってんの」

 すると、珍しいことにも、すぐ後方から声がかかった。

「えっ、と………………掃除を…………」

 数時間前に怒られた一品の話を出すわけにもいかず、波知は咄嗟に、現状を誤魔化す。

 壁に凭れかかってこちらの様子を伺っていたユキは、止めることも呆れることもなかったが――代わりに、その表情を一変させた。

 気位の高い猫、というよりは、獲物を見定める獣に近い、威嚇しているかのような冷やかな視線と雰囲気。千草に次いで手の早いユキが本気で怒る直前の態度は、傍で見ていた人間ですら「背が凍る」と揶揄していて、実際に向けられてしまうと身動きが取れない。

「……山椒、探してました」

 ふいに陥った一発触発の空気に動揺を覚えながら、波知は声を絞り、本来の行動を告げる。

 射抜かんばかりにじっと目線を合わせてきていた青い双眸は、訂正した言葉の真意を探ってでもいたのか、暫くのあいだ瞬きひとつ落とさなかった。

「……余計なことするな」

 視線が逸れるのと同時に、ユキは含蓄のある捨て台詞を残して踵を返す。

いつも通りの声音にひとまず安堵した波知は、華奢な背中が見えなくなるのを見計らって、細く息を吐き出した。

 二年経ってもなお、どこに、どのように潜んでいるのかが把握できない〝地雷〟

慎重に手探りを続けても、何気ない会話、行動、場所の中に存在しているせいで稀に踏んでしまうそれは、十あるものをマイナスにするのも容易で、厄介な代物だ。 起爆を判断できる要素は、ユキの反応ただひとつ。ゆえに波知は、曖昧な表現の中に混じる片鱗を見落とさないよう、見誤らないよう、日々の生活に神経を張り巡らせている――つもりでいた。

 錆びた流し台の隅にそっとガラムの箱を置き、部屋の電気を消す。

「それじゃ、帰りますね。ちゃんと風呂入って下さいよ」

「うるせぇっつの。とっとと帰れ」

 憎まれ口と、古い家にはお似合いの、少し外れた鳩時計の音色――

 あの夏の夜から少しずつ歪み始めた日常は、目を背けるほどに、息苦しさを連れてくる。

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