01 ユキ
旧式のクーラーが、湿気た冷風と一緒に騒音を散らせる。
いつからそうなっていたのかはわからないものの、剥き出しのフィルターには見てとれるほどのヤニ汚れが沈着していて、ここ数年に関しては埃の積もり具合も酷い。
年々効きの悪くなる空調機器を尻目に欠伸を零せば、雨染みで煤けた天板がミシリと嫌な音を立てる。色褪せたフローリングに、落書きだらけの小さな机とボロボロのソファ。そのくせTVだけは真新しいというアンバランスな室内を流し見て、ユキは寝返りを打つ。
「まるいさーん」
数時間前から煩わしいBGM役をこなしているのは、おおかた三、四人の男。とは言え、判断材料は戸の叩き方と声音のみなので、実際の人数はもう少し多いのかもしれない。
「まるいさーん。いるんでしょー」
窓に遮断されることでいくらかくぐもった声が、飽きもせずに同じことを叫ぶ。
明らかに掠れ始めた声に〝ご苦労さん〟というお門違いな呟きを贈ったユキは、再び込み上げてきた欠伸を噛み殺して、傍らに手を伸ばした。
探るように机上を辿って行くと、ふとして冷たいものが指先を掠める。小さな水音を伴い手の甲を濡らしたグラスは、昼頃から放置しているもので、部屋に持ち込んで以降は一度も口をつけていない。ここに来るまで触れることすらしなかったせいなのか、中身は白と茶の二層に分裂していて明らかにぬるそうだ。
「まるいさーん! いい加減、お金返してくれませんかねぇ!」
いくらか語調の荒くなった呼び声が聞こえてきたことで、止まっていた指先が動く。
零れんばかりに積もった吸殻に対して、箱の中身は残り僅か。開いたままにしていた携帯に変化はなく、ユキは舌打ち混じりに煙草を咥える。
喉元に流れ込む味は、酷く苦い。唇の端から洩れた煙が埃臭い風に煽られれば、室内に篭る匂いは例えがたいものになり、視界がぼんやりと曇る。
それでも不思議と、気分は凪いでいく。
デジタル時計の数字が、5から6へと変わる。階下で鳩時計が暢気な音を鳴らせば、合わせるように野外で、夕刻を告げる音楽が反芻を始める。
窓の外に広がる空が茜色に染まり、入道雲の群れも形を崩し始める〝今日の終わり〟
音を鳴らす気配が無い携帯を開閉しながら、ユキは煙草のフィルターを噛む。
三時過ぎに送ったメールに、返信はない。二時間前から軒先に居座っている集団は、飽きず似通った暴言を叫んでいる。だが、彼らにも時間はある。
伸びてきた灰を落とすために身体を起こすと、表の方で物々しい音が飛ぶ。
怒号に近い声と、蹴り飛ばしたものが何かにぶつかるような音――手荒い行動に見切りを察したユキは、窓辺へと移動し、擦りガラス越しに路地を見降ろす。
時刻は六時十分。先ほどまでとは一転、少しの談笑を置いて遠ざかる黒い影は、ある意味律儀だ。時間は厳守で行動も同じ、昨日と異なるものは、何もない。
男たちが完全に立ち去ったことを確認してから、ユキは錆びた縁に手をかける。 今日も今日とて建てつけの悪い窓は、力任せに引けば金物を掻くような音を立て、同じ場所で止まってしまう。鍵についてはもはや飾り状態で、随分と前から動かない。
ぼんやりと景色を眺めていれば、隣の文房具屋から白い頭が現れる。鉛色のバケツと木の柄杓を手に現れた老人は、飽きもせずに、古びたプランターに水を撒く。朝と同じように、昨日と変わらないことを、日がな繰り返す。ただそれだけの光景が、今は無性に目につく。
生温い風が頬を撫でたことで、ユキは無意識に瞬きをする。
視界を遮るまでに伸びた前髪が、邪魔だと思い始めたのは、いつからだったのか。
「ユキさーん」
そんなことを考えていれば、ふいに、商店街の方から威勢の良い声が飛んできた。
「ただいま」
瞬く間に家の前まで駆けてきたハチは、鬱陶しいまでの笑顔で大手を振る。
泥まみれのツナギに、腕には頼みもしていない大きなビニール袋がみっつ。どうやら仕事帰りに寄り道をしてきたらしい忠犬に目を眇めて、ユキは窓の縁に肘をつく。
「厳(げん)さん! 今日は夏野菜」
「おぉ。こらえぇな」
買い物袋のひとつが、水撒きをする隣人・多岐川 厳三(たきがわ げんぞう)の手に渡るのも、いつもと同じ。
そんな、変わり映えのしない光景に溜息を吐いて、ユキは重い窓に手を掛けた。
楽しげに揺れる金色の髪を視界から遮れば、むっとした空気が身を取り巻く。
煙草と、古びた家の匂い。積み上げられた雑誌も、脱ぎっぱなしの服も、散らかったままのテーブルも――いつからか、日常の、当たり前になっている。
ツギハギの多いこの家は、奇妙な造りをしていて、無駄に広い。
一階南側の部分には、台所、風呂、トイレなどの水回りが一式と、二〇畳以上の居間に、和室がふたつ。廊下を挟んで北側には、一面に棚が備え付けられた巨大な物置と給湯室、更に洋室がひとつ。二階には和室と洋室がふたつずつで、内階段も二カ所ある。
ただ、大豪邸にも劣らないのは部屋数だけで、構造は非常にお粗末だ。外観は一軒家、だが実際は、築五〇年以上経つ古民家と、それより少しばかり新しい店舗を内部で繋ぎ合わせているだけの「ハリボテ」に過ぎない。改装を施したのも素人らしく、適当に打ちつけられたトタン壁と床板は隙間だらけ。冬は寒く、夏は風が通らないという難具合だったりする。
角地と言えば響きは良いものの、東側には大きな国道が走っているために、昼夜を問わず野外の音が絶えない。駅から徒歩五分という立地条件の良さからか、南側には高層ビルが増え始め、日当たりも悪くなる一方。おまけに、一階の半分を占める店舗部分や、数が多すぎる部屋の殆どは物置になっていて、老朽化が激しい。二階の繋ぎ目部分に至っては、放置しすぎたせいなのか殊更に劣化が早く、下手に動けば倒壊するという有様だ。
先日踏み抜いてしまった床板の周辺を避けつつ、ユキは慎重に階下へと進む。
雨戸を閉め切っているせいで、二階の廊下は日中でも薄暗い。そのくせ耐え難い熱がこもっているのは、間取りの大半を占める二間続きの和室に、陽光を遮るものがないからだろう。
古い家具と荷物が雑然と並ぶ部屋は、全面が、西日に晒されている。壁に立てかけられた穴だらけの襖は役目を果たしておらず、年々、ものの風合いだけが焼き消されていく。畳に関しても、イグサの匂いはおろか、元の色味すらない。
どうせものを建てるのなら西側に、とは思うものの、そう、上手くもいかない。
足場の狭い階段を下りきると、ちょうどハチの背中と鉢合わせになる。
何を買って来たのかと思えば、玄関のあがりかまちに置かれたビニール袋からは緑と黒の縞模様が覗いていて、ユキは大きく溜息をついた。
「おまえは、メール一通返せねぇほど忙しいのか」
腕組みをしたまま丸くなっている背に蹴りを入れると、足元にあったらしいもう一つのビニール袋からトマトが転がり出てくる。
「昼からちょっとバタついてたんですよ。あと、いつも言ってますがカートンは駄目です」
首を後ろに倒して返事をしたハチは、日焼けした顔を少しだけ渋めて、傍らにある袋を持ち上げた。
「代わりにスイカ買って来たんで」
「……冷蔵庫入れとけ」
差し出されたものを受け取ることなく、ユキはさっさと踵を返す。
〝入るかな〟という声を背中で聞きつつ居間の扉を開ければ、昼の間に溜めこまれた熱気が、一気に襲いかかってきた。
壁に備え付けられた冷房機の元に行き電源を入れると、今にも壊れそうな音が鳴る。二階同様効きの悪い空調は、最低温度に設定していても、風が温い。
額に汗が滲み始めたことで、ユキは縁側に続く襖と、外に繋がる窓を全開にする。
心地いいとは言い難い風に加えての、全く手入れをしていない庭で伸び放題の野草がさわさわと揺れる様は、倦怠感しか呼ばない。ついでに言ってしまえば、この時期は蚊が酷い。
「おい。そろそろ虫避け買ってこい。窓開けらんねぇ」
「いいですけど……ユキさん、窓開けてることあんまないですよね?」
「い、ま。開けてんだろ」
縁側に腰を据えて蚊を払っていると、扉の閉まる音に続き〝はいはい〟という、何とも嫌味ったらしい返事が届く。
「ただいま、おばちゃん」
間もなく聞こえてきた馴染みの挨拶に振り返れば、ハチはいつものように飾り棚と向かい合っていて、ユキは渋々、言及を止めた。
古臭い人形や奇妙な置物、趣味の悪い絵画に、使い道のわからない装飾品――無駄にごちゃごちゃとした棚の中央には、この家の持ち主の写真と、小さな仏壇がある。
現状、皺くちゃの顔にひょうきんな表情を浮かべる老婆に手を合わせるのは、ハチひとりだけ。縁側に置かれた銀色の灰皿も、自分とハチ以外に、使われることはなくなった。
それでも、昔と変わらず、今もここにある。
数年前までこの家は〝ボロ宿〟という愛称で周囲の人から呼び慕われていて、その名とは正反対の華やかさがあった。戸口に鍵が掛かっている日は殆どなく、いつも誰かしらが家の中にいて笑い声が満ちている、そんな場所だった。
養護施設でもなければ、慈善事業宿舎でもない。それなのに数多くの子供、と呼べる世代の人間が集っていたのは、この家の主、丸井万知子(まちこ)が偏屈な老婆だったからなのだろう。
皺まみれの顔に濃い化粧を施し、派手な着物を身につけ、駅前を徘徊する若者に声を掛けるのが万知子の日課。
度肝を抜かれる装いと「おばちゃんと、家でぇとせんかね」という誘い文句は、当時一部の若者の間で有名になっていて――ユキもこの善意に甘えて、ボロ宿に足を踏み入れた口だった。
寝泊まり、食事、入浴、あまつさえ滞在までをも許可しているのに、万知子は手土産として持ち寄られる菓子や酒以外は受け取らない。どんな理由があれ、説教をすることも、追い出すこともしない。「ただいま」「いってきます」の挨拶が宿代というのがこの家のスタイルで、それさえこなせるならばどんな問題児でも無償で受け入れる。
朝・昼・夜、決まった時間に振舞われる料理を仲良く食べること。
夏の川祭で出す、的屋の手伝いをすること。
望まれるものもそれくらいだったので、何か裏があるのでは無いかと疑う者もいたが、ボロ宿を訪れる者の大半は万知子の心づくしに深い意味を見出すこともなく、体の良い溜まり場として家屋を活用していた。
数時間で帰っていく者から、二、三週間滞在していく者まで、居座る期間にばらつきはあったものの、よく見る顔には素行不良という単語が似合う人間が多かったように思える。
対して万知子はと言えば、多少派手好きなことを除けばごくごく普通……むしろ、品の良さすら伺える立ち振る舞いをする老婆だった。
ただ「悪さをするなら自己責任」という常識外れのアドバイスが上等句で、未成年の飲酒喫煙、派手な喧嘩に至るまでを笑って見ている。加えて「みなで楽しく過ごすためには人の「傷」には触れないこと」と、いうのが口癖で、訪れる者の素性を聞こうともしない。
そんな一風変わったルールのお陰か、世間の波からあぶれた者ばかりが集まっていたにも関わらず、この家で大きな問題が起きたことはない。
裏を返せば――上辺だけの慣れ合いしか、浸透していなかったとも言える。
ユキは、十数年来の付き合いになるハチはもちろん、万知子の素性すら詳しくは知らない。
名前や年といった必要最低限の情報と、会話の流れで口にした話題以外には探りを入れないというのがこの家での暗黙の了解で、身の上話をする機会もなかったからだ。
隠したい「何か」があるからこそ、ひたすらに笑って騒ぎたいという気持ちはユキにも理解できて、ボロ宿に集う面々も、きっと〝そう〟だったのだろうと思っている。
それでも、知らないことが多すぎるまま今に至ってしまった、ということに関しては、後悔もしていた。
「飯。素麺でいいですか?」
考え耽っていると、仏壇に手を合わせ終えたハチが嬉しそうに近づいてくる。
居候たちの中では一番年下で、犬のようにちょこまかと動いてくれるために〝ハチ〟というあだ名をつけられていたこの男は、今でもその気質が抜けていない。頼みもしないのに飯を作ったり、身の回りの片づけをしたりと、世話を焼いてくれている。
「飽きた」
手持無沙汰に煙草を吹かしつつ、ユキは傍らの籐座椅子にもたれ掛かる。たった一言でも望むものが伝わったのか、ハチは頷きを落としてからさっさと台所の方へ向かってくれた。
体躯だけは無駄に育っているものの、中身は出会ったころと大差ないように思える。
ポケットからはみ出す煙草の銘柄も、室内にある甘い残り香も、三年前から変わらない。
自由奔放、という、いらない所だけ祖母に似た万知子の孫――千草(ちぐさ)と同じ嗜好品を、忠犬は律儀に愛用している。
しばらく待っていると、夕食を乗せたトレイと缶ビールを手にハチが戻ってくる。仕事帰りで余力が無かったのか、はたまた面倒くさかったのか、本日の献立はキムチと野菜炒めという質素なものだった。
「……今度、ハンバーグでも作りますから」
黙っていれば、心の中を読んだかのように、ばつの悪そうな声が降ってくる。
「……豆腐じゃなくて肉使えよ」
広いテーブルに乗せられる皿を目で追っていたユキは、どうにもハチが表情を伺っているような気がして、少しだけ俯いた。
しんと静まり返った廊下、明かりのついていない階段、華々しさの欠片もない食卓。
六年前の冬、万知子が脳卒中で呆気なく逝ってからというもの少しずつ減ってきていたこの家の滞在者は、今や、ユキとハチの二人だけだ。
的屋の売上金を全て葬儀費用に回したあと。万知子が駅前に出ることが無くなってから。
本当の意味で寂れ始めたボロ宿は、瞬く間にただの古民家に戻った。
元より集まっている者同士の関係が薄かったせいか、繋ぎとめる人間がいなくなってしまえば足が遠のくのも当然だったのだろう。万知子の葬式後にこの家を訪れたのは、千草と仲がいい友達くらいなもので、その他には、線香をあげに来る者もいない。千草と、事故で亡くなったという娘夫婦以外に身内はいなかったのか、親族が訪ねてくることもなかった。
そんな万知子が残したものはボロ宿ひとつだけで、ここまでどうやりくりしていたのか、財産などはどこを掘り下げても見つからない。
いつ壊れてもおかしくない、諸々の維持費が必要なこの家――
それが、万知子がいなくなって六年たった今でも、この場所にある理由。
「……ユキさん、髪伸びましたね」
ふいに、ふわりと、バニラのような香りが鼻先に舞い込んでくる。
「切らないんですか?」
嫌味に乗じて顔を上げたユキは、いつの間にか用意されていたガラス灰皿の置口に、金色の印を押された煙草が乗っていたことで、表情を固くした。
髪を切ってくれていた人間がいなくなって、二度目の夏。
煮え切らない感情を飲み込んで、ユキは不格好に切られた玉ねぎに箸を突き刺す。
「あと、そろそろ外出ないと体力落ちますよ」
まさかの追いうちを掛けられたことで目線を前に向ければ、ハチは、ビール缶のプラグを引き上げつつ苦い笑みを零していた。
今年の春から、ブレザーではなくツナギを着て家を訪れるようになった男は、二年間、沈黙を守ったまま。行方を眩ませた千草に代わり、このボロ宿の面倒をみてくれている。
他愛のない会話をしながら夕飯を食べ、一通りの家事をして、夜の十一時に帰宅――以前は週に一、二回、千草がいる時にだけ遊びに来ていたハチが、奇妙な行動を取り始めて二年。最初のうちは違和感しかなかった時間も、今となっては、日課と化してしまった。
さして美味くもない夕食をつまんでいると、にこにこと笑いかけられる。
それなりの稼ぎも帰る場所もあり、容姿も悪くない。
性格も雰囲気も温和そうに見える男に、一向に女がつかない原因――
考えはじめると深みにはまってしまう気がして、ユキは、口から出かかった言葉を飲み込む。
「……気が向いたらな」
「え? なにがっすか?」
自分で聞いたことにも関わらず、ハチは不思議そうな声を出して小首を傾げる。
「長々と、おまえの世話になるつもりはねぇっつったんだよ」
いつまで続くのか。いつ、終わりを告げられるのか。
そんな先の見えない毎日を繰り返していても、ユキは、この場所から離れることができない。
二階建ての白塗りアパートの、階段を登って右から二つ目の部屋。
小汚いワンルームの空間で、女はよく「あんたを生んだのが間違いだった」と呟いていた。
常に閉ざされていたカーテンの向こう側にも、鉛色の扉の先にも、出ることは許されない。何が正しいのかを、教えてくれる人間もいない。狭い廊下で、女の生きる様と、物の散乱した部屋を眺めながら、ただ置物のように過ごす。それが、幼いユキの世界の全てだった。
甘い匂いと女の欲が溢れる場所で、どう振舞って過ごしてきたのかは、もう思い出せない。数えるほどしか呼ばれたことがない名前、定期的に髪を切られていたこと、男たちの憐れむような顔と、常に襲われていた空腹感……断片的な記憶ですら曖昧で、ロクなものはない。
唯一鮮明に覚えているのは、女が大切にしていた〝パンドラの箱〟のことだ。
たくさんの瓶が並べられた鏡台の、一番下の引き出しのその奥に、しまいこまれた宝物。
毎夜のように異なる男を連れ込み、爛れた生活を送っていた女だったが、それを眺めている時だけは違う生き物のように穏やかな顔をしていた。
週に一度が二度、三度となり、完全に女が家に帰ってこなくなったのが十四年前。
食べ物が底をつき、成す術が無くなった時に初めて、ユキは鏡台に手を伸ばした。
女が触れることを極端に嫌がっていた宝物の正体は、古い写真が一枚と通帳一冊、ただそれだけ。〝金〟という概念がなかったユキにとっては、両方共に、何の役にも立たない代物だったが――そこには、幼いながらもわかる、小さな光があった。
薄闇の中で寝がえりを打つと、ボロボロになった土壁が視界に入る。
無意識のうちに身体を丸めていたユキは、窮屈な空間からしか見えない世界をぼんやりと眺めてから、ソファの下に手を入れた。
〝サエジマ ミナミ〟という名前が印字された通帳の残高は、昔から変わらない。
価値が分かるようになってからも、引き出す術がないために無価値なままの品の持ち主は、多分、女のもうひとつの宝物の中にいた人物なのだろう。
今となってはおぼろげにしか思い出せないものの、写真には、豪快に笑う一人の男が写っていた。自分とは似ても似つかぬ、女が連れ込むどの男とも違う端正な顔立ちの若い男だった。
「……これ渡したら、何とかなんのかな……」
いつのまにか失くしてしまった〝パンドラの箱の鍵〟――これまで目を逸らしてきた存在に思いを馳せ、ユキは通帳を見据える。
この家に来てから十四年、ずっと寝床にしている二人掛け用のソファも、今では、膝を曲げなければ収まりきらないほどに小さくなってしまった。それでもここが一番落ち着くのは、生まれて初めて与えられた、自分の居場所だからなのだろう。
家を出てから一度も会っていない女が、どこでどうしているのかは知らない。
正確な年もわからず、学校にすら行っていない自分を、何も聞かずに受け入れ養ってくれたのは、万知子だ。義務教育だけは、と中学に入る手配をし、〝冴島〟という名字を用意してくれた時点で、女に対して、何かしらの手を尽くしてくれたこともわかっている。
だからこそ、いなくなった今だとしても――恩を仇では返せない。
すっかり目が冴えてしまったことで、ユキは髪を掻き乱し起き上がる。
そのまま階段を下れば、嫌な静寂と、床の木板が軋む音が身体に纏わりついてきた。
居間の広い卓には、吸殻の無くなった灰皿と、小遣いだと言わんばかりに一箱だけ用意された新品の煙草が置いてあり、なんともいえない複雑な気分になる。
蒸し暑さも手伝い踵を返したユキは、ふと思い立って、台所へと向かった。
ガラス玉を連ねた暖簾を潜って踏み込んだ空間は、とても広く感じる。対して、汚れた食器も、開けっぱなしの菓子袋も、飲み散らかされた酒瓶も無いシンクは、小さく見えた。
二段しかない冷蔵庫の下側の扉を開けると、規則正しく整列する缶ビールと作り置きされた麦茶、スイカの入ったタッパが目につく。結局まるごとでは収まりきらなかったらしい夏の風物詩は、夕食後にハチが角切りにして冷やしたようだった。
ビールを一本取り出して扉を蹴ると、冷蔵庫の上から何かが落ちてくる。運悪くつま先に当たったものはハチが使っているZippoのライターで、ユキは舌打ちしつつ身を屈めた。
似合わないにも程がある代物を拾い上げれば、一緒に置き忘れたらしい煙草が視界に入る。
コンビニにはあまり置かれていない、無駄にタール値の高い、ボックスタイプのガラム――
半ば誘われるようにして小ぶりな嗜好品を手中に収めると、残り少ない中身は、乾いた音を立てて箱の中を転がる。
色褪せたタイルフローリングにしゃがみ込み、ユキはハチの忘れものを眼前に翳す。
ひとしきり箱の装丁を観察してから表面に鼻先を近づけてみれば、ヤニの匂いに混じって、僅かに甘い香りがした。
フィルターの部分を舐めてみると、女が好みそうなバニラの味が舌先に纏わりついてくる。
そのくせ、火を灯せば苦く、微塵も美味くない。
「……まっず」
勝手に拝借した一本を前歯で噛みしだき、ユキは首の後ろに手を回す。
爆ぜるような音を立てて縮むガラムの、甘くて苦い、奇妙な香り――
懐かしくて恋しい、大嫌いな匂いが部屋を満たせば、また、長い夜が始まる。
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