〇.五次元昇格
ぐぅうぅぅ――――っ
うちの裏庭に、間抜けな音が鳴り響いた。
「……」
私は無言で剣を拾い上げ、家の中に入る。ママが置いて行った車のキーを取ってきて、剣を車の中に放り込んだ。――この車、パパがまだ名義変更しないって、ママ愚痴ってたっけ。おかげで税金は全部ママが払っているらしい。
「……」
鍋に火をかけて、湯を沸かす。お湯二リットルに大匙二杯の塩を投入。お湯を沸かしている間ににんにくの皮をむき、スライスし、フライパンに引いた多めのオリーブオイルに香りを移す。火はとろ火。焦がさないようにするのが難しい。グアンチャーレとかパンチェッタが欲しいところだけど、あんな高いもん……ベーコンで代用。
湯が沸いたので鍋にパスタを入れた。このパスタはパッケージによると茹で時間は八分。まな板や包丁を洗って片づけても、まだ茹だるまで時間がある。
「……ほら、起きて」
裏庭で天を仰ぎながらモルトにじゃれつかれている少年は、かなりぐったりしているように見えた。
私は少年の手を取り、スリッパをはかせ、家の中へ担ぎ込む。少年の背は私とそれほど変わらなかった。まっすぐ歩けないほどふらふらで、見ているだけでもつらそうだ。どんだけ食べてないんだろう? 食卓の椅子に座れとジェスチャーしたら、少年はよろよろと座り込んだ。
掃き出し窓で行儀よく待っているモルトの足を拭いてやり、リビングに入れる。パスタの最後の仕上げに取り掛かろうと台所へ向かおうとしたとき、少年に腕を掴まれた。
「◎△%#?」
まだ何かするつもりなのかと思ったら、どうも胸を押さえて何か取り出そうとしている。
「え? なに? ――どうしたの? それ、薬?」
少年が取り出したのは、いびつな形の陶製の小瓶だった。開口部は紙のようなもので覆われていて、きつく縛ってある。――もしかして、今すぐ薬を飲まないとまずい状況なのかも。私はエピペンを持ち歩いていた小学時代の同級生を思い出した。
「開かないの? 貸して!」
固いひもでぎちぎちに縛られていて、ちょっとやそっとじゃ開きそうにない。ペン立てからはさみを取り、無理矢理こじ開ける。
「ほら、開いたよ! これ、いるんでしょ?!」
だけど、少年は小瓶を受け取らず、私のほうにつき返してきた。
「匂いを嗅げってこと? 何も匂いなんてせんけど……う~ん、かすかに花の香りがする……かな? あっ! ちょっとこれ、変な麻薬とかじゃないよね」
しいて言えば、ママの持ってた香水の匂いに近い。確か、ベラドンナリリーとか言ったかな?
「俺の言葉が分かるか」
「え?」
その時、それまで意味不明な音でしかなかったものが、急に甘やかな声として耳に届いた。少年が赤く輝く瞳でこちらを覗き込むように見つめている。
「お嬢さん。俺の言葉が、分かるか?」
「え、あんたが喋ってるの?」
てか、お嬢さんて。同い年くらいの年齢の子に言う言葉じゃないよ。何か間違って覚えてるんだろうか。
「どうやら、通じているようだな。すまないが、ここがどこだか教えてもらえるか」
さっきまでは非人間的な美形だと思っていたけど、日本語を話すとぐっと身近に感じられるようになる。もちろん、美しさはそのままだけど、二次元から二.五次元のキャストさんぐらいには距離感が縮まった感じ。それでもかなり遠いけど。
「ええと、ここは日本ですね。東京のお隣○県×市」
少年の背は私と同じぐらいだから、結構小さいほうだ。それなのに声は思いのほか低めで、クラスの男子の声が急に低くなっていった頃を思い出す。もっとも、低いとは言っても『渋い』って感じではなくて、『甘い』とか『豊か』って言葉が合いそうな美声だけど。配信とかやったら、顔出ししなくても人気出るんじゃないかな。
「すまない。その地名に心当たりがない。俺はサングリアル王国から来た。名前は……そうだな、シグラールという。サングリアルがどこにあるか知らないか?」
「あ、はいこれはこれは……。私は塚本ひまわりと申します。サングリアル?」
スマホで検索しても、それらしき国名はない。古い漫画で、海賊に攫われた少女の故郷がそんな名前だったみたいだけれど。
「ってかあんた、日本語喋れたの? だったら最初から喋りなさいよ。剣なんて振り回す前にさぁ。あれ、どこから持ってきたの? 撮影か何かの小道具?」
「突然剣を向けたことは本当にすまなかった。目が覚めたら見知らぬ場所だったものでな。敵国に捕らわれたのかと思ったが……、ここが仮に敵国でも、貴女は俺を介抱しようとしてくれた。そのような人に、二度と剣を向けることはないと誓おう。それから、俺は貴女の国の言葉を喋っているわけではない。さっき嗅がせたのは〈歓語の朱頂蘭〉の風を封じた粉で……」
「あ、あー! そうだ! 髪切られたんだった! どうしよう? 前髪変になってないかな!?」
敵国……とか何とか、なんか変な言葉を聞いたような気もするけど。
シグラール君の話を遮って、洗面所へ駆ける。どのくらい斬られたのか分からないけど、パッツンになっていたらどうしよう? パッツンなんて難しい髪型。あんなの可愛い子じゃなきゃ絶対ムリ! せっかく『パキモン』のミカヅキちゃんと同じ髪型にしてるのに!
「良かった……ほんとに、一~二本だけだったんだ」
シグラール君に斬られた髪は、耳の後ろと肩のところに張りついていた。狙って数本だけ斬るなんて結構すごいんじゃないかと思うけど、一体何者なんだろう?
ピピピピピ!
その時、キッチンタイマーが鳴った。八分だ。
「とりあえず、おうちのことは置いといてさ。お腹空いてるんでしょ? ご飯食べてきなよ。私もおにぎり一個じゃやっぱ足りなかったから、一緒に食べよ」
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