第2話 事件

 その授業は僕と彼女の接点を作るという重要な役割を負ったわけだが、僕達はそれ以上の仲を築くことなく夏を迎える。

 僕の着ていたパーカーはいつの間にか半袖のシャツの代わっていたし、長かった彼女の髪も肩程度で切り揃えられて、耳の辺りを可愛らしい花柄のヘアピンで留めていた。

 相も変わらず僕は、太陽の光る炎天下の下でクラスの男友達とつるんでサッカーやらドッジボールやらを繰り広げていたし、篠原かなでは誰ともつるむことなく教室で一人で本を読んでいた。

 僕はそんな合間を縫って、誰にも気づかれないようにこっそりと篠原かなでのことを目で追っていて、時折目が合って篠原がにっこりと笑うことをうれしく思い、またそうなることを期待していた。

 僕達は相変わらずただのクラスメートというだけの関係で、休み時間に誰かを交えて話すということもなかったし机を合わせて給食を一緒に食べるというようなこともしなかった。

 それでも僕は、彼女の持っている本についての関心をいくらか持つようになっていて、彼女が読んでいるその本が、僕の知っているタイトル、読んだことのある本だとほこっと心が温かくなった。

 何も変わっていないようだけれど、それでも僕たちの中にはいくらかの変化が生まれていて、その中の一つの変化が茂木和義。

 茂木和義は去年隣町の学校から転校してきたやつで、僕やツッチーは別のグループに所属していた。そんなに仲が悪いわけではなかったけれど、決して仲が良いわけでもなくて、特にノリこと畠山康則との相性は最悪だった。

 茂木和義は重度のお調子者で、クラスの中には一人や二人はいるであろう悪ガキだった。 クラスの女子にセクハラまがいのいたずらだって平気でしていたし、誰かの話では学校近くの駄菓子屋で万引きだってしているのだという。

 畠山康則と茂木和義は事あるごとに衝突していて、僕とツッチーはそのとばっちりと受けたり受けなかったりしていた。

 僕は茂木和義のことが嫌いではなかったが簡潔に言うとただ単に関わりたくなかった。 そんな奴仲良くなってと今現在関わっている友人たちに嫌われたくもなかったし、茂木和義は僕と「反対側の自分」であって、今現在僕の中にある僕のアイデンティティを崩したくなかった。


 しかしここで、いやでも関わり合いにならなければいけないような事態が起きてしまう。 何の授業のあとだったのだろうか。

 もしかしたら、帰りの会のあとだったのかもしれない。

 そのとき茂木和義は、数人の友達と一緒に教室の後ろでいつものように騒いでいた。隅っこにある掃除用具入れから長い箒とどこから持ってきたのかまん丸いボールを持ち出して、野球ごっこをして遊んでいた。

 武田雄二、大きく振りかぶってー。今ー、投げましたー!

 かっきーん!茂木選手、ホームラン、ホームランでーす!!

 なんていう馬鹿騒ぎを繰り広げているやつらの後ろで、真面目な女子や委員長が「なにやってんだよ」とか「馬鹿みたい」などと愚痴っていた。

 この年頃というのは女の子のほうが大人びているらしく、四年生のころに比べてだいぶ大人びた、もしくはおしゃれをしたような女の子がクラスに増えていた。

 怒られるのは大抵、ズボンのポケットの中にヤモリやイモリを突っ込んでいるような馬鹿な男児ばっかりで、自分の容姿と髪型に気を使い始めている女子はそんな男子の様子を冷たい瞳で見下ろしていた。

 そして僕は、自分を着飾り始めている女子に対し困惑すると同じにそんな女の子の変化に気がつかないように無意識のうちに努力をして、また低学年のように馬鹿騒ぎを繰り返しているクラスのやつらのことを傍観していた。

 僕は非常に揺れていた。

 茂木達のように馬鹿騒ぎをしたいと思う反面、恥ずかしくてあんなこと出来ないし、やりたくないというような気持が半々ずつ、それこそ振り子のように揺れていた。

 そんな僕のことを安定させたのは、誰でもない篠原かなでだった。

 もしも僕があんな風に教室の後ろで箒を構えていたら、間違いなく篠原かなでは僕のことを冷めた目で見るであろう。

 そうしたらもう、目が合った瞬間微笑んでくれることもないだろうしあんな風に将来の夢を教えてくれることもなくなってしまうのかもしれない。

 僕はそれが嫌だった。

 だからこそ僕は、後ろでぐじぐじと言っているその他の児童に混ざりこんで、一生懸命馬鹿をしている茂木和義を眺めていた。

 ボール堅そう。

 あれ、もし人に当たったらどうすんだろう。

 教室内で野球とか言って、あんなに箒振り回してガラス割れたりしないのかな。

 友人達のそんな言葉が耳に響いた。

 そんな級友達の言葉は、今、目の前で箒を構えている茂木和義にも間違いなく届いているはずなのだが、茂木本人はそんなことにはまるでお構いなしにプロ野球ごっこを続けていた。

 時々、バッドという名の箒をくるりくるりと回してみたり、足場を整えるふりをしていたりと、真剣な顔をしてテレビで活躍をしているようなプロ野球選手の真似をしている。そのひとつひとつの仕草が誰の真似なのか瞬時に分かるほど正確で、阿保なくらいに似ていた。

 馬鹿だ。

 僕は茂木和義から視線を反らして窓際の席に大人しく座っている篠原かなでに目を向けた。 篠原かなでの席は、窓際の、一番後ろ。彼女は、前の席に座っている矢沢萌と仲良く会話をしていた。

 矢沢萌と篠原かなでが仲良しだということに気がついたのは、最近だ。

 矢沢萌は結構活発で負けん気が強くて、僕はあまり得意ではなかったのだけれど、内気でおとなしい篠原には矢沢萌のような明るい子のほうがあっているのかもしれない。

 狭い木の机の上には最近女の子に人気のある可愛らしい手帳が置かれていて、一緒にそれを覗き込んでは笑ったり驚いたり手を叩いたりと顔の筋肉を器用に動かしていた。

(――あれ)

 篠原さんて、あんな顔もするんだ。

 僕は、一人だと思っていた篠原かなでに仲の良い女友達がいることに安心して、そして矢沢萌のことを羨ましく思い少しだけ嫉妬した。

 そうして僕は、たわいもない話で大人しく盛り上がりを見せているらしい二つを眺めていたのだが、篠原かなでがふいにこちらに顔を向けたことに驚いて、僕は思い切り視線を逸らす。

 僕が向けた視線の先では、変わらずに茂木和義がぶんぶんとバッドという名の箒を振り回していて、武田雄二が放ったボーがぽこっという鈍い音をたてて飛び上り、ひゅいーんと宙を切った。

 そして、その飛び上ったボールは予想よりもスピードが付いていたらしく、矢沢萌の頭に当たる数センチの距離で壁に当たり跳ね返った。

「きゃっ!」

 まさか、この距離で襲撃されるとは思わなかったのであろう矢沢萌は、派手な音をたてて頭を抱え顔を伏せた。バンッ!という音が教室に響き渡り、あまりに突然の出来事にざわついていた教室は水を打ったように静まりかえる。

 呆然と冷や汗を垂らす矢沢萌の正面では、目の前で起こった出来事を把握し切れていない篠原かなでが大きな瞳を見開いている。

 跳ね返った落ちたボールは、床に落ちて振動し、ころんというようにして頭を抱えた矢沢萌の足もとに辿りついた。

 矢沢萌は抱えていた頭をあげ、キッと眉を吊り上げて悪びれもなしに野球ごっこを続けている茂木和義を人睨みすると、バンッ!と勢いよく机を叩きつけて立ち上がった。

「茂木君!」

 矢沢萌は、後ろの出入り口前でぶんぶんと箒を振り回す茂木和義の前に立ちはだかると、腰に手を当てて仁王立ちをした体勢でこう言った。

「もう、そこどきなよ!危ないじゃない!みんな、迷惑してるんだよ!」

 叫ぶようにしてそう言った矢沢萌の言葉に茂木和義は、ぎょ、とでっかい金目鯛のような目玉を動かすと、何事もなかったかのようにして箒を構え直した。

 矢沢萌はぐぐぐと奥歯を噛みしめて両手を握りしめると、

「茂木君!」

 再度張り上げた彼女の声はあっさりと無視されて、茂木和義は箒を振り回した。

教室にあるすべての視線が、一気に二人に集中する。

 そして、とんでもなく顔を歪めた矢沢萌がもう一度声を上げそうになったとき、それまで黙って二人の様子を眺めていた篠原かなでが意外な行動に出る。

 かたん……という静かな音を立てて立ち上がると、鈴本和義にこう言った。

「もうやめなよ、茂木くん」

 僕は思わず息を飲む。

「みんな、ほんとは前のドア使いたいんだよ。みんな嫌がってるから、やめて」

 意外すぎる彼女の勇敢な行動に、クラス全体が静まりかえる。

 しん、と静まりかえった教室では、ぶんぶんという箒が宙を切る音が響いた。

 茂木和義はじろり、という嫌な視線を彼女に向けただけで、決してそこを退こうとはしなかった。

「そんなの知らねぇよ」

「知らないじゃないよ。みんな、迷惑してるんだよ」

「知らねえっていってんだろ」

「茂木君、もうやめなよ。茂木君が悪いんだよ。本当にみんな、嫌がってるんだからさ。野球やりたいんだったら外でやんなよ。こんなところでやるもんじゃないんだよ」

 篠原かなでの発言で、クラスの一部がわっ、という声を上げた。

 そうだそうだ。いいぞー、篠原さん。

 すげー、かっこいいー。

 一部からはぱちぱちぱちという拍手が上がった。

 僕はそんな喚声を聞きながら、どきどきと高なる心臓を抑えて目を見開いていた。

 篠原かなでは、こんなにも勇敢な少女だったのか。

 こんなにも正義感の強い女の子だったのか。

 篠原かなでは、誰とも慣れ合わないで無関係のような表情をしていたが、それはしていただけであり、クラスでなにが起こっていたのかちゃんと解っていたしちゃんと見ていたのだ。

 僕は、彼女の意外性に驚愕をすると同時に感動し、興奮していた。

 そしてここでまた一つ問題が起こる。

 篠原かなでと矢沢萌から否定されて、クラス全体からバッシングを受けた茂木和義がキレたのだ。

 茂木和義はそれこそ般若のような表情で「うっせぇよ!」と叫ぶと、一番近くにいた篠原かなでの体を力いっぱい突き飛ばした。

 彼女の小さな体は、クラスで一番体のでかい茂木和義の力に耐えられるはずもなくて、バンッ!という音をたてて床に転げた。

「かなちゃん!」

 猫のように体を丸めている篠原に、矢沢が駆け寄った。

 茂木の予想外な行動に、再びクラス全体が声を上げる。

 篠原の体が転げた瞬間、彼女のスカートのポケットからピンク色のポーチらしきものがすっとんで、そのまま鈴本の足もとに転がった。

「あっ……」

 声を上げたのは篠原かなでだ。

 そのポーチの持ち主が動くよりも先に、茂木和義がそれを拾い上げた。

「なんだよ。これ。なにがはいってんだよ」

 金か?とにやにやと嫌な笑いを浮かべながら、ぽんぽんと手中で放り投げる。

「いやっ。返してっ」

 篠原かなでは大急ぎで立ち上がると、自分よりも十センチ以上背が高いであろう茂木和義にすがりついた。篠原かなでのスカートから延びた白い膝には、じわりと血が滲んでいた。

「おっと」

 茂木和義はさっ、と片手を高くあげると、それをそのまま自分の金魚のフンである武田雄二にパスをした。

 武田雄二はぽすん、という音をたててそれを受取る。

 そして、武田から大内悠馬へ。

 そういう感じでキャッチボールを続けていたのだが、三回目に回ってきたところで茂木が再び行動を起こす。

「なぁ、これ、本当に何が入ってんの?」

「いやっ、開けないでっ!」

 茂木和義は篠原かなでの静止にはまったくもって聞く耳持たず、彼女に対し背中を向けると徐にそれを開け始めた。

 彼女の顔が、嘗てないくらいに悲しそうに歪んでいた。

「なんだよこれ」

 茂木と武田、大内の三人はその中身を見たとたん、ひどく落胆すると同時に不可思議な表情を作り出した。僕の所からは、その中身がなんなのかよくわからない。

 後ろにいる女の子達はわかったのか、ひそひそと内緒話をしている。

「いらねーよ、こんなもん」

 茂木は口の開いたままらしいそのポーチを、篠原かなでに投げつけた。

 中身を見られてショックだったらしい、呆然としていた彼女は投げつけられたことではっと我に返るが反応がだいぶ遅れる。

 気がついた時にはピンクのポーチとその中身がばらばらと散らばっていた。

 篠原の顔が真っ白になる。

「かなちゃんっ」

 篠原が屈むよりも先に矢沢萌が駆け寄って、それらの散らばったものをかけ集める。 篠原かなでの顔が羞恥心で真っ赤に染まり、大きな瞳には涙が滲む。

 僕は最初、それがなんなのかはっきりとしなかったが、周りの女子の反応と篠原の過剰な行動でようやくわかる。



 僕は前、見たことがある。

 家に帰って洗面所で手と顔を洗うと、洗濯機の上にぽてっと置いてあった。

 僕はそれがなんなのかよく分からずに、たまたま居間にいた姉ちゃんに聞いた。

 そうしたら意味もわからずにこっぴどく怒られて、男の子は知らなくてもいいんだと言われた。



 ああ、そうか。そういうことか。



 次の瞬間、僕は茂木和義に殴りかかっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る