絵のない絵本
シメサバ
第1話 かなで
「絵のない絵本」という童話がある。
屋根裏部屋に住む貧しく孤独な青年画家が夜空に浮かぶ満月と友達になり、「私の話すことをそのままかいていってごらん。きっと美しい絵本ができるよ」と、毎夜語りかけられる世界中の話を書き留めていく、という筋書きで描かれていくお話の集まりで、平たく言えば短編集だ。
「絵のない絵本」というタイトルはひどく滑稽だ。
僕が読んだその本にはきちんと絵が描かれてたし鮮やかな色もあった。
絵本というにはあまりにも内容が厚すぎたし、バリエーションも豊富だった。
絵本という名前の癖にその内容は比喩的に言うとひどくあやふやな線のような、輪郭だけをぼんやりと模ったような、当時小学生だった僕にとってとてもとても趣旨の掴みにくい代物だった。
「絵本作家になりたい」といったのは、小学校の同級生であった篠原奏だ。
「奏でる」と書いて「かなで」と読む。子供心に、いや子供だからこそ逆に、かわいらしい名前だ。おしゃれな名前だ、と思った記憶がある。
篠原かなではとても可愛らしい顔立ちをした女の子で、つやつやとした黒い髪と真っ赤な唇、日焼けのしていない白い頬はいつもほんのりと林檎色に染まっていた。白雪姫みたいだね。と、クラスの誰かがいっていた。
四月の終わり、だったか五月の終わり、だったか。その時期はよく覚えていない。蝉は泣いていなかったから、まだ衣替え前の話だ。
このくらいになると、男子も女子もある程度グループを帯び始めていて、どこにいくにも数人一緒で行動することが不通になる。女の子の場合は特にその方向性が強くて、トイレに行くにも水道に行くにもどこに行くったって数人一緒で傍目から見ても鬱陶しいものがあった。
篠原かなでは群れなかった。大抵の場合は一人でいたし、机に座って本を読んでいるか天気の良い日は外に出て日陰でぼんやりとしていることもあった。
僕はかなでのことをよく知らなかった。だからこそ当時よくつるんでいた友達に彼女のことを問うてみた。
「あの子はなぜ、いつもひとりでいるのか」
絆創膏を貼った手足で器用にまん丸のサッカーボールを扱いながら、友人達は口々に言った。
「篠原さんは、体が弱いんだよ」
かなでは体の弱い子だった。ひどい喘息持ちで、一年の間に何回も学校を休んでいたし勿論飛んだり走ったりするなどの激しい運動をすることもできなかった。彼女が保健室に行くところを何度も見ていたし、夏の間の朝礼や集会のときに先生に連れられて体育館を出ていくのも何度も見た。
へえ、と僕は納得をする。
みんなと同じような行動が取れないことを少し可哀そうだと思ったのだけれど、僕はそれ以上彼女に興味を持つことなくその話題を止める。
思春期を迎えかけた僕らにとって、同世代の女の子に興味を持つことは当たり前のことだったが当時の僕らはまだまだ青くて、クラスの女の子に些細な興味を持ったことで友達にはやされるのは恥ずかしかったし、僕らにとってのその話題はまだまだませた存在で、気がつくと彼女のことを目で追ってしまっている自分自身にも羞恥心を沸かせていた。
僕と彼女の接点というものはとてつもなく薄いもので、それこそ特別な用がなければ目も合わさないような関係だった。小学五年にもなれば自然と男女の垣根ができてきて、皆仲良くお外でドッジボールということも少なくなった。
ただのクラスメートというだけの僕らの関係が進展を見せたのは、図工の授業の時間だった。
当時の僕らの授業には、クレパスという短いクレヨンのようなものを使い絵を描くという項目があって、そのときの課題が「二人一組で向かい合ってお互いの似顔絵を描こう」というようなものだった。
当時の僕たちの頭の中には「平等」だとか「みんな仲良く」という言葉は存在しなくて、大抵の場合仲良しグループだとか仲良しコンビで行動することが九割で、先生が「始めてください」という一言を放った五分後には、せいぜい三十人程度の教室はすでにいくつかのグループに分散されていた。
当然、中にはグループに分散できないような中途半端なやつも出てくるわけで、やはりそのうちの一人が篠原かなで。 そして、もうひとりが僕こと二宮渉だった。
僕のプライドのために言っておくと、僕は決してクラスのはみ出し者であるとかそういうわけではない。ただ、本来偶数である男子生徒が一人休んでしまったために奇数になり、結果僕が余ってしまったというだけだ。
要は、クラスの男子の誰かがその二人組に僕を加えて三人にしてくれればいいだけのことなのだけれど、ただだか小学生にそんな思いやりなどあるはずもなくて、相方を失った僕にはいろいろな意味で青天の霹靂だった。
僕が、篠原かなでと組む?
篠原と向かい合って、お互いの似顔絵を描くだって?
そんなこと、クラスの女子とも最近ではあまりしゃべらなくなってきているのに。
篠原かなでと?
考えただけで頭が沸騰しそうだった。
「ツッチーとノリ、一緒に仲間入れてよ」
僕は、仲の良い二人の声をかけた。この二人は同じ幼稚園に通っていて、三年のころからずっと同じクラスだった。
でも、もうすでに白い画用紙の上に肌色で顔の輪郭のようなものを走らせているらしい二人は
「もう書き始めてるから無理だよ」
と言って、僕の申し出を断った。
僕は焦る。薄いベージュのカーテンが掛けられている広い窓のあたりでは、篠原かなでが僕と同じ画用紙を持って大きな目を開いてじっと僕の方向を見ていた。
放送スピーカーの上にある大きな掛け時計は僕の混乱など知る由もなくて、ただただ長い針をかちかちと進めていた。
なかなかことの進まないじれったさと彼女の視線が僕に注がれていることの恥ずかしさと緊張も相まって、僕はぼこぼこと顔を沸騰させた。
思わず声を上げそうになった瞬間、それまで窓辺で僕の様子を眺めていたらしい篠原かなでが僕の後ろに近寄ってきて、僕の緑のパーカーの後ろをちょい、と引っ張った。
それから、それこそまるで鈴の音のような、上品でおしとやかな高い声で呟くようにこういった。
「あゆむくん、一緒に書こう?」
その時僕は、初めて間近で篠原かなでの顔を見た。 当時の僕の身長と言えば小学生といえど決して高いわけではなくて、それほど特別に小柄なわけではなかったけれど、上目使いに僕を見上げる彼女は充分小さく華奢に見えた。 どこかすがるようにして僕のシャツを引っ張った彼女はとても小さくて可愛くて、それそこまるで仔猫のようでもあった。
そう思ってしまった自分の意外性とまたもや恥ずかしさで思わず顔を歪めてしまった僕のことを嫌がっていると勘違いしたらしい彼女は、たどたどしい様子で掴んだパーカーの裾をゆっくりと離すと不安そうに眉を顰めてこう言った。
「あゆむくん、だめ?」
――ああ、泣きそうだ。
このまま「いやだ」といったら、この子は泣いてしまうだろうか。もしくは、下を向いたままどこかへ走り去ってしまうのだろうか。それこそ、マンガのように。また、何事もなかったように他の人に声をかけるのだろうか。
ふと、頭に浮かんだそんな考えを振り払って僕は「いやじゃないよ」と彼女に答える。
僕の言葉に篠原かなでは嬉しそうに眉を下げた。
向かい合って座ってみると、色々なことがわかった。
篠原かなでは体が小さい。ただ単に背が低いということではなくて、全体的に線が細くて骨が小さい。腰ほどまである長い髪はいつも二つに三つ編みにされていて、小さな顔の左右からだらりと垂れさがっている。彼女が顔をあげたり下げたりするたびの左右の髪がゆらゆら揺れて、窓から入る太陽の光を反射させた。眩しいな、と思う。
小さな顔には髪の毛と同じ色の大きな目が二つ並んでいて、これは先ほど気がついたことだか彼女は睫毛が長い。顔の中央にちょこんとついた小さな鼻の下には、前に授業で育てた花の色よりも赤い唇がきゅ、と閉じられていた。
「あゆむくん、書き終わった?」
彼女のその言葉によって、僕は作業が全く進んでいないことに気がついた。膝の上にある画用紙に目をやると、そこに描かれていたのは肌色の輪っかだけであり、黒のクレパスを持った僕の右手はそれ以上作業をすることもなく肌色の輪の上で留まっていた。
「まだ終わってないよ」
僕は正直に言う。
「篠原さんは、終わったの?」
「ううん。もうちょっと」
「そっか」
僕は顔をあげて時計を見る。授業が終わるまであと十五分。机の絵に座った先生は、ノートを開いて何やら顔をしかめているしもう書き終わっているらしい級友たちはそれぞれが書いたものを批評したり冷やかしたりと騒然としていた。
目の前では篠原かなでが楽しそうにクレパスを走らせていた。
女の子は絵が好きだ。隣の席に座っている女子のノートや教科書には落書きがいっぱいしてあるし、「マンガノート」と呼ばれるオリジナルのマンガ(という名の落書き)帳を持っている子だっている。
「あゆむくん」
彼女の一言で僕は顔を上げる。彼女は僕のことを下の名前で呼んでいた。先ほどは恥ずかしいばかりで気がつかなかったのだが、そのとき不意に、なぜ彼女は僕のことを名前で呼ぶのだろうという疑問に行き着く。
何かを言おうとしていたらしい彼女の言葉を遮って、僕は言う。
「篠原さん」
彼女はなに?というようにして、長い睫毛を瞬かせた。それからあっ、と気がついたようにして困ったような表情を浮かべた。
「ごめんね。名前で呼ぶの、嫌だった?」
「いや、じゃないけど」
「ごめんね、ごめんね。みんな、あゆむくんて名前で呼んでるから」
この学年は二クラスしかないから、もう殆ど顔なじみだ。幼稚園からのやつも半分くらいいるので、大体のやつらは――先生も含めて僕のことを「あゆむ」もしくは「あゆむくん」というように呼ぶ。中にはたまに、妙なニックネームで呼ぶようなやつもいるけれど。
僕は違うよ、というようにして顔を振る。いやじゃないよ。
「篠原さんは、絵が好きなの?」
僕の問いに、彼女はそうだよ、というようにして顔を綻ばせた。
「私、体弱いから。こういう遊びしかできないの」
彼女の言葉に納得して、僕はそれ以上そのことを追及するのをやめた。
体が弱い子は絵を描いたり本を読んだりすることが好きだ。例の如く、篠原かなでの成績はクラスでも上位をいくようなものであったし、読書感想文なども褒められるようなものを書いていた。
画用紙の上にさらさらとクレパスを動かしながら、彼女は言った。
「あゆむくんは、将来何になりたいの?」
唐突な質問だった。
いつぞやの寄せ書きではサッカー選手と書いた。その前は野球選手と書いたような気もするし、宇宙飛行士と書いたような記憶もあった。
どれもこれも現実性のない曖昧なもので、まだたった十一歳の僕には十年後のことなんてわかるはずもない。
僕は正直に「わかんない。まだ、決めてない」と答える。
篠原かなではそっか、というようにして目元を下げると、「わたしはね」と切り出した。
「大きくなったら、絵本作家になりたいんだ」
彼女の言葉に僕は驚いて目を開く。
「絵本作家?て、絵本を書く人?」
「うん」
「マンガ家じゃなくて?」
「うん」
楽しそうに将来の展望を語る彼女に僕は感心し、また、大人しいばかりだと思っていた彼女がそのような希望を描いていること、同じ年である人間がそういった夢を持っていることに驚いた。
「絵本作家。ってさ。アンパンマンとか書いてる人みたいな?」
「うん。あと、岡本颯子さんみたいな」
「おかもとさつこ?」
「かぎばあさんかいてるひと」
「あ、知ってる。かぎばあさん」
かぎばあさんは結構大判の絵本で、低学年中学年くらいの子にすごく人気のある本だ。 僕だって小学三年くらいまでは週に一回学年の貸出しの時には必ず図書室に顔を出していた。今でこそ、すっかりご無沙汰になってしまっているのだが。人気の本は図書室が開館してすぐになくなってしまうので、どれだけ早く図書室へいけるのか仲間内で競争したこともあった。
高学年になればクラブ活動も始まるし、色々な委員会だって沢山出てくる。授業科目だって増えてくるし、その分自由な時間がどんどんどんどん減ってくるんだ。
そういえばこの、目の前の女の子は一体なんのクラブに入っていたのだろうと疑問を巡らせたところで、篠原かなでは「できたよ」と言ってクレパスを置いて、にっこりという可愛らしい笑顔を浮かべた。
その表情を見て、僕の心臓が妙な動きをするのがわかる。
僕の手に握られていたクレパスが安定感をなくし、知らないうちにコロンと転げて温かい日の入る床に落ちた。その、角のないクレパスはころころとビー玉のように転がって彼女の上履きのつま先にあたり、ぴたりと止まった。
彼女は腰を落としてそれを拾い、「はい」と僕の手の中に押し込めた。
その瞬間、彼女の小さな手の平が僕の指先に一瞬触れる。
何も気が付いていないらしい彼女はくるりとスカートの裾を翻すと、僕の目の前にある自分の椅子の家に上品に座った。
彼女が触れた指先がじんじんと熱を持っている。
案の定、僕の画用紙には肌色の輪っか以外何も書かれていなかった。
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