切り株のある丘で
水色鉛筆
切り株のある丘で(たね)
切り株のある丘の上で、少年はただ空を見上げていた。
何もない―ただ、何もない空。
海と見まがうほどの、青々とした空だった。
芝生の上に座り込み、太い切り株にもたれかかる。
少年は、切り株の木皮にそっと頬を当てた。
ひょんなことから不登校になっていた。
あまりにもありふれた、それでいて厄介な、思春期という病気だ。
一過性だが、特効薬もない。
最近は、何をしていても、心躍るような情動に動くことはない。
だから、生ける屍―と表現してもいいのかもしれない。
家にいても、親に面倒なことを言われる。
かといって、学校へ行く気にもなれない。
だからこうして、毎日のように空を見上げていた。
とくにすることもなく、馬鹿の一つ覚えのように、見上げていたのである。
そして今、少年は切り株に寄りかかり、うつらうつらしている。
今頃、みんなは授業中か―。
まあそんなこと、どうでもいいのだが。
気付けば彼は、夢の入り口に立っていた。
春の昼下がり、ぽかぽかして心地良過ぎるほどの陽気だった。
―ああ、今日も、何事もなく過ぎてゆく。
********************
「おーい」
誰だろう、こんな時間に、僕の安眠の邪魔をする奴は。
「おーい。きこえてる?」
一度ならず二度も呼びかけられ、少年は、胡散臭そうに返事をした。
本当に、嫌そうな顔をしながら。
「誰、ですか?」
すぐに返事があった。
「こっちみてよー」
どこまで他人を付き合わせるつもりなんだ、こいつは。
少年はやおら顔を上げ、声のする方を見た。
手の届きそうな距離に、一人の少女が立っている。
「気づいた、かな?」
彼女はやんわりとした声で、気だるげに笑った。
制服を着ているので、一目で学生だと分かる。
彼女はやさしそうな表情で、少年の顔を覗き込んだ。
「きみ、なにしてるの?」
頭で考えていないのに、なぜかすぐに答えていた。
「別に……何も」
別段捻りもない、一辺倒な答え。
それなのに、少女は何が面白かったのか、クスクスと笑い出した。
「あなた、誰なんですか?」
突然笑われた少年は、半ばむっとしたように言い返した。
「わたしですか?うーんとね、へへへ」
―いや、答えてくれよ。
何が面白いんだか……。
「あなたこそ、どちらさまで」
にやにや笑いが止まらないまま、少女は訊ねてきた。
「俺は―俺は、ただの高校生です、けど?」
彼女は頬に指をあて、考えるような顔つきになった。
「ふーん。じゃあ、なんでここにいるの?まだ授業中ですよー」
少年は肩をすくめた。
学校に行きたくない理由なんて、お前に分かってたまるかよ。
「あなたこそ、制服を着ているのに。どうして行かないんですか」
同じことを聞いたが、彼女はまた受け流した。
「うーんとね、へへへ」
だから、何が面白いんだよ。
「もう失礼してもいいですか?」
彼が辟易したようにぼやくと、少女は微笑んで小さく手を振った。
嫌だとも、もう少し、とも言わなかった。
「うん、おっけーだよ。さようならです」
*********************
―なんだ、夢か。
見上げると、さっきまで青かった空のキャンバスは、オレンジの絵の具を垂らしたようになっている。
やばい、夕方だ。
ちょっと昼寝のつもりが、盛大に爆睡してしまった。
その日の夜、少年はぼんやりと考え事をしていた。
どうして、見ず知らずの女の子が、夢に出てきたんだろう。
やっぱり、俺も学校へ行っていないせいで恋に飢えているのか。
いや、それはちょっと違う気もする。
俺は別に、あの子に変な感情を持ったわけじゃない。
ただ、何だろう……。
今夜はどうしてか、ぐっすり寝られそうな予感がするんだよな―。
翌日少年は、また切り株に寄りかかり、空を見ていた。
これで、学校を休んで何日目だろう―。
もうそろそろ学校へ行かないと、進級も危ういと、面談でもそう言われた。
知らねえよ、そんなの。
俺は、何もしたくないんだ。
こうして無気力になっている理由も知らねえで、偉そうにしやがって―。
*********************
「こらこらー、がっこうへ行かないとおこられちゃうぞー」
またあの声がした。
人の眠りを妨げるだけじゃ飽き足らず、叱言まで言い出したってか。
「……」
昨日の少女が、ふんわりとした笑みで見つめていた。
だから、お前こそ学校行かなくていいのかよ。
「また……会いましたね」
少年はポツリ、そう呟いた。
「まいにち、こうしてるんですか?」
少女は首をかすかに傾けながら訊ねた。
―こうしてるって、何もしてないだろ。
「そうですが、何か?」
文句あんのかよ、という暗示を込めて、彼女の方へ目線を上に。
「いいなー。それって、しあわせですね」
―えっ。
お前今、何て言った?
”しあわせ”……?
これが幸せに見えるもんか。
「ぜんぜん幸せじゃない。むしろ不幸だよ、俺は」
少年はやけになって言い捨てた。
少女の顔が少し寂し気になった。
「じゃあなんで?しあわせになること、しなくていいんですか?」
なんだよそれ。学校に行けっていうのか?
「ほっといて下さい。あなたは関係ない」
眉間にしわを寄せて睨むと、少女はまた笑い出した。
そよ風のように、優しさに溢れている一方で爽やかでもある笑い方だ―。
「あなたは、誰なんですか?」
聞いても無意味だと分かっていながら、訊ねずにはいられなかった。
「知ってるくせにー。いじわるですね」
少女の返答は、彼をさらに惑わせた。
いやいや、顔も名前も知らないんですけどね。
「だって、昔はよくあそんだじゃないですか~」
そう言われてもなあ……。
*********************
カラスが啼いている。
むむむ、やはりこの時間まで寝てしまった。
どうして俺は、夢の中で会話できてしまっているんだろう。
よくわからないや。
少年は家に帰ると、古い手帳を開いた。
中には、古びた写真。
夢の中に出てきた少女の面影をもつ人は、誰一人いなかった。
そのかわりに、少年がまだまともな人間だった頃の写真が、嫌というほど出てきた。
家族旅行にキャンプへ行ったもの、小学校の遠足で撮ったもの―。
写真を撮ったときの記憶まで、鮮明に蘇る。
『―お母さん、ぼく、何になるのかな?』
『うん?何だろうなー?ママには分からないなー』
『ぼくね、絵描きさんになりたい!』
『そうかー。お絵描きじょうずだもんね!大きくなったら、ママの絵も描いてくれたら嬉しいな』
『うん、きっと描いてあげるよ!』
色んな人間が、写真のフイルムから、今の俺を嘲笑っている。
彼は無意識のうちに、その手帳をゴミ箱に破り捨てていた。
クソッたれが。
*********************
翌日、やるせない気持ちでいつもの丘の上でうずくまっていると、眠っているわけでもないのに少女が現れた。
夢の中でもないのに。
彼女は本物なのだろうか、それとも―。
「あなたは、夢の中にいるんですか?」
開口一番、少年は問い詰めるような口調で言った。
「うーん、まんなかぐらいかな。夢じゃないけど、まだほんものでもないですよ。わたしの体、まだすりぬけちゃうかもね」
何だかよく分からないが……。
少年はうなだれて、溜め息をこぼした。
「どうされたんですか?やなことでもあった?」
彼女は、何でも聞くよ、とでも言うかのように彼の前でしゃがみ込んだ。
一昨日からずっと、妙に中途半端な敬語が鼻につく。
「……うるさいな」
少年はむっつりして言った。
少女は彼ににじり寄り、切り株に腰掛けた。
「そのくつ、似合ってるよ」
なぜそこに目をつけた?
もしかして、関係ないことを話題にして、慰めようとしてくれたのかもしれない。
「……ありがとう」
彼女は地面にかがんで、草花を何本かむしり取った。
「きみはさ、どうして学校へいかないの?」
ついに直球で聞いてきやがったか。
理由ははっきりしている。でも、答えたくはなかった。
彼の心の引き出しには、誰にも言いたくない秘密がしまってあった。
親にも先生にも、それを言ったことはない。
彼にとって、世界がまだ美しかった頃の、淡い想い出の数々。
それは誰の目にも触れさせたくない、俺の心の聖域。
今までもこれからも、自分の胸にしまっておくつもりだった。
つらいことがあると、その思いでにすがりつき、独りで言いようもない寂寞に酔い、傷心に浸っていたかった。
でも、それで苦しんでいる自分がいるのなら―。
誰かに聞いて欲しい気持ちが、少しでもあるのなら―。
「聞いてくれるの?」
耐えられなくなった少年は、ついに涙交じりに言った。
自分の心と向き合ってみた。
そこには、誰かにありのままを受け入れて欲しくてたまらない、弱弱しい「もう一人の自分」がいたのだ。
少女は、頬にえくぼを浮かべて微笑んだ。
「もちろんだよ。聞いてあげるから、はなしてごらん、ね?」
彼女が笑った瞬間、地面の草花がかすかにゆれた……ような気がした。
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