春場所・十日目【稽古】
バチン!バッチン!!
肌と肌が激しくぶつかり合う音。
ゴツン!ガッ!!
かつて「お兄ちゃん」の愛称で人気を博した元横綱・若乃花 勝はのちに「相撲の立合は毎回トラックと正面衝突しているようなもの」と語った。相撲一家の長男として生まれ、サラブレッドと呼ばれながらも、決して恵まれない体格で角界に揉まれた彼がいかに過酷な世界に身を置いていたかを物語るフレーズだ。
たいして背丈もなく、ヒョロヒョロのぼくが到底足を踏み入れることのない世界ではあるが、ぼくは今日、一世一代の覚悟を持ってここへやってきた。
一歩めが、重い。
ここはかつて『伝説の力士』と呼ばれた関取・力東の生家。
つまり、しきりちゃんのお家なのだ…。
昨日、午後になってバタバタとスケジュールが重なり、このあと3人と会う予定になっている。…同じ時間帯に。どう考えても無理な注文なのだが、相撲部設立のためにできることは全部やりたい。そのためにも今朝、しきりちゃんと時間を調整したくて、ここまで足を運んだ。
力東…現役時代が短かったとはいえ、強度の名関取だ。ちょっと調べれば場所はすぐわかる。しきりちゃんにも「いつでも来ていい」って言ってもらえた。
でもなぁ。
いや、ストーカー的とか恥ずかしいとかじゃなくて。
しきりちゃんは朝、ときどき遅刻してくる。校門から教室までわざとゆっくり歩いてみても、昼休みまで顔も見ない日がある。
絶対朝稽古してる。
実家に土俵があるって言ってたし。
そこへぼくみたいなヒョロヒョロの男子が顔を出したら、場違いを通り越して、逆に興味が湧くだろう…何考えてるかぼくだって知りたい。どんな下心があって覗きに来てるのだろうか、と。
そして、いざ、家の前まで来てみると、激しい稽古の音が聞こえてきてるし。
やってるなぁ、しきりちゃん。
なぜかマネージャーにされてしまったとはいえ、相撲部に身を置こうとしているのだから、相撲の稽古をするのは当たり前なんだろうけど、しきりちゃんのそれは確実に高校の部活動の域を超えていると想像がつく。
ん?待てよ?激しい稽古をしているだろうとは思ったが、稽古相手は誰なんだ?
普通に考えたら祖父である力東関なんだろうけど、もう70を越えるおじいちゃんだもんな、そんなに激しいぶつかり稽古できないだろうし、よくよく聞いてみると、何人かがぶつかり合ってるようにも聞こえる。親方とかやってないにしても、お弟子さんたちがいるのかもな。
それに、しきりちゃんから『おじいちゃんから稽古つけてもらってる』なんて話、聞いたことないしなぁ。そもそも、しきりちゃんはおじいちゃんのことをあんまり話さない。昔話くらいなら聞いたかもしれないけど。
ともかく、しきりちゃんに会って、このあとの無理めなスケジュールをなんとかしなくちゃ。
まずは顔見知りである演劇部のところへしきりちゃんに行ってもらって、それから陸上部、かな。ぼくが天文部での要件を済ませて戻るまで待っててもらわないと。
そんなことを考えながら、門の前をウロウロしていたら、家の中から大きな体の男たちが駆け出してきた。
「す、すいませんでしたぁ〜!!」
「ひぇぇ!」
屈強な男たちが悲鳴をあげて走り去ってゆく。
これはもう嫌な予感しかしない。
ぼくは恐る恐る門の向こうを覗いてみた。
「なによ!まだ懲りないわけ?」
まわし姿のしきりちゃんが、拳を握りしめて立っていた。
「あ、あの…ぼくだよ!今日はちょっと頼みがあって」
「え?マエミツくん?」
しきりちゃんは腕も足も裾を捲り上げた上下薄手のトレーナーにまわしをしめてぼくを二度見してから、あわてて胸の前で握っていた右手を、左の手で隠した。
かなりキツ目にフィットした胸のあたりは、下に巻いているらしいさらしが透けて見えた…。
「ご、ごめんなさい!さっきの道場破りがまだ残ってたのかと思って…」
「道場破り?」
しきりちゃんはソワソワしながら門の横の立て札を指差した。
『伝説の力士・力東の孫ここにあり。道場破り大歓迎!』と書かれている。大歓迎?
「おじいちゃんに稽古をつけてもらってたんじゃないんだ?」
「ちがうよー。でもコレ助かるのよ。稽古相手に困らないから」
「困らないって…危ないじゃないか、知らない男たちが乗り込んでくるなんて」
「平気よ。今まで一度も負けたことなんてないもの」
しきりちゃんが週に何日か遅刻してくるのは、朝稽古じゃなくて、コレだったんだ…。
「それに、おじいちゃんはアタシが生まれる前に死んじゃってるし。あれ?言ってなかったっけ?」
「し、知らなかったよ!え?そんな報道あった?」
「みんなに知られたのはアタシが幼稚園の頃かな?それまでは誰にも知らせてなかったみたい」
そうか…しきりちゃんが幼稚園の頃ってことは力東の引退から30年以上経ってからだ。もう話題になることもなかったのかもしれない。地元の相撲好きでも知らないんだから、ほんとに近い関係の人間にしか知れ渡っていないのだろう。ん?幼稚園?
「幼稚園ってことは、それ、カイナも知ってるの?」
「魁皇ちゃん?もちろん知ってるわよ。だって西強山に教えたんだもん」
「校長に⁉︎」
しきりちゃんと校長の、ぼくの知らなかった因縁が、ついに明かされようとしている…。
ぼくは門の前で身構えた。
まだ、一歩も踏み入れていないまま。
つづく
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