Impromputu

優勝者リサイタル、入賞者ガラ・コンサート。私が背負ったものの義務ではあるし生業でもあるのだから嫌な顔もせずに弾きこなす、いつもに増してチケットの倍率が高かったと言われれば悪い気はしない。忙しい日々も過ぎてしまえばこの身体にその時の疲労の欠片など残りはしないのだから唯の気分の良い思い出へと変わる、そんな日々を過ごして少しの時が経ちある程度落ち着いたところで私は都心のコンサートホールへと向かう。一応教え子に当たるのだが、残念ながら私は忙しく見に行ってあげることができなかったわけだが彼の技巧を持ってすれば子供たちの大会の予選など軽く通過できてしまうもので、今日の本選でも優勝する姿を見せてくれるだろう。そしてあと数年で大学生になる頃には若手向けの国際コンクールに出させるのもいいだろう。まぁ気分は悪くはない、自分の弟子にあたる人間が様々な栄誉を勝ち取る姿を想像するのは、そしてこの想像は現実のものになるという確信が私にはあった。何しろあの性格だと心が折れて弾けなくなるなんてこともないだろう、完全に遊びなのだ、彼にとって。自分の才能のほんの少しを他人に見せてやっているだけ、それは奇しくも私に似ている。彼はあの時以降もレッスンの際にはある種の色仕掛けのようなものを私に見せはするのだが、その時にも手元が狂うことはない、少しずつ他人に聞かせる、他人を魅せるための技術を吸収していくのだ、片手間に。こう言ってしまうと私も数年後には後塵を拝する事になると考えているようにも見えるかもしれないが、そのつもりはもちろん全くない、何せ彼とは音色が違う。人は演奏技術を学びその手技を幾らでも延ばすことが出来はするのだが、どうも生まれ持ってきた本質的な音、というのは変えることができない、少なくとも私はそう感じている―――会場に入ると黄色い声、その声の主の方を見れば私に手を振っている。大きな栄誉を手にする前は通の間だけで有名なだけだったのだがこうも有名になってしまうと避けては通れないだろう。私は素直に握手に応じ求められるままにサインをする。彼女の気苦労が多少分かってきたわけだが、他人からの評価に強い快楽を見出す私にはどうも無下にする気持ちなど微塵も湧かなかった。


独りよがりな演奏、粗の目立つ演奏、仮にも本選だというのにやはり所詮はただの子供の腕自慢大会。ただ私の中の彼への評価が増すばかりだ、いやこんなものを見なくてもそれは揺るがないだろう。どこか光るものを探す―――寧ろ探さなければ飽きてしまうというのが本音な訳なのだが、そうして彼が出てくるまでの時間を潰すと、私が待った、ある種の義務として注視しなくてはならない時がやってくる―――会場の雰囲気が変わる、緊張という言葉を知らない堂々とした足取り、凛とした美しい涼やかな顔、一筋の光、彼は私の座る場所がすぐに分かったのだろうか、あの笑みを私に向ける。彼が選んだのはフランツ・リストのラ・カンパネラ。ある種の腕試しの様に様々な人間がこれを弾けると自慢気に披露するのだがそれが古びて錆びた鐘にしか過ぎないことを今日この場にいる観客達は知るだろう、さぁ真新しく生まれたばかりの光を湛えて輝く鐘の落成式を始めようか。

短針が丁度時字を真っすぐに指す瞬間を告げる音。彼は流し目で観客を眺めながら小さな鐘を鳴らし始める、一つの乱れすら許さずただ時の移り変わりを粛々と告げる小気味良い響きがホールに響き渡れば誰もが静まり返る、音という意味ではなくもっと人間の奥深いところで誰もが黙って彼の紡ぐ旋律に耳を傾けているのを確かに私は感じた。歯車が噛み合い始めると新たな仕掛けが人々の目に晒される、先ほどまでの時が過ぎることの哀愁を含んだ旋律が、時が廻れば新たに何かが生まれてくることを祝福する歌へと変わる。彼の音にはこの曲が良く似合う、私と比べればまだ若いこともあり折れてしまいそうなほどに華奢な彼の歌声はどこまでも軽やかで清涼なのだ、大人になっていない年頃の少女、少年に愛を向ける人間が存在することが何らおかしい事ではないと言う事をその歌声は雄弁に語る。少しずつその仕掛け時計がその全貌を明らかにしていく、ある種の執念をもって職人が完成させた機械仕掛けのそれは幾つもの鐘を一つの発条で精密に動かしている、そう彼という存在を動力にして。その姿は指揮者か、人形師か、その指先が描く新たな時を迎える喜びが無機質な鐘に生命を与え始める、慎ましやかな笑い声と共に祝い始めるのだ、砂が落ちて人が死ぬことを悲しむよりも新しい朝を迎えることを讃えようと。まだ真新しく光沢を贅沢に纏った身体を太陽も褒め称え始める、ほら、時が移ろう事は、世界が新たな表情を浮かべると言う事なのだと誇らしく。過去の色を孕んだ濁りも残さず彼は鐘を打ち鳴らす。どこまでも透明なトリル、その設計図に落ちた汗の染みも、滲んだ血の色も見せることなく私たちをただ美しい音色で包む。計算され尽くしたその動作は確かに私たちに感動を与える、設計者が最も待ちわびているその瞬間の前奏曲を彼が弾き終えると一度大きく息を吸う。

過去が増えることは悲しいことではないのだ、新しいと言う事は美しいのだ、彼は胸を張り高らかにそう謳う。激しさとその鼓動の昂ぶりを、幾重もの歯車を組み合わせれば人よりも朗々と歌うことができると示すように彼は粛々とその指を操る。そして最後に現実を見せつけるかのような鋭く、荘厳な金属の塊に宿った魂の叫びを私たちに見せつける、それは時は流れるという事実、儚くも尚それでいて美しいこの世の理。少しの残心、すぐに彼は立ち上がった。それは興奮から来るものではなく、歯車が止まった事を示すだけの行為。その薄い笑顔、それは機械が無機質な旋律しか奏でられないと信じている者達への強かな挑戦とでも言うべきか。




   〇




最近、情報の伝達は早くなり微かにこの惑星が回る速度も速くなったかのように感じる。長々と審査をするものが多いのだが、このコンクールは当日すぐに審査を終えそしてエキシビジョンも今日この日、今ここですぐに行われる、このような形式はこれから増えていくのだろうか―――まぁこれは商業的な色合いの強いコンクールだ、期待の若手を見つけ出しすぐにマネタイズする、そんな貪欲な意図が見え透いたコンクール。あたかも当然のことのようにその舞台に上がったのは彼だった。悪くない心地だ、むしろ気分がいい、こうして私が初めて指導した弟子がほぼ全ての観客に認められてその舞台に立つと言う事は。彼は一礼して鍵盤と向き合う、私にだけ見せるあの笑顔をほんの一瞬浮かべるとまだどの色にも染められていない世界へと飛び込み始める。何を弾くのだろうか、まぁ彼ならばすぐに他人に見せてやれる曲は多いだろう、しかし私の心は何故か騒めいている。そしてその予感は現実のものとなり私の心に爪を立てる―――この世界の誰もが聞いたことがない無垢な心の囀り、形式としてのImpromptuではなく原義に忠実な旋律。余りいい気分ではない、というのも過去即興演奏の大家と言われた昔のピアニストはそれを譜面に残さなかった、完成されておらず、その刹那の情景でしかないからだ。実際、彼が描き始めた一輪の花は凡庸で彼の技巧で一見美しくは思えるのだがその実、模倣も多く弾き慣れていないことをひしひしと私は感じる。耳当たりの良い旋律と技巧の凝らされた装飾、今この場にいる人間を騙す事は出来ていても後々思い返せば恥じることにもなるだろう、そんな習作然とした、とはいえその若々しい筆致は瑞々しさを描写する事には成功しているとは言える。もう一輪の花が添えられる、確かによく学んでいることをこちらに分からせる先ほどの原色に近い花と比べればどこか控えめな落ち着いた奥ゆかしさのある儚げなまだ開くことを知らない暗い蕾。それでもこの先に開くことを暗示するかのようにその指先は生命の気息を確かな技巧を用いて描いている。興醒め、そう言ってしまえる程の物ではなく時を追うごとにその筆遣いは確かに鋭さを増していく。再度繰り返される主役の提示、弾き始めよりは確かにその手は慣れ始めていて絵画の中に閉じ込められていたその花は現実のものの様に感じられる、浮き上がる、私の脳がその香りを感じ始めていた。細やかな彩色、丁寧な描写、それは想像を非現実から引き摺り出す―――あの笑顔、私は悪い予感がした。

大きく転調し、新たな主題が目の前に花開く。複雑な装飾を凝らしたパッセージの中にその彼の描こうとしていたものが花開く―――黒い。その旋律は全ての光を食らいつくす程の深いのだ、そしてその花弁に触れた私の指、熱い。美しさに貪欲で、触れるもの全て、照らしてくれる光全てを貪りつくそうとしているのだ。身体が熱くなる、私は確かにその旋律を、彼を美しいと思ってしまっている。空気が熱い、私の肌を焦がすかのように私を包む空気がその温度を上げている。それも束の間、彼が初めに見せた第一主題はこれまでのすべての旋律をその身に湛え、いや食らい尽くし糧にして咲き誇る、そんな先ほどの美花ですら自分の装飾品に過ぎないと。そう、そのすべての要素を兼ね備えた旋律は彼自身、彼は美しいのだ。彼の左手が炎を宿す、それでもあの黒い花は焼けると言う事を知らない、宝石はその計算され尽くした形状で光を誘い我々を魅せる、では生命の根本的な欲望の形に象られれば?黒い、ダイアモンドはその身を炎に焦がされれば空気の眷属と成り果てる、それなのに彼の描く妖艶な貴石の花は炎すらその美を高めるための装飾品として従える。私が今見ているものは何だ?周りの熱に浮かされた聴衆が見ているものとは違うのか?その問いに答えるように彼は私のほうを見る、裸体、これまで抱いてきたどの女よりも美しく扇情的なただ洗練された美という言葉にどこまでも忠実な彼の裸体、彼の瞳は宵闇、彼の唇は朝露を湛えたエリカ、細い身体、絶妙な陰影で見窄らしさという言葉を跳ね除け力強さへと変える湶、臓器を守る少年の薄い腹部の筋肉、そして―――大歓声、私は現実に引き戻される。私の肌を焼いていたのはこの身体を包む空気ではなく奥底からの炎、その意味をまだ私は知らない、これまで知ることもなかった。彼は今も確かに私を見ている、その視線は私を熱くさせる。目を逸らさずにはいられない、この場にはいられない、すぐに立ち上がり私は逃げるようにこのホールを後にした。

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