Étude

向いているからこの職業についた、端的に言えばそうなる。才能があったのだろう、思春期を迎えた頃にはくだらない競争とは既に縁を切っていて同級生たちとは別の世界に私はいた。師事していた人の同門の中では比肩しうる同世代の人間などいなかった、いやもう技巧の面ではその人でさえも。さすがに謙遜ができるような性格でもなかったから幾度か鞍替えしたものだが最終的についた人はただの後ろ盾で、レッスンなどもなくただ世間話をしたり、彼と料理をしたりビリヤードや麻雀といった遊戯の相手をするだけの師匠と弟子とでも言うべき間柄ではなかった。それなりに成功したピアニストではあり、確固した我を持つ人間、素直に私の才能を認めてくれ推薦状が必要な時はかなりお世話になった。そんなこともあり今でも食通である彼と美味しい料理を食べに行くことがあるくらいだ。私にとっては認められるための道具となっていた音楽、しかしながらそこに真に楽しさを見出したのは彼に出会ってからだろう、正確には彼が即興演奏をしているところをたまたま耳にしたときか。彼は私の前ではほとんどピアノを弾くことがなかったのだが偶然私が来ていることにも気づかずのめりこむ様に自由な姿で旋律を紡いでいた、私の存在に気づいたときには恥ずかしそうな表情を浮かべたものだがその何事にも縛られない翼の羽ばたきを今でも覚えている、それから私も見様見真似でこれを始めた訳だ。

音に飢えている、空に飢えている。その鷹は傷ついた羽を癒すために身を竦めていた、透き通った和音を奏でる雨音、その美しくも冷たい調べは彼の体温を容赦なく奪う。それでも心の奥底から来る天空を舞うことへの渇望が熱く滾っている、勇壮な鼓動、その低く荘厳な旋律は静かな雨の中でも力強くこの身体に響いてくる。今ここで力尽ることなど許されない、その燃え盛る魂はやがて雲を焦がす、駆け上がる分散和音、それは七つの色を孕む光、そう虹が空に架かる。扉が開く、その先には青い空、彼はまた空を支配する王者のように旋律にのり羽ばたくのだ、英雄然とした大仰なメロディーを私の右手が歌う、この左手が紡ぐ風に乗って悠々と空を駆る―――どこまでの機械的な音に私は手を止める。そうか今日は件の少年が来る日か。


「こんにちは」

声変わりを過ぎていてもどこか高いその少年の声。緊張している、というわけでもなさそうだ、その扉の先に立つ少年は強かさを感じる笑みを花束の香りを漂わせながら浮かべている。

「あがってくれていいよ、しょうもない安アパートで申し訳ないけどね」

まぁ安くはない、だが彼の父親はこんな指導の経験すらない若者に大層な額を提示してくれる資産家だ。そんな少年からしてみればこの狭い部屋は入りたくもないかもしれないかな、まぁ私にとっては広すぎないこの部屋が心地いい。

応接間すらないから仕方なくダイニングテーブルに着かせ紅茶を出す、こういう時に自分一人だとどうも酒に拘りこそはすれ茶葉などには興味がなくティーバッグのもの、となってしまうのだが女運がいいのか茶葉を置きっぱなしにしていく女が居るからそう悪くはない紅茶を淹れることができる。

「なんだか申し訳ないね、ニュースとかにはなってるような人間だからおしゃれな部屋に期待もしただろうけど」

「いえ、どうぞお気遣いなくお願いします。もともと僕が父にお願いしたこともありますから」

「ちょっと飲んで落ち着いたらまず君の演奏を聴かせてもらおうか、こう言っては悪いけれどもメールの文面でどの曲が弾きこなせるとか書いてあっても音源がないと判断しかねるからね」

彼は私に笑顔を見せる、自信に満ち溢れたいい表情だ。何しろ容姿も優れている、すらりとした体躯、美少年という言葉が相応しい整った顔、どこか女性的な造形もしていながら切れ長の目に強さを感じる瞳。これで腕前のほうも優れているとなれば私が教える価値もあるというものだ。


この部屋に響き渡るのは精密という言葉を体現した指使いから紡がれる旋律。杞憂に過ぎなかった、父親が褒めているだけというわけでもなく確かな技巧を彼は持っていた。ショパンの練習曲のOp.10 No.4を弾かせてみたのだが彼は軽々と弾きこなしている。モノクロの迷路の上を駆け抜けるその白い指、初めから知っていたかのように迷わずに確かに前へと進んでいく。複雑な関数で描かれる模様を間違いもなくその両手は描いている、幾何学模様、対称、調和から生まれる芸術を確かに真っ白な壁に刻んでいく。最後に二音力強く鍵盤を叩くと彼は私のほうを見た、余裕に満ちた笑顔。彼も私と同じか、何となくそう感じた。

「演奏技術に関しては言うことはないかな」

「そうですか」

恐らく言われ慣れているのだろう。

「ショービジネスで食べていこうと思っているのなら直したほうが良いところはかなりあるけどな」

「なるほど」

求めていたものを見つけた時の貪欲な笑顔を彼の口の端は浮かべた。




   〇




彼は素直に私の意見を咀嚼し飲み込んでいく。しばらく通っているうちにすぐに超絶技巧を持った少年から演奏者の顔つきになった。どうも顔を歪めて音以外で表現するということは彼には似合わないと感じたからすぐに冷ややかな顔で弾き切るようにさせた。曲中に幾度かあるカタストロフィーを迎える直前の溜め、技巧のある、特に彼のように軽やかなタッチを持った演奏者の場合、間を意識させるのは時間軸ではなくごく僅かなテンポのブレと幾重にも計算された音のバランスでその間を聴衆に錯覚させた方が良いだろう。そして金を払ってくれる聴衆というものは目の前にいる自分ではなく遠く離れた場所にいる人間であることを意識させる、鍵盤を叩いた際に感じる指から伝わる小気味の良い打撃音も、ペダルの動作音も、その所作で生まれる音も君のパーカッションではないと言う事。教えると言う事はこうも難しいことか、どうも大地の様に水を際限なく飲み込んでしまう彼を前にすると私をもう一人作っても仕方ないだろうという自制心を持ちながら長所を伸ばすことを意識しなければならずなかなかに難しい。

「今日はどうしますか?」

「ちょっと覚えが良すぎてこちらも重箱の隅をつつくようなことしか言えなくなってきたな」

「いいんですよ、先生のアドバイスは新鮮で、僕の求めていた指導者といった感じですから」

彼が浮かべるのは謙遜という言葉を微塵も感じさせない挑戦的な笑顔。


私の隣から漂ってくるベルガモットの澄んだ香りの後に暖かく広がるバニラの甘い空気、親の趣味か、彼の趣味か。まぁどうでもいいことだ、早速今日のレッスンを始めようか。体調や、僅かな違和感から来る旋律の乱れ、それは墨を水に一滴垂らしたかのように楽曲を侵食する、一つのミスから確実に、他人には分からない程度の非調和でもその清涼な水をどす黒く。彼の右手と共に私も右手を空白のキャンバスに進める、メンデルスゾーンの無言歌、春の歌。技巧的には大したことはなく、私は彼と二人で旋律を紡いでいく。造作もないこと、普通左手で演奏する部分を右手で弾こうが大したことではない。作曲の妙、この曲はどうも乱れに弱い曲で、旋律を支える装飾音との調和が損なわれればすぐに分かる。順調に暖かい日差しの中、咲き誇る花々に包まれながら二人で歩んでいくのだが私は時折わざと彼の歩調を乱す、舞う蝶に気を取られたり、一つの花に目を止めたり。不意に揺れる私の足取りに何事もなかったかのように合わせ隣を歩いてもらおうという訳だ。ちょっとした私の悪戯もすぐに彼は歩調を合わせ緩やかに春を楽しむ―――不意に彼の細い髪が私の頬を撫でる、彼のほうを見てみると少し笑ったように見えた。余裕があるのだ、物怖じもせずに彼は暖かい情景を描き続けている、白と黒しか絵の具はないのに確かに春の淡い色彩を。ふと、彼の左手が私の股間に触れる、少し私は戸惑うのだがそれを表面に出すわけにはいかず冷静に演奏を続ける。チャックは下され、次は直に。その細い指は私を硬くしていく、どこか彼の紡ぐ旋律が艶やかさが増す、最後の軽やかな階段もどこか淫靡さを含んでいた―――目の前には彼の顔、舌を入れられている。引き下がるのも大人として情けないだろう、しっかりと受け入れ舌を素直に絡めるとこれまでで最も私の脳を擽る吐息が聞こえる。彼が男を好きになる人間であることを否定するつもりもなければ、美しい彼を突き放したりはしない。私は元来男に性欲を向ける人間ではないが、人生で初めて経験する同性との口づけは不快ではなかった。名残惜し気に彼は私から唇を離す、閉じられた瞼、長い睫毛が妖艶に輝く―――開かれた瞳が赤く輝いたように見えた、春のどの花ですら持つことができない彼だけの色彩が確かに私の心に焼き付く。

「迷惑でしたか?」

彼は悪戯っぽく笑う、いや、とだけぶっきらぼうに返すと少年らしさを残した笑みに変わる。

「別に君のことを否定したりするつもりもないがレッスンは真面目にやってくれ」

私はそう言って溜息をつくと息を漏らすような微笑が耳を撫でる。

「今日はちょっとこれで帰らないといけないんですよ、それじゃあ先生、また来週」

勝手なものだ、まぁ構わないさ、対価は得ているからね。そう心の中で呟き冷静を保ってみるものの私はまだ鎮まっていなかった。性生活は奔放なほうで、ある種のだらしなさもある人間であることは分かっていたのだが彼の時折見せるこちらを試すような笑顔が頭から離れない事は確かに私の心の水面を揺らしていた。

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