Nocturne

葡萄の甘みを残したワインを口に含む。肥沃な土地でとれる葡萄では良いワインは出来ない、とは言われてはいるものの、その言葉に真っ向から立ち向かうような取れたての果実の芳香を集めて作られた雫は舌に名残惜し気に纏わりつきながらも確かに私の胃を暖めてくれる。鍵盤の魔術師の再臨、モノクロの大地を優雅に歩く美青年、そして気取らない雑誌にはもっと単純な私への称賛。ストイックなピアニストであればそんなものを欲しいとは思いもしないだろうが、私にとってはその賛辞は心地いい、幾ら下らないと思っていてもね。三次予選で物珍しいソナタを弾き終えた時点で既にその背には感じていたのだがやはりその予感は現実のものとなり私は新たな王冠を戴きポーランドから日本に帰ってきたわけだが、煩いが寂しさを紛らわしてはくれる者たちが去ってしまえばこの部屋に一人。自らのブランディングと多少の趣味を兼ねて音大に通わず本郷まで行っていた訳だが、大学を出てプロのピアニストになってからもあの頃とは変わらず音大生向けのアパートから出るつもりもなく私が背負っているものに対しては些か小さい部屋に一人。それでもこの部屋にいれば寂しくはないもので、瑞々しいワインと、私の指先が頭では何も考えずに心の赴くままに紡ぐ音色が温かく包んでくれる。

子猫の鳴き声がする、目の前のピアノが歌っているのだ。最も安い国産の、とは言っても大学に数年通えるほどの値はするのだがやはり耳が肥えていえる人からすればその音色はどこか安っぽく聞こえてもしまうのだろう、だけれども私の目の前にあるそれは確かに私の心に描いた情景を歌ってくれる。ピアノフォルテ、それは余りにも観客に優しくない楽器だ、非対称とも言えるだろう。聞いている側は恐らく打楽器じみた弦楽器のようにも感じるのだろうが演奏してその鼓動を感じている私には全ての要素を兼ね備えた、まさに歌声と呼ぶべきものだと感じるのだ。ペダルを踏む音、そこから伝わる確かな機械としての鼓動。触れる指先が感じるパーカッション、離れていては決して感じることができない僅かな囁きですら演奏者は感じることができる。先ほどの子猫は何に拗ねているのだろうか、軽やかにモノクロの小路を駆けて追いかけてみる。足音、わざと立てるように私の心が指に命じているのだろうか、それとも今は童心に帰ってただ野良猫を追いかけたい気分なんだろう。クロマティックが入り組んだ迷宮のような小路を駆ける軽やかな足音、なんであいつは私から逃げるのだろうか。ああ、なんだか私に似ているんだ、どこかひねくれて居て外面をよく保っている私に拗ねているんだろう、ほら、こっちに来るんだ。膝を折り低音に屈み私にそっぽを振る子猫を抱きかかえる、甲高い不協和音、私の腕の中で不機嫌な声を上げる。らしくはないがゴロゴロと鳴きまねでもしてみようか。どうしたんだいもう一人の私?こんなショービジネスがくだらないって?でもこうしていかないとご飯は食べられないだろう。そんな私の両手が奏でる旋律の会話。少し主張を強める人間の私、弦そのものの音を感じさせる低い声でどこか鼻持ちならない自称賢人のように猫に説教をするのだ。お前だってその可愛さでおまんまをもらっているんだろう、どこか絶対に懐かないような浮世離れした素振りを見せて、ある所では愛らしさを武器にして。でもね、と強く子猫に頬摺り―――見せてやるのは売り物の自分だけさ、そして自分が知っている最も美しい貴石は私だけのもの。目の前で花開くどこまでも透き通った旋律の花弁、単純であることの美しさを雄弁に語りながらも所々生物的な要素を絡めた曲線が幾度も幾重に重ねられて太陽に誇って咲く―――私以外が奏でた音がもう一つの世界から私を引き戻した、そうか約束をしていたんだな。瓶ともう一つのグラスを手に玄関口に向かう。


「おめでとう」

別に今ここでいうべきものでもないだろう。彼女がマスクを取り、帽子をがさつに投げ捨てると優しく口づけをし彼女の分のワインを注ぐ。

「変わらないのね、あんなにニュースになっていたのに」

「いや帰ってきた直後は面倒だったし公演の依頼がかなり増えてはいるけれどもそれの対応をするのは昼間だけさ、ああ何だか金持ちのとこの少年のレッスンもお願いされていたかな」

彼女を誘い鍵盤の前に座る。こういった事を好む演奏者はいないのだろうけどピアノの縁に瓶を置き薄暗い部屋で酒の味を楽しみながら私にしなだれかかる女との会話を楽しむ。

「こっちはこんなに忙しいのに?」

「君が選んだ道だろうよ」

「似たような仕事している癖にそっちは暇そうで何より、まぁでも誰もが思う音楽家そのものか」

アイドルグループの女、こうして夜に私の部屋で二人きりにでいるということは関係を持っているということに他ならないのだが私も悪い物件ではないだろう。ピアニストとして得ることができる最大級の栄誉を手にしてたった今帰ってきたわけだし、もとより国内では人気がある。まぁ彼らは私の演奏なんか聞いてはいないだろうけど、いや半分は聞いているがその音色は私の容姿によってより美麗なものへと生まれ変わる。こんなことを言っていると遊んでいるだけの男にも思われるだろうが、別に所謂アイドル系の音楽を小馬鹿にしているわけではなくその芸術の技法には学ぶべきところが多くある。ある種、私に似ているんだ、私はどちらかというと音楽の比重が彼女よりも大きいかもしれないがそれでもこの容姿大きく得をしていることは否めない、いや寧ろ武器であるともいえる。彼女のほうは容姿が重要とはいえ総合的な芸術品であるのは当たり前のことでその楽曲もよく作りこまれているものだと感心する。耳なじみの良いメロディーラインを作り上げる作曲家の手腕、主張はせずとも手練れのものだと分かる最大限に盛り上げる伴奏――この言葉は嫌いだが今はそう言っておこうか。いや今この場で求められるのはこんなことではないだろう。彼女の肩を抱き私の上に座るように促す、さぁ夜の音楽界を始めようか、君だけの特別な曲を奏でよう。


非対称、それは私が鍵盤を叩き人を楽しませるのと同じように、いやそれ以上に彼女は不利益を被る。何せ、人間の男女は交わることに向いてはいない、特に私の場合は。大きいことは良いこととされがちではあるが目の前の彼女は多少苦しそうに私と一つになる、その表情を見て私は耳元で囁く。

「大丈夫か?」

「何度もしてるでしょ」

吐息交じりの声は苦悶の色を孕んでいる。感覚、生物はいつ頃からかこの行為で快楽を得ることが難しくなった。だからせめて心で、感情で、私たちを包む雰囲気で快楽を得て欲しい。鍵盤に手を伸ばすと彼女は軽く震える。

「ほんと、夢の中みたいに私が特別だって感じられる」

私が一度低い音を立てると彼女はそう溢す。

「特別さ、他人に見せてやるのは所詮他人の書いたものをなぞったものだけ。今ここで生まれてくる新たな旋律を聴けるのは君だけだからね」

繊細な楽器見えて力強い金属的な音を出すこともできる、私は目の前のそれを完全無欠な楽器だと思っている。左手で作り上げるのは力強い鼓動を伴うどこまでも生物的な六音のライン。彼女の身体の奥まで響くように、私たちが繋がっている場所に直接響くように技巧も凝らさず練り上げる。私が演奏で揺れる動作で擦れるのが気持ちいいのか彼女は少しだけ声を上げる、あまり熱が入らないように唇を奪う。例え視界がなくても私が触れる夜の冷たさを持つ無機質なそれはこの心に素直に答えてくれる。私たちの原始的な鼓動にも似たベースラインには少し似合わない洒落た歌でも歌おうか?声が聞こえ始める、暖かい夜を綴る歌が。

「聞いたことのない曲……」

「いつも言っているだろう?この場で作っているのさ」

ふふ、と彼女の笑う声。まぁなんども聞かせた言葉ではあるし、幾度となくこの会話をしたと思う。そしてこれからもいつもと同じ、私の感じている快楽を如実に表す旋律を聴いてもらうだけだ。強く激しい前後なんてどこまでの自分本位な唯の略奪行為だ、緩やかな動きの中でお互いに高まり合っていけばいい、そしてそれを彩る夜想曲を自分の色で塗り上げてしまえばいい。人が夜想曲と聞いて思い浮かべるものとは一風変わったロックにも近い躍動が私たちを高みへと押し上げてくる。色が強くなる吐息、それと共に私たちを包む旋律は今にも弾けようとする臨界へと近づいてくる。それはサイエンティフィックな言葉ではなくもっとプリミティブに、この手に余る感情がもっとどこまでも華やかにこの情景を描けと指先に伝えてくるのだ。抗うことなどせずにただ最も根本的な欲求で黒と白の世界に放ってみれば頭の中に火花が散る。私の脳による束縛を超えて堰を切って濁流がこの夜を飲み込む、いちいち記憶してもいられないだろう、震える彼女が私に与えてくれる悦楽を、極彩色の旋律を。幾重にも技巧を重ねた織物、見たことがないようなそれぞれの花弁の色が違う花が咲き誇るこの瞬間、止めることなどできないのだ、私が唯一愛する音楽を。強く締めくくるように鍵盤を叩くと震える細い身体を抱きしめる、そして誰もが知らない色で染められた世界を愛でるように彼女にもう一度口づけをする。

「変態、とはいうのかもしれないけれどもどんなものよりロマンチックだよね、この瞬間って」

「ああ」

どうもこの瞬間は私も放心してしまっているようで受け答えも曖昧になる。でもそれがいいのかもしれない、人と人が触れ合う瞬間の悦びなど人に見せられるものではない、そして私の裸の心を綴った旋律も。この世界に残ることのない二人だけの輝きを今は少しだけ感じていようか。

「これも好きだけど続きはベッドでしてもらっていいかな?そっちでも貴男は優しいから……」

「ああ、構わないよ。でも少し休んでからにしようか」

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