ブラックダイアモンド

姫百合しふぉん

Prélude

習作と見做されるこのソナタこそ私が一番好む彼の作品。技巧的、それはあたかもドレスデンの宮殿をどこまでも精緻に五線譜の上に綴るかのように。そして題材がそうであるようにどこか一つ昔の時代の残り香を孕んだ音色。その上に生まれた土地の血を染み込ませてあるのだが、彼の繊細な指先が唯の朴訥な民族舞踊には留まらせない。日本人、まだまだもの珍しさがあるのかもしれない、オリエンタルな雰囲気のある私の放つ色彩が、いや私の紡ぐ旋律はそれだけでは例えることができないのだ。そもそも冗長で垢抜けないとされ選ばれることの少ないこの曲に誰もが目にしたことのない新たな原色を加えた私から会場の誰もが目を離すことができないのだろう。一度だけ首を軽く振り視界を侵食する―――別に目を閉じていても弾くことは可能ではあるのだが、どうも幾ら気を使って美しく保っているとはいえ今は邪魔でしかない会場の静かな熱気にあてられ猛る黒い長髪を窘める。静かに私はどの色にも染まらない大地に指を差し出す。


最終楽章を前にして私はすぅ、と息を吸う。そう、目の前のカンバスは色を塗るためにある。この手で、この指先で、この身体で。力強く、今からその足で大地を蹴り走りださんとするかのように二、三度跳躍をすれば一気に駆け上がる。いや、全身で目の前にある大きな澄んだ硝子に命を吹き込むのだ。対称な菊、もう一度準備を挟み少しだけ対称という言葉から離れた生命を滾らせ花開く菊を一気に刻み込むと軽やかな音色が響き渡る。唯の無機物に命の灯を刻んだ喜びを白と黒の大地の上で歌い奏でるのだ、さぁ、続けよう。花よ、開け、力強く。高鳴る鼓動のように少しずつ駆け上がる、頭と指先が直接血管で繋がっているかのような感覚、その頂には色など存在しないはずなのに幾つもの原色の蕾が一気に私を待っていたかのように花開くのだ。どこか冗長な、いや実際に冗長ではあるのだが私が歩いた轍には新しい光の粒が舞い、そしてそれは蕾になる。頂きから私の動きから一呼吸おいて足跡から虹色の花弁が吹き上がるのはまさに絶景といったところだろう。もう一度私はその光景を見たいと思い左手を駆け上らせる、私の描く花園は一つの醜い失敗作も存在することが許されない。少し、この光景を歌ってみようか。優しく鍵盤をなぞる一編の詩、添える伴奏は単純なほうがいい。しかしながら私がおよそ一分間で作り上げた絶景に対する賛美は少しずつ勢いを強める、自画自賛、それでいいのだ、それでこそ美しい。澄んだ空気、それは多少肩肘を張って絵の具を叩きつけていた私の身体を少し癒してくれる。少しだけ頬を緩めると一気にこれまでの冷たい表情に戻り大仰に鍵盤を叩く、それは叙事詩のように。私は深みのある声で先ほどまでの華美な表現を戒めるかのように客観的に簡潔に描写してゆく、それは数式を読み上げるかのように、それぞれの模様を関数で表すかのように。それでも私の指先が紡いだ調への興奮は冷めないのかまた旋律は高みへと駆け上る。やはり止められないのだ、何人も、この溢れ出る新たな輝きを。幾つもの同じ事を意味する類語を指先で綴る、一度それが尽きてしまっても止め処なく溢れてくるからもう一度。指先が感じている興奮が一度落ち着いたら再度、初めに見せた曲芸にも近いモノに命を灯す彫刻を何度も繰り返す。もはや漆黒の闇を引き裂いて色が生まれるように、それはあたかも夏の夜空を彩る花火のように。

咲いた花は散る、でもそれは悲しいことではなくまた新たな絵画が生まれる瞬間である。私の指は風に揺蕩うその花弁を追いかける。鍵盤の上を舞うように駆けてみても、移ろう花弁に追いつくことはできない。手を伸ばしてみても今まさに触れようとするところで気まぐれな風が吹きまた何処かへとそれは旅立つ。極めて人間的な感情をむき出しにして、渇きに苦しむ旅人のように手を伸ばす。それでも掴むことはできないのだ。ならばその風に舞い運命の中を流れゆくその様を眺めようじゃないか、そうすれば自然に心は穏やかになり静かに旋律を口ずさむことができる。やがて花弁は大地を割り流れる水面へと落ちる、まるで人の心のようだ。その流れる水に僅かな重さしか持たない薄く色づいた一枚の花弁は逆らうこともできない、風に流され、濁流にのまれ私の目の前から去った。

寂寥、そうすると私の心の隙間を埋めてくれるのはせせらぎ、少しその傍を歩いてみようか。灰色の岩に当たれば幾つもの色を孕んだ飛沫が吹き上がる、どこまでも澄んだその音が心の中へと染み込み先ほどの渇きを癒してくれる。そのような穏やかな風景はやがて終わる、眼下に広がるのは滝壺、足も竦むような高さから一気に叩きつけられる水の塊が弾けるさまは音も、字面もまさに瀑布という言葉が相応しい。水が流れるそばを歩くということ、その少し冷えた清涼な空気は全身全霊で鍵盤に相対し一つの彫刻を作り上げてきた私の身体の疲れを癒してくれる。画竜点睛、さぁ目の前の絵画を完成させよう、命を吹き込もう、これまでの旅程での疲れ、慣れない土地を彷徨い歩いた疲れなどを忘れて、ただひたすら華々しく、猛々しく、命が生まれる瞬間をここに刻もう。完成を意味する力強い雄叫び、遠くの者にもその報せが届くような鐘の音、そして興奮した私を鎮めるかのような最後の厳かな二音。


空気が揺れる、私を讃える声すら溢れ出しホールが揺れる。立ち上がった私は一礼し、もう一度付き合ってくれたピアノに目を向ける。この目に見えていたのは和洋問わず芸術の粋を集めた一つの彫刻、どこまでも透き通った硝子にまるで宗教画のような執念深さで無数の装飾を彫り込んだそこには誰もが見たことのない理想郷の風景が広がっていた、命が生まれ朽ちていき、そしてまた新しく生まれる様が全て描かれた完全無欠な写真よりも写実的な絵画、その出来栄えに私は満足げに笑みを浮かべた―――そしてすぐに冷静な顔になる。他人の曲をなぞるのは嫌いだ、どうせそれを綴った時の心境など分かりもしないのに誰かが勝手に偉そうな顔して解釈を加える、それは私も同じことをしている訳ではあるが。私の背を押す歓声、技巧的に難しい曲を弾きこなしているという事実よりも、寧ろこちらのほうが私に満足感を与えてくれる、そう、私の価値を高めてくれるのだ。

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