五、魔獣が出た




なんだかんだとここに居座ってしまっている僕。

迷惑なのではないだろうか、早く出て行った方がいいのではないかと悩んでいるのだが、優しい彼らに甘えっぱなしの生活を過ごしていた。


しかし!最近の僕は少しずつではあるけれど、みんなの負担を減らせるように動けるようになってきたと思う。マルセルくんとジョスリーヌちゃんが外で遊んでいる時にあまり遠くへ行かないように見張ったり、山菜や薬草の種類を覚えて採集を手伝ったり、ジャンさんから魔獣の解体の仕方を学んでコラリーさんの料理を手伝ったり……


…まぁ、どれも自分のためにやっていると言っていいかもしれない。何もしないでいるより何かしていた方が安心できるのだ。


…いや、今はそんなことを考えている場合ではないかもしれない。僕は昨日、カルメンさんと初めてあんなに話をしたのだ!今まで一切と言っていいほど話さなかったのに!!僕はこれが大きな進歩だと思い、もう一つ行動を起こそうと決意したのだ!


それはニコラくんと話をすること。…できれば仲良くなること!


なかなか難しそうだけれど、今の僕にはできる気がする。なんせ昨日の僕はカルメンさんと会話したのだから…大丈夫なはず。


彼は大抵、昼ごはんを食べ終わると、何をしにかはわからないけれど森へ出かける。コラリーさんとジャンさんには許しをもらっているみたいだ。彼は他の子達より年上…いや、カルメンさんとは同い年くらいかな?だからだと思うけれど、危ないことはしないと比較的信頼されているんだろう。


今、僕はどんどんと進む彼の後を追いかけている。隠れながらだけれども。

ちなみに好き好んで尾行しているわけではない…話しかけるタイミングを計っていたら、あっという間に時間が経ってしまっていたのだ。


どうやら彼は目的地に着いたみたいだ。

そこは森の中では少し変わった場所だった。木は少なく、障害物になりそうなものがあまりない…動きやすそうなひらけた平地だ。

僕は少し遠くなってしまうが、バレないように木の陰に隠れて話しかける様子を伺うことにした。こんなところで毎日毎日何をしているんだろうか?


彼はあたりの様子を少し伺うと、近くにあった木に近づいていった。その木には他の木とは違い、なにかで叩かれたような傷が無数にあった。それはまるでもともとそんな模様がついていたかのように自然である。


そこには何か長い棒のようなものが立てかけてある。それを持ち、何度か確かめるように振りかざし、降ろす。それが終わると、彼はその棒で木を叩き始めた。


しかし、ただがむしゃらに叩いているわけではないようだった。上から下から…薙いだり、突いたり。


棒術?…槍術というべきなのだろうか?僕のような武術の心得のない人間から見てもその動きが型に沿ったものであることがわかった。正確に模倣したのだろうと分かるほど強く、綺麗な動きだったのだ。


彼は一つ息を吐き、鈍い橙色の髪をぐしゃぐしゃと掻くと、少し木から距離をとり、それを続けた。


今の彼の目はとても真剣なものに見えた…と言っても普段の彼の目なんてしっかりと見たことはないのだけれど。これはますます話しかけづらくなってしまった…なんだか邪魔をしたくない。


そう思い、ぼーっとそれを眺めていたとき。







グオオオォォォォォォォォッッッッ!!





突然、けたたましい魔獣の鳴き声が響いた。あの魔獣が近くにいるのか…!?僕は一瞬、あの魔獣を思い出し、体を震わせる。


「え。」


僕とは真逆の方向の木々の間からそれはニコラくんの前に姿を現した。あの魔獣ではないにしろ獰猛そうな姿をしている。ニコラくんより一回りほど大きな体を四足で支え、全身の赤黒い毛を逆立てながら牙をむいて彼に近づいてきていた。


魔獣を見たのはこれで二回目だが、一回目の経験からそれは恐怖の象徴として僕の中に残っていた。


僕が出て行くべきなのだろうか、誰か助けを呼びに行くべきなのだろうか。焦りからか思考が定まらない。足も動かない。冷や汗も止まらない。


しかし、彼なら大丈夫なのではないかと心の中で思っていたのだ。きっとさっきまでの彼を見ていたからだろう…でも…


「あ…あぁ…なんでここに魔獣が…」


彼は全身の力が抜けたかのようにその場にへたり込み、じりじりと後ろに下がっていた。僕と同じように恐怖して。


それを見た瞬間、僕の体は勝手に前に進んでいた。僕ではあの魔獣に手も足も出ないだろう。でも、そんなことは関係ない。僕と同じように魔獣を恐れる彼を放ってはおけないのだ。


僕がここで何もしない人間だったらニコラくんとも、他の人とも仲良くなんてなれない。そう思ったのかもしれない。


『君ってこんなに勇敢だったっけ?…あ…そっか。』


誰かの声が耳に響く。聞き覚えのあるものだったけれど、今はそれどころではなかった。


「ニコラくん!!!」


「え…!?お前は…」


「今はそんなことより!立てる?早く逃げないとっ…」


「…それが…腰が抜けちゃったみたいで…」


何度か彼を持ち上げようと試みるが、なかなかうまくいかない。彼は泣きそうな顔をして僕を見る。

普段強がっていて、あんなに上手に棒を扱えるのに…僕のように魔獣を恐れていた。僕も彼も1人の子供なのだ。


「おいっ!!後ろっっ!!」


僕が振り向いた時、魔獣の振り下ろされた前足は目前まで迫ってきていた。咄嗟に腕で頭をかばう。


腕に強烈な痛みが走る。その力は非常に強く、僕の体は大きく後ろに飛ばされ、ごろごろと転がった。


「がっ……」


突然の痛みに思考が停止する。駄目だ。頭をちゃんと働かせるんだ。


僕の腕は大丈夫なのか!? …それよりニコラくんは!?


僕は必死に顔を上げると、今にも魔獣は彼に襲いかかろうとしていた。



『助けたいのかい?』



また声が頭に響く。なんだか魔獣の動きが少しだけ遅くなったように感じる。

その声が何者かはわからないけれど、僕は無意識に頷いていた。


『…そうしたいならそうすればいい。

 君なら出来るはずでしょ。…ほら腕を見てごらん。』


僕は痛みで震える両腕を見る。こんなにも痛むのにまったく傷もなく、出血もしていなかった。

…そうだ。僕はどうして忘れていたんだろう。あの恐ろしい魔獣と会った時のこと。


『考えるのは後にしなよ。』


それもそうだ。僕は体を起こし、足元に転がっている小石を掴むと、魔獣に向かっておもいっきり投げた。


グ…グオオォォォォッォォッッッッッッ!


鳴き声がまた聞こえる。僕は自分自身でも目の前の光景が信じられなくて息を飲む。それは想像以上の威力だった。その小石は魔獣の前脚を少しかすめただけで肉をえぐり、激しく砂埃を立てながら地面に食い込み、粉々に飛び散った。


僕は急いでにニコラくんのもとへ走る。


「…おまえ…怪我は!?あれはなんだ!?」


「大丈夫。僕がこいつをなんとかする。」


「何言ってるんだよ!?そんなの無理だっ!!」


「君を置いて逃げられないよ。それに…なんだか出来るような気がするんだ。」


「はぁ!?」


魔獣は巨体を飛ばし、こちらに飛びかかってきていた。僕はそれを確認して、両手で頭をかばうようにし、魔獣との距離を詰める。


ニコラくんは僕を止めようと必死に体を動かそうとしていたが、まだ腰は抜けたままだろう。


大丈夫。こいつはあまり大きくない。


『それでも凄く痛いだろうね。』


多分ね。


『やめておいた方が良いと思うけど。』


それでもやるんだよ。


その声はため息をつくと聞こえなくなった。その瞬間、赤黒い塊が凄まじい衝撃となって僕を襲い、地面に叩きつけられる。全身に衝撃を受け、呼吸もできなかった。痛い。


ああ言ったけれど、これは痛すぎる。頭がおかしくなりそうだ。でも、やるなら今しかない。僕はぼんやりとした視界の中で魔獣の前足を見つけ、両手で左右それぞれの前足を力の限り握った。



僕が目を覚ましたあの日、僕は命からがら魔獣から逃げ出した。


噛み潰されようと傷一つつかない体。

握っただけで魔獣の牙にヒビが入る手。


どうやら僕は無意識のうちにあの日の記憶を忘れようとしていたのかもしれない。

僕は自分が異常であると思いたくなかったのだ。



グオオオッォォォォオォォォォォッッッッ!!!


今度の鳴き声は威嚇じゃない。痛みからのものだ。


その魔獣は僕に握られた部分だけひしゃげた前足を引きずるように後ずさっていた。出血もひどいようで地面に二本の赤い線を描いていた。


先ほどまであんなにも恐ろしい存在だったのに。今では瞳にギラギラとした光はなく、頭を低くし、僕を見ていた。その目はどう見ても怯えている目だ。


…これじゃあまるで…


「…ば、化け物だっ!!」


…そう。これじゃあ僕が化け物じゃないか。


ニコラくんは必死に僕から離れようと体を引きずっている。あの魔獣と対峙した時と同じように。


…体がとんでもなく重い。疲れからかな?今倒れたら駄目だ。ニコラくんの安全を見届けないと…

けれど僕の想いに反して意識はだんだんと薄れていく。


僕は必死の思いで体を動かし、魔獣の首元を掴んだ。


『…君は化け物じゃないよ。』


また声が響く。そんなの…今はどうでも良い……


僕は魔獣が事切れるのを確認すると同時に意識を失った。

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