はじめに二
外の景色はさほど変わっていなかった。たいして時間は経っていないのだろう。目を覚ました瞬間、僕は自分の現状を思い出した。あぁ、喉がいがいがする。咄嗟に嘔吐する。何も出ないけれど。体はたいそう重かった。
でも、僕の心は気を失う前とは大きく違っていた。生きようと思っていたのだ。
僕は必死に体を動かし、起き上がろうともがいた。必死に両足に力を込める。
でも、僕はその動作に夢中になりすぎていたようだった。なんとも抜けている。
魔獣の唸り声が聞こえた。やけに近い。足音もだんだんと近づいてきていることがわかった。僕は必死に辺りを見渡した。
暗がりでも見える距離まで魔獣が近づいてきていたようだった。強靭な牙が見える。それは僕より一回りは大きかった。全身ならどれほど大きいのだろうかと想像し、身震いする。
牙はゆっくりと開かれた。僕という獲物が逃げるなんて考えてもいないのだろう。僕を食べることが自然であるかのように口を開いたようだ。その牙の奥には夜の密林と比べものにならないほどの闇が広がっていた。あぁ死んでしまう、と僕は漠然と考え、眺めることしか出来なかった。
牙は閉じられる。僕は目を強く瞑る。
僕の体にまるで牙で貫かれたような激痛が走った。噛みつかれたのだからそれも当然だろう。
「うああああぁっぁぁぁぁっっ!!」
何とも滑稽で奇怪な魔獣の鳴き声なようなものが密林に響いていた。それはどうやら僕の口から出ているようだ。苦痛から来ているのだろう。
でも、そんなことどうでもよかった。僕は痛みなんて気にならないほど驚愕していた。魔獣の牙は確かに僕を捕らえていたはずだった。僕を貫いたはずだったのだ。僕の…人間の皮膚は脆く、柔らかいものだったと僕は記憶していたはずなのだ。
「…なん…だ…これ……」
牙は僕の体を貫いていなかった。僕の肩に当たり、皮膚の前で止まっていた。僕はそこから目を離すことが出来なかった。魔獣も困惑しているのか、さらに力を込めたようだ。より激しい痛みが身体に走る。
「いっっっ!!」
わけがわからない。
痛みと混乱で僕の頭はぐちゃぐちゃだった。
どうして牙は僕に刺さらないんだ??
魔獣は大きさから考えて僕を殺すには十分すぎるほどの力を持っているはずだ!それならば問題は僕だ!僕自身が問題なのか!?
僕はなんなんだ!?僕は何者なんだ!?
魔獣の口から下半身を出したような滑稽な姿のまま僕は困惑していた。
◇◇◇
「……あ…ぁ…が…あ……げほっ…げほっ…」
あれからどれほどの時間が過ぎただろうか。空はぼんやりと明るくなり始めているようだ。僕は叫び過ぎたせいで、喉が裂け、もうほとんど声が出なかった。
魔獣は牙を緩めない。意地になっているのだろうか何が何でも僕を食べたいようだ。もちろん、痛みは途切れない。僕は気を失うことも出来なかった。でも、この痛みのおかげで生き続けられていると言ってもいいほど僕は衰弱していた。
…そういえば、先ほど不思議なことがさらにもう一つ増えたのだ。あまり考えたくないのだけれど。
僕は今まで牙から逃れようと身体を動かしていたのだが、その延長で牙を思い切り掴んで身体を引き抜こうとした。その時、僕が掴んだ牙からは軋むような音がしたのだ。疲労からあまり力も入らなかったのに!気のせいかと思ったけれど、僕が手に力を込めるたびに牙が軋み、少しひび割れるような音がした。
魔獣も迷惑そうに喉を鳴らしていた。
僕の手にはこんなに力があったのか??
もっと自分のことがわからなくなっていた。
どう考えても僕は異常である。どうしたものでしょうかね。
でも、僕はより自分のことを知りたいと思っていた。まだ生きたいと考え、魔獣の隙を窺っていた。痛みで体は震え続けていたが、歯を食いしばり必死に耐えた。
僕は上半身を魔獣の口の中に入れるような体勢で動かせない。抜け出す機会があるとしたら魔獣が力を緩める瞬間だ。魔獣はあれから力を込め続けている。どうにか出来ないものか…
僕は痛みからなのか、衰弱からなのかわからないが激しい吐き気に襲われた。僕は耐え切れなくなり、嘔吐する。魔獣の口の中で。少し魔獣が怯んだことがわかった。
そうか!こりゃいい!!
僕は必死に自分の喉奥に指を突っ込む。僕はさらに吐く。
魔獣の口が少し開いた気がした。魔獣も生き物だ。不快感を感じないわけがない。僕はこの機会を逃さずに身体を引き抜いた。
僕は後ずさり、魔獣を見上げる。その大きさは僕の想像以上だった。黒色と灰色のまだらな硬そうな体毛、大きく開かれた血走った目、大きく鋭い牙に相応しい口、鋭利な爪を持った筋肉質な手足。それはまさに獣と呼ぶにふさわしい外見をしていた。
その魔獣は僕が抜け出した時の体勢のまま動かなかった。目だけを動かし、僕を視界に入れる。その目はとても恐ろしかった。まるでまだ諦めていない、お前を必ず食らってやるぞ、とでも言いたいかのようだった。
僕はすぐさまそこから離れたかった。僕は足に出来る限りの力を込める。僕の行動は自分が衰弱していた事を忘れてしまうくらい速かった。必死にその魔獣から離れるために走ったのだから当然かもしれないけれど。何度つまずいても、足がもつれても気にならなかった。後ろを振り返るなんて暇はなかった。
◇◇◇
「…ぜぇ…ぜぇ…はぁ~…」
当たり前だけれど、僕の体力はとうに限界を超えていた。一度止まるともう足は動かなくなってしまった。驚くほどの量の汗が身体中を覆う。何度目をこすっても汗で視界が定まらない。うずくまり、浅い呼吸を繰り返す。
どうやら魔獣は追いかけてきてはいないようだ。なぜかはわからない。でも、僕にとっては幸運なことだった。僕はまだ生きてる。体に残る鋭い痛みがさらにそのことを実感させた。しかし、同時に僕の体が限界に近づいてることも思い出した。お腹が空き過ぎて気持ちが悪い。
僕の体の感覚は痛みからか非常に過敏になっていたようだ。そのおかげかどうかわからないけれど、かすかに水の流れるような音が聞こえたのだ。ちょろちょろと耳に心地いい水音。それはだんだんと鮮明に聞こえた。
「…これは…川かな!?」
僕は急いで起き上がり、辺りを見渡しながら音の方に進む。その川はびっくりするほどすぐに見つかった。
久しぶりに見る澄んだ水は僕の目を惹きつけて離さなかった。日の光を反射して、てらてらと光っている。綺麗である。
僕は必死に何度も顔を川に直接突っ込み、貪るように水を飲み続けた。それはひどく美味しかった。体にどんどん力が湧いてくることがわかった。僕は水を摂取するという行為がこんなにも素晴らしいことだなんて思わなかった。
まだ喉は渇いている。でも、お腹がたぷたぷであったため、一時中断である。僕はやっと川から顔を上げ、無言で空を見る。空は雲が多く、先ほどまで曇っていたようだった。
(人間はこんなに水を飲むことができるんだなぁ…)
ぼんやりとした頭の中でそんなことを考えながら僕は生きるということの素晴らしさを噛み締めていた。
どうして最初に倒れる前までの僕は死ぬことが怖くなかったのだろう?さっき、魔獣を目にした時の僕は恐怖し、死にたくないと思って逃げたというのに。
言うまでもない。妄想の彼女の存在によって救われたのだろう。何だかお母さんみたいな声をしている彼女である。
だからか、僕は彼女に言われた通り頑張ろうと思った。
何だかんだ心配してくれている人?もいるしね。
(なーんてもっともらしく考えてみたけど自分の妄想に支えられるってとんでもないことだよなぁ…)
彼女の存在も僕自身のこともわからないことだらけだ。でも、今はただただ空を眺めていたかった。
流れる雲を何も考えずに目で追う。なんだか空を眺めているとひどく心が落ち着くようで、だんだんと意識が遠くなっていった。
(僕は空が好きだったのかもしれないなぁ。)
そんなどうでも良いことを考えていると、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
◇◇◇
『なにが『空が好きだったのかもしれないなぁ』だ。死にそうなんだっての。』
「うわっっ!!」
突然の声に僕は飛び起きる!なんだなんだ!?
僕は何をしていたんだっけ!?ここはどこだっけ!?
誰に話しかけられたんだ!?こわい!
「たすけて!」
『もう…なにやってるの…気を失ったんでしょ?いや、寝たのかな?』
「あ……そっか。」
『なーに言ってんだか…』
相変わらず彼女の呆れたような声だけが僕の耳に響く。どうやらここは夢の中のようだ。僕はいつの間にか気を失っていたみたいだ。びっくりした…
『でもなんで水飲んですぐ寝たの?睡眠欲に忠実だね君は…』
「面目ないです…」
『でも結果的に良い方向に進んだみたいだよ。君は運が良いのやら悪いのやら…』
「どういうこと?」
『君は眠っているところを誰かに助けられたみたいだよ。』
「えっ…よかったなぁ~…」
僕は安堵して息を漏らす。
水は飲めたけれど、食べ物はどうしようと思っていたところだったのだ。
『まぁ…お疲れ様。今はゆっくりとお休み。』
彼女はそのまま僕を気遣うような言葉を続けた。どうして僕は自分の妄想に気を遣われているのか。涙が出そうだ…
僕はもう少し彼女と話をしたかったのだけれど、彼女の言うようにもう一眠りすることにした。
夢と現実を行ったり来たり。こうも唐突に変わるとなんだか頭が混乱しそうだ。
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