第3話 異能
水で湿らせた雑巾を軽く絞り、壁の汚れを拭いながら起こった事を考える。事象だけをまとめると、取り落とした林檎をキャッチしようとしたら、突然壁に向かって吹っ飛び、林檎が汚いシミへと変身した。
うん、自分で言っていてもサッパリ意味が分からない。何はともあれ原因だけはハッキリしている。今も雑巾から少しズレた位置に、蠢く数字の塊を映し続ける左目だ。
落ち着いて状況を整理してみよう。
1.取り落とした林檎をキャッチしようとしたら、数字の塊から一個の数値のみがポップアップした。
2.何桁あるのかパッと見ただけでは分からない数値を見ながら、林檎が落ちるのを止めようとした。
3.変化し続けていた数値がピタリと止まった。
4.林檎は重力に引かれて鉛直方向に落ちていたが、突然方向転換して斜め上に飛んで行った。
退屈な入院生活に訪れた小さな変化に、年甲斐もなく胸が躍る。どうせ時間は持て余すほどあるのだから、色々と検証してみたい。流石に食べ物を使うのはもったいないので、この雑巾でも使ってみるとするか。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ポーン。
ザッという一瞬のノイズの後に女性看護師の声がした。
「消灯時間となりました。明かりを消してお休みください」
もうそんな時間になったのかと驚き、改めて周囲を見ると、なるほど真っ暗だ。サイドテーブルのライトを
どうも左目が見ている数字の塊は、その物体が持つプロパティの集合体のようだ。自身を基準に鉛直方向をY軸、水平方向をX―Z軸とした座標を意識すると、3つの値がクローズアップされた。
しかしそれぞれの値が凄まじい桁数をもっており、尚且つ常に変化し続けているため、とても用をなさない。
自分の立ち位置を基準にセンチ単位にならないかと念じてみると、数値が
この状態になると、静止している物体に対する三次元軸の値は固定され、それぞれがどの値なのかを把握することができる。
ここからは推測になるのだが、基準点を自分にする前の値は、宇宙のどこかを原点として表示された、絶対座標のような物だったのじゃないだろうか?
20桁や30桁どころではない数列が見えていたし、そう仮定すると林檎が吹き飛んだ理由にも一応説明が付く。
我々は地球上で生活をしている関係上、意識に上ることは滅多にないが、地球という天体は自転と公転という運動をし続けている。
自転だけに絞ってみても、地球の円周を約4万キロメートルとして24時間で一周することから、赤道上では時速約1700キロメートルという凄まじい速さで移動している。日本は北緯35度、東経135度付近にあるため、もう少し角速度は小さくなる。
話を林檎に戻すと、俺は咄嗟に林檎の三次元座標のいずれか、もしくは全てを固定したらしい。林檎は宇宙基準で静止した訳だが、当然地球は移動し続けている。
すると何が起こるか? 転がるボーリング玉の進行ルートに、10円硬貨を立てて静止させたような状態になる。
結果は自明であり、当然のように10円硬貨は弾き飛ばされる。林檎に起こった事象も同様なのだろう、宇宙空間の一点に固定された林檎は、移動する地球に恐ろしい速度で轢き潰されたのだ。
そしてこの事象から一つの面白い能力が判明した。俺の左目は物体の値に干渉できるということだ。林檎を固定できたことからも明らかだ。
現在は自分を(おそらく眼球のある位置が原点?)基準とした相対座標になっているため、林檎のような悲惨な事故は起こっていない。雑巾の位置座標を表示したまま手で動かすと、それぞれの数値はリアルタイムで変化する。
ここで一切手を触れずに、Y軸を鉛直逆方向に100センチの値に設定するとどうなるのか? 答えは直上100センチの位置に雑巾がワープする。手を触れずに物体を動かすことができるのだ!!
こんなデジタルな方法じゃなくて、もっとアナログな念力なら超能力っぽいのだが、現実はままならない。
とは言え棚ぼたで面白い能力が手に入った。物体を動かすエネルギーが何処から来ているのかとか、重量物を動かしたらどうなるのかとか疑問は尽きない。
しかし、自分自身の位置情報を弄れるのなら、瞬間移動で自宅に帰宅するという、サラリーマン時代に幾度も夢みた妄想が現実のものとなる。
もっと色々検証したいが消灯時間になってしまった。しかし、入院中の身であるため、時間だけはタップリとある。急ぐ必要などないと思い、偶然手に入れた新しい玩具を遊びつくす計画を脳内に描きながらスタンドライトを消した。
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