第12話 空虚な日々/変わる日常11

かぁんと甲高い金属音がした。硬球をバットで打った音だ。力強いものを感じさせる。



 試合で言えばホームランだろうか。



 そんなことを考えてぼうっと打球を見ていたが、なにやら野球部の面々がグラウンドからこちらに向けて叫んでいるのが耳に入り、目に見えた。



 打球はライトの守備を超えて古月と小春目掛けて飛んできた。いや、古月と小春というよりは、小春を目掛けて飛んできたというのが正しい。



「あ……」



「くっ!」



 脳がけたたましいサイレンを鳴らす。古月はその場を動くことが出来ないでいる小春の体を咄嗟にぐいと引き寄せた。



 まさに間一髪だった。すぐ後、ボールはぼとりと鈍い音を立て、アスファルトの地面に落ちた。ちょうど、小春が立っていた位置である。



「危ないところだったな」



「え、ええ……。ありがとうございます」

 しばらくして、ユニフォームを着た野球部の部員の一人が血相を変え、大慌てで「大丈夫ですか⁉︎」と飛んできた。



 幸い、ボールは当たっていなかったので「大丈夫だ」と伝えると、野球部員はほっと胸を撫で下ろした。



 古月は足元に転がったボールをひょいと拾い上げ、それを野球部員に返してやる。



「ありがとうございます」と丁寧に帽子を取って深々と礼をすると、元いたグラウンドに向けて踵を返した。



 しばらくその様子を見つめていたが、小春の体を引き寄せたまま手を離していないことに気がついた。



「悪い」



「?何か悪いことをしましたか?」



「……お前がなんとも思ってないなら俺も謝る必要はねぇよ」



「変な人ですね」



 小春は古月の事を、所謂そういう目で見ていない。



 そんな小さな事件を越えて、古月と小春はまた歩き始めた。




 今回はそこまで焦らす気はないようで、少し歩くと何気ない風に「今、楽しいですか?」と古月に問うた。



「なんだよ急に」



「別に?それで、どうですか?」



「まぁ……楽しいよ」



「本当ですか?」



「嘘つく必要あんのかよ」



「嘘ではないでしょうね。ですが、貴方には何かある」



「何かって……なんだよ」



「さぁ?先ほど話して貰えませんでしたし、本当に何かあるかもわかりません。ただ、貴方は楽しそうに笑っている時、すぐ後に必ず表情に陰りを見せます。何かに気づいたかのようにはっとして、笑顔を無くしているんです」



 心当たり、というか自覚はあった。だからこそ、小春に悟られたのだろう。先ほどのこともそうだ。態度に露骨に出ているから、心配される。



 古月にとって小春は唯一無二の存在で、世界で一番信頼しているアドバイザーである。先送りにしようとした相談事を今話してしまおうか迷った。



 どうせいつかは話すことである。今とこの先でどういった差があるのだろうか。



 小春は今まで古月の持ちかけた相談事には必ず解決策を用意してくれた。その信頼性は絶大だ。今回も快く相談に乗ってくれるだろう。



 しかし、話すことを躊躇する気持ちもあった。そのことは古月の核とも言える話であった。しかも、その話は今の古月にとって思い出すことすら苦痛な、忘れてはいけないが忘れたくなるほど強い束縛力を持っていた。それほどのものを他人に見せるというのはかなり勇気がいる。



「……何かはある。けど、今はまだ話せねぇ」



 考えに考え、ようやくひねり出せたのがそれだけだった。今は話せない。



 小春はそう返ってくるのがわかっていたかのように「でしょうね」と悪戯っぽく笑った。



「貴方は話しませんよ。顔がそう言ってます。話したくないならそれで結構。ずうっと待ちますよ」



「忠犬かよ」



「犬呼ばわりとは失礼ですね」



「……助かるよ」



「別にお礼を言われるほどのことはしてませんよ。困っている時に手を差し伸べるのが友達です」



 その屈託のない笑顔に救われ、心の中でもう一度礼を言った。



 小春の存在は自分にとってかなり大きい。心の拠り所の大部分を占めている。だからこそ本当に心が救われる思いだった。



「さて、ひと段落つけたところで。今日は帰りますか?それとも何かしますか?」



「……帰るか。気分じゃねぇ」



「それでは、何処か寄りますか?」



「そうだな。なんか奢るぞ」



「あら、嬉しい。では、お言葉に甘えましょうかね」

 何処かに行くことを決めた二人は一先ず部室に戻り、荷物をまとめてからしっかり施錠し、下足箱で履き替え、学校を後にした。空は夕焼けが闇に呑まれつつあり、薄暗いという表現が似合った。



 それからどんどんと日は落ちていき、ファストフード店に着く頃にはもうすっかり暗くなっていた。



 そしてしばしの談笑、食事を終えて店を出た頃にはすでに真っ暗になっていたのだった。空に星が瞬く。



 遅くなったので、今日は小春を自転車の後ろに乗せて夜道を漕いだ。かなり暖かくなってきており、上着を着ているのが暑苦しかった。



 今回は特に何かあったわけではなかった。大したことのない世間話をしながら小春の家へと向けてただ自転車を走らせているだけだった。



 他愛のない、なんてことはない、普通の会話。いつもとなんら変わりのない、僅かな幸福感に包まれる。

何事にも代えがたい、強力な中毒性を持った甘い一時。



 この時間が永遠に続くのだと錯覚してしまいそうな至高の一時。



 これだけでもう満足だった。



 ただ、それだけだった。



 だから、古月はこれから起こるとんでもない出来事の発端が、こんななんでもない事のすぐ次に発生するとは夢にも思っていなかった。



 非日常は、突然訪れる。

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