第8話 空虚な日々/変わる日常 7

 そうして迎えた次の朝。



 古月はすでに剣道場へと到着していた。しかし、いつも握っている竹刀は壁に寄りかかったままで微動だにしていない。



 たった一日触れていないだけなのに、毎朝素振りをしていたことが何年も前のことのように錯覚した。少しさみしい気持ちになる。



 朝にこうして何もしないで剣道場にいるのは初めてだった。今まで目に付かなかった壁のシミや傷などがやたらと気になる。天井には小さな穴が無数に空いていた。退屈が臨界点を超えそうなので、苦し紛れにそれを数える。



 カウントが千を越えた辺りだった。がらりと戸が開き、眩い光をバックに小春が現れた。



「おはようございます。退屈そうですね」



「そうだなぁ……」



 カウントをストップし、見上げるのを止めた。首が痛い。



 古月は荷物を纏め、小春が来る前に立ち上がり近寄った。



「もう教室に行くんですか?」



「ここにいたってやることねぇしな」



「それもそうですね。よし、張り切っていきましょう。とりあえず部の新設届けを取りに行きましょう」



「そうだな」



 どこにあるかは知らないが、小春に従えば間違い

はないだろう。



 その答えは職員室の前にあった。小さな箱に入った数枚の紙、それが新設届けである。



 申請方法は簡単である。部名と活動内容と部員の名前を書けばいい。そして、顧問になってほしい先生のところに持って行き、それが校長を通ればいいという単純明快なシステムだ。



 古月は知る由がなかったが、生徒会長である小春が知らないわけもなく、スラスラと適当に書き終える。



「顧問は誰がいいですか?」



「先生の名前なんて誰一人として覚えてねぇな」



「もう、不真面目ですね。なら、里中先生っと」



「誰だ?」



「……うちの担任です」



 流石に知っておかなければまずい情報を知らなかった古月をじとりとした目つきで睨む。



「い、今覚えたからいいだろ」



「人の名前を覚えるのは大事ですからね」



「へいへい」



 適当にあしらってその会話を終わらせる。小春がぷくりと頬を膨らませるもすぐに空気を抜いて、きりりとした顔で職員室の戸を開く。がらりという古めかしい音が扉から鳴る。



「失礼します。里中先生はいらっしゃいますか?」



「おう、どうした?」



 意外にも朝早くからいた里中は二人のもとへ小走りで駆け寄る。出来ることなら朝からあまり見たくはない暑苦しい顔である。



「実はですね、部活を作ろうと思ったんですよ。その顧問を里中先生にお願い出来ないかなと思いまして」



「部活?一之瀬は生徒会の仕事もあるだろうに、大丈夫か?」



「大丈夫ですよ。そもそも、生徒会ってほとんど仕事ないじゃないですか」



「そういえばそうだったか。はっはっは」



「あはははは」



 談笑する二人を冷めた目で見つめる古月。笑いどころがわからなかった。



「……と、うん?柳吊もやるのか?」



「は?……ええ、まぁ」



「そりゃよかった!柳吊はいっつもトレーニングばっかして、一之瀬以外の誰かと喋ってるところ見たことないから心配してたんだよ!これを機にもっと社交的になろう!な?」



「ぜ、善処します」



 突然話を振られたので戸惑いながらの返事になる。

 里中は小春から新設届けを受け取り、内容をチェックした。



「ふむふむ、良さそうじゃないか。世界の娯楽の研究をする的な感じか。面白そうだな。よし、乗った。とは言っても、俺は別に何かするわけじゃないけどな。校長に通しとくよ。ま、一之瀬の事だし多分通るだろ」



「ありがとうございます」



 深々と頭を下げる。釣られて古月も頭を下げる。



「それでは失礼します」



 またがらりと音を立てて扉を開け、職員室を出る。用は済んだので必然的に教室へと足が向く。



 階段を上り、長い廊下を歩くとすぐに教室へと到着した。既に何人かの生徒が着席しており、そのほとんどが何やら必死にペンを走らせていた。勉強だろうか。



 静かな教室でペラペラと喋るのは場違いな気がするので、古月も小春はお互いアイコンタクトを交わし、なにも言う事なく各々の席に座った。



 それから退屈な時間を過ごしてしばらく、続々と生徒が集まり始め、教室が騒がしくなってくる。小春の友達も来たようで、小春と楽しそうに談笑している。それは古月とって、羨ましくも、小春が奪われたかのような、煩わしい光景だった。



 そうして、チャイムが鳴った瞬間に先ほどあったばかりの里中が教室に入ってくる。昨日と同じく着席を促す。



 出欠の確認が終わると連絡事項だけ伝え、すぐに出て行こうとする。



 が、小春を手招きで呼び出し、それに呼応して小春がすぐに向かう。古月はその様子を遠くから見ていたが、悪い話ではなさそうということだけはわかった。

 小春が一礼すると、里中が手を軽く挙げて教室から去っていった。



 一連の流れを呆然と見ていたが、突然小春がこちらをにんまりとした顔で振り向き、目が合う。そして、パタパタと急ぐわけでもなく落ち着いたわけでもない微妙なスピードで古月の席まで来た。



「もう承認されたそうですよ」



「早いなおい」



「私の人徳あってのものです。褒めてもいいんですよ?」



「あー、偉い偉い」



「適当にどうも。放課後、チラシを作って掲示板にでも貼っておきましょう」



「そうだな」



 古月が返事すると、小春は席に戻った。すぐに授業が始まるからである。



 毎度の事だが慌ただしい。



 やがてチャイムが鳴り、国語の担当教師が入ってくる。最早真面目に授業を受ける気はないが、一応教科書とノートとペンは用意する。



 今日は昨日と比べ、時間が過ぎ去るのはものすごく早かった。



 一時間目の国語、二時間目の数学、三時間目の英語、四時間目の理科、昼食、五時間目の体育、六時間目の社会。光陰ではないが矢のように過ぎた一日だった。



 帰りの短いホームルームが終わると、今度は古月の方から小春の席へと近づいた。



「あら、珍しいこともあるものですね」



「いいだろ別に」



「全然構いませんけどねー」



 小春は手早く教科書やノートを鞄に詰めるとささっと立ち上がり、古月に目で「付いて来い」と合図した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る