2-1

 ジャイラ・ケーウンの母は、彼がまだ幼い子供だった頃に殺された。

 ケーウンは父の顔を知らない。母だけが、ただひとり彼を愛してくれた存在だった。だが、ひとりの凶人の手によって、彼はそれすら失い、青少年養護施設に追いやられることになる。


 ケーウンはそうした生い立ちに負けず成人し、一つの目標を達成する。警察への参加だ。彼は警官になり、そして刑事になった。彼には一つの信念があった。母への鎮魂として、一件でも多くの殺人事件を解決すること――それが自らの使命であると。その信念と彼との間を塞ぐものは何もなかった。どんな困難も、苦痛も、逆境も、彼の行く手を阻むことは出来なかった。


“いかなるものも、自分の信念を曲げることは出来ない”

 ケーウンはそう信じていた。


 ケーウンが二十六歳のとき、当時追っていた連続殺人事件(俗にいう、慈愛のシンクレア事件)をきっかけに、彼はひとりの女性と出逢った。キャネル――彼女は、事件の七番目の被害者となる運命を背負っていた。だが、その運命はケーウンの奮闘と尽力によって覆される。彼とキャネルはその歳に結婚。翌年には娘がひとり産まれた。名を、マーリ。彼とキャネルとマーリは強い絆によって結ばれていた。愛情という絆で。


“いかなるものも、自分たちの絆を断ち切ることはできない”

 ケーウンはそう信じていた。


 そしてあの事件が起こった。

 今から二年前。ケーウンが三十八歳のとき(このとき彼の階級は警部補になっていた)、同じマンションに住むひとりの住人が〈レゾ〉を過剰摂取し、思念放射を起こした。時刻は正午。ケーウンとマーリはそれぞれ仕事と通学で家を留守にしていたが、家事をしていたキャネルは巻き込まれた。そして最初に駆け付けた、当時管轄内に一名しかいなかった思念放射犯罪対策官カウンターテレパスが鎮圧に失敗。管轄外へ応援を要請する自体になったが後任の到着が遅れに遅れ、思念放射が停止したのは発生から三時間以上後のことだった。


 それでもしばらくの間、ケーウンは希望を抱いていた。確かにキャネルは精神に多大な障害を負った。記憶の混濁は激しく、夫や娘のことも誰だか分からなくなっている。だが、自分たちには絆がある。愛情という強い絆が。きっといつか、何もかもが元通りになる日が訪れると。


 それから数日後、職場から帰宅したケーウンは、台所でマーリの上に馬乗りになって「お前は誰だ? お前は誰だ?」と言いながらその顔面を延々殴り続けているキャネルの姿を見て、妻と別れることを決意した。


 ケーウンはひとつの理解を得た。いかに強く、愛だとか信念だとかを抱いていようが、それらは常に消滅と隣合わせなのだ。例えばどこぞの麻薬中毒者が、たまたま自分の近くでドラッグを過剰摂取する――たった、それだけのことで、防ぎようもなく。そういった世界に、自分は生きているのだと。


 現在、四十歳になったケーウンは娘と二人で暮らしている。完全に心を閉ざした娘と。今も殺人課で捜査員として活動しているが、彼はもう限界に突き当たっていた。自分と自分の理想の間にはとてつもなく大きな距離があり、その断絶を超えるにはどうすればいいのか、もはやまったく検討がつかない。彼は内心では薄々それを自覚していたが、その事実からは必死で目を逸らそうとしていた。


 そして今日も、ケーウンは見知らぬ誰かの死に対して、なんらかの形でケリを付けるために駆りだされ――

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