邪竜の騎士は高らかに愛を謳う ②

 陽が教会の頂上へと登り始めた頃、頂上の鐘楼には、影の中で身を隠しているブレウス、オルガ、ジュリア、サスキアの四名が下準備に勤しんでいた。


 涼しい石床の上で幸せな|鼾(いびき)を鳴らすヴェロキラの兵士を他所に、オルガは隠れて覗うように城の広場を見やる。


 ここから見れる国の景色は、晴れた空も相まって中々に壮観ではあったが、今のオルガにはそれを楽しむ積りは毛頭無い。


 今はただ、自分に任せられた役割を果たそうと、ここから広場の絞首台までの距離を自分の眼で推し量る。

 すると、背後のジュリアが指でオルガの背に円を描き、桃色に光る魔法陣創ると、オルガの感覚が一層に研ぎ澄まされ、顔の毛先から風の流れを敏感に感じ取る。


「どうですか? 集中力と五感を強化してみたんですけど……」

「凄いね、これ。撃つ時は大分楽になるよ」


 オルガはジュリアの魔法にしきりに感心していた。

 自分が褒められた事にジュリアが満足な笑みを浮かべる。


 オルガは冴え渡った体の感覚から、後ろに控えるサスキアの祈りに合わせて風が背中から絞首台へと徐々に強く流れていくのを感じ取った。

 ――これなら問題はないな。


 ここから広場までの距離なら、森で奔り回る小動物より幾ばくか楽だ。

 魔法の支援も貰っているのだ、ますます外す訳にはいかない。


 何も持たない手で弓を掴む様に構え引き絞り、撃つ。

 一度きりの実射に向けて、オルガは想像の練習を黙々と繰り返していく。

 オルガにしか見えない想像の矢が、風を受けて弧を描き、絞首台へ次々と向い、数が増す毎に精確さを上げていく。


 オルガは呼吸を整え、姿勢を正し、意識を集中し、埋没し、尖らせる。

 ――これが、俺の一番役に立つ方法だ。


 猟犬としての感覚を磨いていくオルガにジュリアが見惚れている状況を他所に、ブレウスは石壁に背を預けたまま身を休めていた。


 目を軽く瞑り、体の芯に流れる熱い力の奔流を意識する。

 頭の中でそれを掬い上げて全身に浴びると、現実では首から下が、最早馴染みを覚え始めた竜の鎧姿になっていた。

 ブレウスの体調を反映しているのか、鎧は傷つき、幾つかの亀裂が生まれている。


『そうだ、魔力の使い方はそれで問題無い。ブレウス、今のお前はワシの能力をそのまま行使出来る。扱いに困ったらワシのカッコイイ姿を想像しろ、それで上手く行く』

「見た目が悪くなってるのは……」

『何時か言ったじゃろ、扱う器ありきだと。それが今のお前さんが扱える精一杯って事だ』

「もっとガツンと回復出来ないのが歯痒いね」

『腕ぶった切られて、失血多量で死に掛けた人間が一晩寝て立ってれば十分人外だよ』

「褒めてるかい、それ?」

『ワシはやっぱり凄いって、話しだよ』


 黒竜が眼で笑うと、城下町の陽の当たらぬ路地裏から、反射光が一つ上がり、続く様に無数の反射光が散らばる様に増えていく。

 光に気付いた四人が顔を上げた。


『ほう、準備出来たのか。思ったより順調だな』

「少し不思議に思うの……何で皆、今になって手伝ってくれる気になったのかしら?」


 眼を閉じて祈る様に風を動かし続けたサスキアが、紅い瞳を開けて誰に聞かせるでもなく呟く。

 ブレウスが一呼吸を置いて返答を示すより速く、黒竜がぶっきらぼうに零した。


『大方、今になって後悔するのが嫌になったんだろう。エルフやオークと違って、人間の生は長い様で短く呆気ない。心変わりはしょっちゅうだ。今日の希望が明日の絶望に変わり、昨日在った些細な事から希望を見出す』

「――だから、人間を好きになったんですか?」


 サスキアが澄んだ声で尋ねると、黒竜は不機嫌そうに鼻を鳴らす。


『昔あった恥かしい思い出を若い奴にに語るほど、|耄碌(もうろく)しとらんわい』




 ほとんどの国民が広場へと向かい、閑散とした静けさに包まれた市場で、頭部から顎にかけて白毛を蓄えた老人が息を上げながら、路(みち)をアーケオ産の青果が山と詰まれた人力車で埋めていく。


「ふい……七十過ぎの爺に力仕事は堪えるわい……ま、あの人の苦労に比べたらそうでもないわな」

「じいーちゃーん! 友達はみんな位置に着いたよー!」


 肩をほぐす為に回す老人の後ろから、老人の面影を残す子供が近づいて来る。

 悪戯を仕掛け終えた子供の笑みに老人が満足げに頷いた。


「よし、よし、偉いぞお前たち。後はアノーラさんに教えて貰った手筈通りな」

「うん! ねえねえ、父ちゃんを助けてくれた黒い騎士って、本当にお姫様を助けに来るのかな?」

「必ず来るさ、その為にワシらが動いてるんだからな」


 孫の頭に手を乗せて老人が広場の方角へと顔を向ける。

 そびえる絞首台を見ると、口元を吊り上げた。

 懐からアーケオから支給された防犯用の札を取り出す。


「あんなもの、姫様に必要無いわい」




 人気の無い路地裏の通りに、思いつめた様に手にした札を握り締める男性がいた。

 身の毛がよだつ地下牢からブレウス達によって運良く助け出され、勢い余って協力を申し出たはいいが、今になって恐怖が溢れる。


 ――本当に上手く行くのか?

 ――自分達まで巻き込まれたらどうする?

 ――最悪の場合、せっかく再会出来た妻子まで……。


 震える指先から目を閉じて、深く息を吐く。

 必死に逃げ出した地下水路で、我先にと逃げ出す瞬間、己と視線を重ねた時にシルヴィアは安堵の笑みを浮かべていた。

 ――地位も能力もないけどよ。


「自分達の為に、誰が頑張ってたのか知らないほど、恩知らずじゃない」


 ――そうだとも、頼まれたところで札を破るだけだ。

 手鏡を教会の鐘楼へ向けた。




「あ、皆さんの準備が終ったようですよ」


 ジュリアが魔法で視力を強化した瞳で、届いたばかりの鏡の反射を見る。

 鐘楼の登りはしごから、息を切らしながらアノーラが上がって来る。


「ふ、ふふ、舞台は整ったわ……これで、後は待つだけよ……」

『もう若くないんだから無理したらあかんぞ、アノーラ』

「アンタに言われたくないわよ! それに心が枯れない限り、人に老いなんて無いのよ!!」

『うわ、見苦しい』


 アノーラがブレウスの肩にのる黒竜を摘み上げ、無言でブラブラと振り回す。

 小さなトカゲが虚しく四肢をバタつかせる。


『ぬわあああ!? 三半規管に来るからヤメロォ!』

「仲がいいんだね、二人とも」

『爽やかに笑ってないで止めさせろ、ブレウス!!』

「姫様、城から出て来たよ!?」


 オルガの突然の言葉に一同が視線を城前の広場へと集中させる。

 アノーラは黒竜をブレウスの肩に戻すと、踵を返して梯子を下り始めた。


「じゃ、私は商人さんの所へ行くから。合図は任せたわよ、ジュリア」

「はい、任せて下さい」


 格子を下るごとに姿が消えて行くアノーラをジュリアが見送るが、ブレウスは自分の目に小さく映ったシルヴィアから視線を釘付けにされていた。

 囚人として絞首台へ連れて行かれるその姿に、内側から胸が張り裂けそうに成る衝動が全身を揺るがす。


 異形へと変り果てた右手が堅く拳を作ると、体を駆け巡る衝動を竜の魔力が感じ取ったのか、鎧の背に在るマントが脈打つ肉音と共に、巨大な蝙蝠の翼へと生え変わって行く。

 その翼は、鐘楼の影に溶ける程に黒い。


『落ち着け、ブレウス! 翼は一旦畳め!』

「ご、ごめん!」

「うう、竜の翼ってこんなに堅くて黒いのね……」


 サスキアが翼に押し潰されながらも、感想を洩らせば、落ち着きを取り戻したブレウスが徐々に翼を元のマントへと縮めていく。

 ブレウスは届かない手を、離れたシルヴィアへと伸ばすと、何時でも飛び出せる様に身を伏せて床に伏せる。


 救出への最終調整を整えるブレウスへ、黒竜が何時の間にか肩まで戻り顔を近づけた。


『凄い今更なんだがな……シルヴィアのどこに惚れた? 顔か、体か? それとも声か? まさか、性格とか言うなよ?』

「そんなの決まってるだろ、全部だよ、全部。シルヴィアの顔も体も、声も性格も、生き方も在り方もその全てが――僕にとっては堪らなく愛おしい。始めて会った時にはもう一目惚れでさ、その後は一緒にいる度に惚れ直して行っただけさ」


 照れも恥じも酔いも無く、ブレウスはシルヴィアの高祖父である黒竜に思いの丈を吐き出す。

 黒竜は眼を丸くして二、三回ほど瞬かせるとブレウスと同じ方向を向いた。


『はっ、50年経ってもその台詞が言えたら本物だな』

「今の僕とシルヴィアなら、あっと言う間さ」


 絞首台へ登らされていくシルヴィアから目を逸らさずに、一人と一匹が呼吸を合わせて決意を示す。


 オルガは札が巻かれた弓矢を、札が巻かれたままつがえた。

 このまま矢を放てば、札により居場所を明かす程の音が鳴るだろう。

 シルヴィアの首に荒縄が巻かれると、同時にジュリアがアノーラから貰った手鏡を、街の各所に上がる反射へと返す様に振り回す。


 返事に気付いた元から順に、反射の明かりが消えて行く。


 そして、アノーラの指示通りに所定の位置についていた行商人が、旅人が、町娘が、一児の父親が、老人が、その孫が、友人達が、酒場の常連が、広場で行われる行為に異を唱える為に手にした札を躊躇無く破り捨てる。

 ほぼ同時に街の至る所から、けたたましい鈴の騒音が波になって重複する。


 絞首台の床が開き始めた瞬間、オルガの躊躇わぬ一矢が放たれた。


 ブレウスが黒竜を伴い鐘楼の外へと飛び降りる。

 頭を地面に向けたまま急速に落下し、ブレウスの素顔が首下から伸びる影の兜に包まれる事と平行して、マントが翼へと変化していく。

 サスキアの呪文に導かれた風がブレウスと矢を絞首台へと一直線に導く。


 矢がブレウスを追い越し、城下を超えて広場の人々の頭上を裂き、絞首台の急速に落ちて行く荒縄を、見事に射抜き裂く。


 シルヴィアの身が石畳に向う最中、ブレウスは漸く城下街を越えて広場の上空へと辿りつく。

 ――とど、かせる!

 ブレウスの意識が翼に働き、巨大な翼は飛膜をか細い筋肉をきめ細かく動かし、行動を下げて速度を急速に上げていく。


 ブレウスは背中に鋭い痛みを伴う熱を感じるが、それを些事として、向う先へと強く手を伸ばす。


 自分達の頭上を横切る化生の存在に気づいた人々が悲鳴を上げるがそれを突破し押し進む。

 ――そうだ、これは僕の道だ。

 ブレウスの目に映るのは、瞳を閉じて自分を信じ続けているシルヴィアだけだ。


 ――届け。

 幼心に決めたのだ。

 ――届け。

 シルヴィアを護れるだけの騎士なろうと。

 ――届け。

 例えこの国が如何に欺瞞に満ちようと、如何に腐り爛れていようと、民の為に|王女(シルヴィア)は立ち続けていたのだ――だから。

 ――騎士(ぼく)が諦めてどうする!


『激突する積りで行け! ブレウス!!』

「届けえええエエェェ!!」


 シルヴィアの身が石畳の床へと激突するグラス一つと満たない僅かな空間にブレウスは両手を滑り込ませる。

 右手には確かに掴んだ温もりが篭った。


 ブレウスの脳裏で堰き止めていた想いが決壊する。


「お――おおおオオオ!!」


 全身で悲鳴を上げる体の筋肉をものともせずに、ブレウスは勢いをそのままに急上昇を果たし、絞首台の真下へと突っ込む。

 両手には確かに抱き止めたシルヴィアがいる。


 怒りの混じった激情は、ブレウスの体を嵐となって突き動かす。

 シルヴィアを庇いながら絞首台を、砲丸となったその身で打ち壊した。


 翼を広げ、ブレウスが凄む先には唖然とする貴族達に混じって、冷静に見詰めるユンナがいた。


 シルヴィアが閉じていた瞳を開け、固まっていた表情をゆっくりとほぐし、笑みと共に赤い瞳が涙を滲ませて流していく。


「――我は! 高潔なる姫君に心を魅入られし、熱き黒竜の騎士也! 故に、愛しき姫を攫い、地の果てへと連れて行く者也!!」


 ブレウスは自分が何者で、何をするか明瞭に宣言を果たした。


「シルヴィア、遅ればせながらお迎えに参りました」


 自分の鎧へと額を重ねるシルヴィアに、待たせ続けた言葉をようやく送る。


「貴方が来てくれて……とても嬉しいです」


 緊張を解すシルヴィアに見惚れると、薄ら寒い殺気を確かに感じ取り、城壁からユンナがブレウスへ向けて嘲笑を向けている。

 隣にいる筈のイーサンが何時の間にか、城壁に足をかけ跳ぶ体勢に入っていた。


『来るぞ、ブレウス!』

「シルヴィア、失礼を!」

「きゃっ」


 ブレウスは咄嗟にシルヴィアを右腕から左へ抱えなおすと、右腕を前へ突き出すが、イーサンは自分が宙(ちゅう)へ身を投げ出す事を躊躇わずに、剣を上段に構え既に跳んでいる。

 ブレウス目掛けて、自身の全体重を乗せた唐竹割りを足場の無い空中で仕掛けて来た。


『やっちまえ!』

「近――づくな!!」

「なんとっ!? ぐっ!」


 ブレウスの突き出された右手から、小規模な黒の魔法陣が浮かぶと、そこから火炎が噴出す。

 突然の炎にイーサンは体を萎縮させ、体勢を崩し地面へ落ちて行くが、剣を城壁の隙間目掛けて差込んだ。


 剣が用途外の負かに耐えられず、悲鳴を上げてイーサンを急降下させていき、高所の途中で折れるが、残った刀身をイーサンが再び容赦なく隙間に突き立て下っていく。


『ちっ、反応いいなアイツ』

「むしろ好機だ!」


 ブレウスが好機を逃さずに翼を大きくはためかせて、反対の方へ転進する。

 離脱しようとするブレウスに気付いた弓兵が矢を番えるが、放とうとした反応の良い一人が、不意に飛んで来た弓矢に手の甲を射抜かれる。


「痛っ!?」

「大丈夫か!?」

「俺の事はいい! あそこの屋根だ!」


 仲間の心配を他所に、手を射抜かれた兵士は飛んで来た矢の方向へ指差す。

 長髪の背中が民家の屋根から飛び降りて消えた。


「逃すか! 追うぞ、お前ら。イーサン隊長! 無事ですか!!」


 部下が落下したイーサンの安否確認をする為に覗き込む。

 城壁の下には折れた剣を手にしたまま、鎧の装飾を僅かに焦がしたイーサンが飛び去っていくブレウスを見詰める。


「私は大丈夫だ、君達は賓客と貴族達の避難誘導に当たれ! それで構いませんね、ユンナ殿!」


 自分達に追走を命じないイーサンの言を不思議に思いながらも、アーケオ兵はユンナの方へ視線を向ける。


 すると、ユンナは兵士に背を向けたまま右手を掲げ、自分達はどうするべきか、騒ぎの最中で狼狽えているヴェロキラの兵士へ指示を飛ばす。


「了解しました、蛮行を働いた者達はこちらで追い掛けましょう。警報の札が一斉に鳴りましたが、全ての位置を教えて下さい」

「こちらに」


 アーケオの兵士が魔法陣が裏に掘り込まれた羊皮紙の地図を広げると、国内の見取り図の上に音の鳴った箇所が青い点となって染み出している。


「大教会を含んで、ほぼ全域ですか……これは虱潰しにしないと行けませんね。総動員です、教会とあの化け物が降りた箇所を基点として捜索なさい」

「ハッ!」


 ユンナは自国の兵に指示を終えると、城下の中心へ降りていくブレウスとシルヴィアの影を見失う。

 ユンナの表情が僅かに動き、感情の動きを見せるが誰も彼も、本人でさえ気付かずに、消えてしまう。


 騒動で流れる場の中で、ユンナは城の奥へと消えて言った。




 城下街の中心へ降り立ったブレウスは、アノーラから指示された道筋で、表の通りと路地裏を駆け回る。

 両手に抱えているシルヴィの重さが心地良く、その足回りは軽やかだ。


 高い日陰によって濃い暗闇となった路地裏から飛び出すと、家の玄関で様子を伺っていた、恰幅の良い女性の民間人と出くわす。


「あっブレウス、人が――」

「大丈夫です、シルヴィア。彼らは逆の方向を兵士に伝えてくれます」

「え!?」


 ブレウスが継げた言葉に驚きを隠せずに、駿馬の如き速度で民家を通り抜けていく。

 去り際にシルヴィアが民間人の女性を見やると、女性は手を激しく振りながら何かを叫んでいるが、シルヴィアには聴き取る事が出来ない。

 遠く離れて小さくなっていく最中、必死で叫んだ相手の声が確かに聴こえた。


「姫様! お達者でー!!」


 シルヴィアはただ、耐えない感謝の念を示す為に頭を下げる事しか出来なかった。


『いっその事、反対勢力募って革命起こすか?』


 気楽そうに語る黒竜の言葉に、シルヴィアは首を横に振る。


「――いいえ、そうする訳には参りません、ご先祖様。私がここに残れば、アーケオとの火種になってしまいますから……」

『……お前さんがそれでいいなら、構わんよ。と、ところで、呼ぶならご先祖様じゃなくて……わ、ワシ高祖父じゃから、何だったら、お爺ちゃん、とかでもいいんじゃよ?』

「解ったよ、義祖父ちゃん」

『お前に言うとらんわい!』


 呼ばれたかった名前をブレウスに先回りされて黒竜が青筋を立てて怒るが、ブレウスは気にせず表通りを突っ走り、国の玄関口である、正門へ辿り着く。


 門は閉じたままだが、ブレウスはシルヴィアを片手に抱いたまま、門の壁をよじ登り上に到達しシルヴィアを放す。


 すると、足元に気色の悪い笑みを浮かべて熟睡している見張りを転がしたまま、待機していたアノーラがシルヴィアへ跳び付いた。


 突然の事で赤い瞳を驚きで白黒させるシルヴィアを他所に、アノーラは上機嫌で抱擁する。


「ようやく会えたわね、シルヴィア……お婆ちゃんにそっくり」

「え、えと、どちら様でしょうか?」

「ふふ、貴方のご先祖様の友人よ。……直ぐに助けに来て上げられなくて、御免ね」


 アノーラが不意にシルヴィアへ謝罪をする。シルヴィア本人を通して、かつての友人にも伝えたい言葉であったが、今はシルヴィア本人にしか伝えられないのが歯痒い。

 シルヴィは抱き締められながらも、アノーラの強く抱きとめてくる色白の細い手を握り締める。


「大丈夫です。私は今、こうして此処に居ますよ、アノーラさん」


 シルヴィアの微笑が正午の陽を受けて眩さを増す。

 懐かしむアノーラの頬には、涙が伝った。


「本当に、そっくりな綺麗な笑顔――と、ジッとしている状況じゃないわね」


 アノーラは余韻に浸る間も無く、自分の腕で涙を拭い去ると、手をそのまま勢い良く頭上に掲げた。

 掲げて手の先からは、閃光と高音が爆ぜる。


 音を合図に、正門の外側で待機していた行商人の馬車が脇目も振らずに走り出した。


『上手く誘導出来るのか?』

「ちゃーんと、例の札は貼ってもらってるわ。途中まで頑張って囮になって貰いましょう」

「あの行商人の方、大丈夫でしょうか……? もし捕まってしまったら……」

『あの手の人種は良くも悪くも逃げ道を常に複数持ってるもんじゃよ』

「まあ、逃げるのに役立つ物を幾つか渡したから、きっと大丈夫よ。変な欲が働かなければね」

「だといいのですが……」

「さあ、行きましょう」


 アノーラが手を引いてシルヴィアを連れて行こうとするが、シルヴィアは自分の騎士であるブレウスが動かずに、丸で見送る様に立ったままである事に気付く。


「どうしたのですか、ブレウス……?」


 ブレウスの肩に乗った黒竜は何も告げずに、ブレウスの方を見やる。黒騎士の兜が部分的に解除され、そこには少し困った様に笑うブレウスがいた。


 その笑顔の意味をシルヴィアは知っている。黒竜を独りで討ちに行く時も、ブレウスはこう笑っていたのだ。


「申し訳ありません、シルヴィア。黒竜と約束したので」

『いいのか?』

「悲しい事は、ちゃんと終らせないと。それにあの剣の中には、まだいるんだろ?」

『……ああ、冷たい所から出してやりたい』

「なら、行かないとね」


 揺るがない視線で城を見据えるブレウスの視界が、不意に下へ引っ張られて、温もりのある柔らかな闇で遮られる。

 気付けば、何時の間にかシルヴィアがブレウスを抱き寄せていた。


「解っていても、見送るのは堪え難いです」

「ごめんなさいシルヴィア。何度も辛い思いをさせてしまって」

「いいえ、ブレウス、私からもお願いします。どうか、呪装に縛られている方達を、解放してあげて下さい――でも今の傷だらけの貴方を行かせてしまうのは――」


 そう言ってシルヴィアが亀裂の入った黒騎士の鎧を見やる。

 すると、黒竜が少しもったいぶった素振りでブレウスとシルヴィアの間に割り込んだ。


『ちとシルヴィアには痛い思いをして貰うが、大丈夫か?』

「私に出来る事でしたら、喜んで」


 躊躇いのないシルヴィアの言葉に、黒竜が頷く。


『ブレウス、シルヴィアから少し血を分けて貰え』

「え、でも……」

『男なら、こう言う時はちゃんと貰え!』

「――では失礼を」

「は、はい……優しくして頂けると、嬉しいです」

「善処します」


 そう言ってブレウスはシルヴィアへ|跪(ひざまず)いて、彼女の右手を自身の異形と成った右腕で取る。

 恐る恐る、ブレウスは慎重にシルヴィアの右手内を鋭い爪で浅く咲く様に傷つける。



 痛みを堪えるシルヴィアの零れる声を聴いて、急いで口を付けて滲む鮮血を吸う。

 ブレウスは温かく滑らかな鉄の味を舌に感じながら、自身の喉を通って行くシルヴィアの血液が我が肉体の力へと混じり、潤って行く様を確かに感じ取る。


「はっう」


 力が抜けていくシルヴィアの息とは逆に、ブレウスは体の芯が熱を帯びて外へと広がっていく感覚に飲まれる。

 その衝動は黒騎士の鎧にも顕著になって、亀裂が塞がれていき、当初の姿を取り戻し更に変化していく。


 黒騎士の鎧には、血管の様に銀色の筋が浮き上がり、鎧の上で紋様を描いていく。

 ブレウスが口を離すと、シルヴィアが膝の力が抜け崩れ、何時かの様に慌ててブレウスは抱き止めた。


「シルヴィア、大丈夫ですか?」

「はい、その、何だか体が熱くなってボーっとしてしまって……」

『アノーラ、悪いが後は頼むぞ』

「もちろん引き受けたわ」


 アノーラがブレウスからシルヴィアを引き受けると、ブレウスは一度集中する様に目を閉じた。

 首下の鎧から急速に影が巻きつき、鎧同様に漆黒の上から銀の紋様を描いたものへと変貌している。


「それでは、行って来ます」

「お早い帰りをお待ちしています」


 シルヴィアの言葉にブレウスが頷くと、黒竜を伴いながら正門を飛び降りると、一瞬の間に黒い影となって飛び去り城の方へと向って行く。

 自身の手から血を流したまま、シルヴィアは両手で祈りを捧げた。

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