邪竜の騎士は高らかに愛を謳う ①

 黄昏の空が夜闇を引き連れてくる頃、侵入者の追走をしていたユンナの部下達は収穫を得る事が出来ずに、無駄な徒労を色濃く映した憮然とした足取りで城下町をうろついていた。

 引き上げようとする市場の帰り道には人々の談笑に混じって胃の空腹を刺激する香辛料の匂いが立ち込める。


「くそっ、俺達が働いてるって時に……」

「もう引き上げましょう、隊長殿。これだけ時間をかけて探したのです。ユンナ様のご命令以上には働いたかと」

「だな……せっかくだから、飲んで帰るか?」

「いいのですか?」

「元々成果を期待されてない雑用だ、少しくらい休んでから戻っても目くじらは立てられないだろうさ」

「……なら、明日は起きれない程に酒を飲んでも好いですか?」

「――駄目だ」

「お厳しいですね、隊長」

「現実ほどじゃないさ」


 無力な自分達への諦観と嘲笑を含んだ笑みを交えたまま、隊長が部下を連れて最近評判の店へと連れて行く。

「愛の宿屋&オークの肉欲工房」と描かれた妙に痛々しく派手な外装だが、肉料理の質と酒の種類は好評らしい。


 ――飲まなきゃやってられねえよ、こんな仕事。


 浮かんだ言葉に誘われるままに店内へ続く扉へ手を掛けた。

 開けた扉の先からは酒気を帯びた肉の臭いが熱を伴う空気となって鼻腔をくすぐり、喧騒が広がっていた。


「おおし! じゃんじゃん、持ってこいーー! 今日はワシの奢りじゃーい!!」

「カッコいいぜ大将、見事な太っ腹あっ!! 将来こうはなりたくねえ!」

「本当に男前よ、お腹もこんなに出てご立派ね! あと三十年持つかしら?」

「あれー? ワシ、もしかしなくても直接的に貶されてるー?」

「……なんだ、この馬鹿騒ぎは?」


 素面で混じり込むのが躊躇われる店内の様子に、隊長は戸惑う。

 見れば店内は成金の行商人らしき男を中心とした宴会が繰り広げられており、その周囲を外野が持ち上げるように見せかけて割りと手厳しい言葉を勢い任せに浴びせている。そう言う性癖なのだろうか。


 店の玄関口で立ち尽くす集団に気付いたアノーラが、混じっていた騒ぎから離れ、ビールの注がれたままのグラスを片手に対応する。


「はーい、お客さん! あら、その制服ってもしかして兵隊さん?」

「仕事上がりに一杯飲みに来たんだが……入れるのか、俺達?」

「……入りたい?」


 アノーラが酔いを含んだ瞳で玄関の壁に持たれかかる。

 臆面も無く魅せる体のしなりと首元から覗ける、酒気を孕んだ肌の色に隊長が目を惹かれかかるが、後ろから刺さる部下の視線に自制心を取り戻す。

 アノーラが悪戯な笑みを浮かべ、自分がからかわれた事に隊長は気付いた。


「止めて置こう」

「そう? 残念ね」


 言葉とは裏腹にアノーラは満面の笑みを作る。

 その笑みもどこか蠱惑的で、魔女、と言う単語が隊長の脳裏に浮かぶ。


「勘弁してくれ、こっちは耐性無いんだ」

「ごめんなさいね、今日は向かいの店の方をお勧めするわ。新鮮な鶏肉と白ワインが入荷したばかりの筈だから」

「それじゃ、そっちに当たるとしよう。行くぞ、お前ら」


 一杯食わされた隊長をアノーラは機嫌よく手を振り見送ると、表情を崩さずに扉を再び閉める。

 騒いでいた筈の客達が、何時の間にかアノーラの様子を見守っていた。


「うん、大丈夫よ、みんな。協力してくれて有難うね」

「いいって事よ! おっしゃあ、飲みなおすぜえ! 今日はこの太っ腹なオッサンの奢りだー!」

「ハハハ、店で狼藉働いた勉強料は高かったな、オッサン!」 

「お前ら酒と飯奢ってやってるんだからもうちょっと褒めんかい!!」

「本当に、有難うね」


 片目を閉じながら微笑を向けるアノーラに行商人の顔が、アルコールを超えて更に赤くなる。

 店の床に横転する行商人を横目に、アノーラは宿屋となっている二階の雑魚寝部屋へと急ぐ。


 背に聴こえる馬鹿騒ぎとは毛色の違う、逼迫したやりとりが耳に届き、アノーラは足を速めた。


「ガーボンさんの手当ては済みました! 私もブレウスさんの方に回ります」

「ありがとう、ジュリアちゃん。それじゃあ、この薬草を磨り潰したら、この布に塗ってブレウス君の額に貼って上げてくれる?」


 下水の泥に汚れた人々が見守る中、雑魚寝用のベットの上には、右腕を失くし気を失ったままのブレウスが横たわっている。

 失くした腕の先を保護する様に、黒い泥が右肘を根元まで覆っていた。

 腕を切断された事とその事による出血でブレウスは完全に気を失っており、顔は眼を閉じたまま蒼ざめている。


 最初はサスキアが懸命にブレウスへ魔法による治療を試みていたが、回復魔法では外傷を癒す事は出来ても、失われた血液や弱り切った体を回復させる術は無い。

 切断された腕も、現在は黒竜による保護がそのままで、下手に手を出すことが出来ないでいた。

 結果として、持ち前の薬草を使用した、対症療法と本人の回復力に任せるしかなかった。


「容態はどう?」


 挨拶を抜きにして率直に尋ねるアノーラに、サスキアは額の汗を払いながらも答える。


「出血は塞がってますけど、肉体の衰弱が酷いです……熱も高いままで、このままだと……」

「そんな……どうにか出来ないの!?」

「ごめんなさい、私にはこれ以上の事は……」

「オルガさん、落ち着いて」


 苦渋に言いよどむサスキアの診断に、オルガは体を戦慄くままに詰め寄る。

 その様子を案じたジュリアが落ち着かせようとオルガの肩に手を乗せると、荒く上下する背の呼吸に痛々しさを感じずにはいられなかった。


 部屋の四隅で壁に背を預け、眠る様に沈黙を保ったままだったジュデッカが目を覚まさない弟に向って値踏みする様に観察を続ける。

 壁から背を離すと、腰に下げた短刀に手を掛けた。それをアノーラが上から手を重ねるように抑え、疑問の視線を投げ掛けるジュデッカをアノーラは横顔を振って応える。

 アノーラが室内の不穏を打ち消す様に声を投げ掛けた。


「大丈夫、私にとっておきの方法があるわ」


 事態の打開を宣言すると、アノーラは人の耳には聞き取れない言葉を囁き始めると、ブレウスが寝ているベットへと向っていく。

 囁きの意味がサスキアとジュリアには理解出来たのか、二人の赤い瞳がアノーラを見つめ驚きに揺れる。


 アノーラが眠るブレウスに両手の平を差し出すと、蛍色に光る魔法陣が揺らめく影となって現れ、静に勢いを付けて回転を加速させていく。

 アノーラの肌に汗が浮きだす。


「アノーラさん! その呪文って、自分の生命力を他者に譲渡するものですよね!? 危険ですよ!」

「大丈夫よ、こう見えて魔法の扱いには一家言あるんだから……ちょっと、長生きし過ぎちゃったから、どれくらい譲渡出来るか解らないけどね」


 下の厨房で余り物の食材で作ったスープを鍋毎持ち込んで来た料理人のオークが室内の様子に目を丸くし、料理鍋をオルガに押し付けアノーラへ近づく。


「何をする積りなんだ、アノーラ?」


 くぐもった野太い声は状況に戸惑いながらも暖かみを含んだ声で目の前のアノーラへ手を伸ばす。

 アノーラが蛍色の光を逆光で浴びながら意志の固い瞳で振り向き笑う。


「ちょっとね、永い間諦めてた事を代わりに成し遂げてくれそうな子がいるから、手助けして上げたいの」

「……様子を見ると、お前にとって余り善い方法には思えない」

「大丈夫よ、レオンハルト。貴方の栄養と愛情タップリの料理を毎日食べてるんだもの…………ねえ、私がよぼよぼのお婆ちゃんになっても抱き締めてくれる?」

「お前は俺の妻だ、当たり前だろ」


 臆面も無く言い切るレオンハルトにアノーラは安堵の表情を浮かべる。緑の巨漢がアノーラに付き添う様に彼女の肩を後ろから抱く。

 ――私の旦那がこの人で好かったな。

 アノーラが最後の言霊を紡ごうとする。


 目の前で眠り続けていた隻腕の若者が何の予兆も無く身を起した。


「人の腕をいきなり食う奴があるかあぁぁ!?」


 周囲が驚嘆の息や悲鳴を上げて、飛び起きた若者――ブレウスへ視線を注ぐ。

 ブレウスは状況を飲み込めずに額に浮き出た汗を左手で拭い、周囲の様子に気付く。


「えーと……アノーラさん達がいると言う事は、ここはお二人のお店でいいのでしょうか?」


 生気の薄い青い顔で尋ねるブレウスにアノーラが驚きに顔を固めたまま頷き、途切れた集中力によって手の魔法陣が行使される事なく消滅していく。

 レオンハルトが咳払いを吐くと何事も無かった様にアノーラから距離を取った。


「ブレウス、取り合えず意識が戻って何よりだわ。黒竜の方はどうなってるの?」

「ああ、黒竜なら多分――」

「ブレウスウゥゥゥ!」


 アノーラとの会話に割り込む勢いで意識を取り戻したブレウスにオルガが突撃して抱き着く。

 ぐはっ、とブレウスが成す術も無く栗色の毛に頬ずりを喰らい、何故かジュリアが羨ましそうに様子を眺める。


「オ、オルガ……心配かけたけど、一回離れて……」

「うおおおぉぉん! 本当に起きてくれてよかったよおおぉ!!」


 ――あ、駄目だ聴いちゃいない。


 感涙極まる獣人の友人から熱い抱擁をくらい続けたブレウスの表情が不意に歪んだ。

 オルガは異変をさっして慌てて離れる。


「ブレウス!? ごめんよ、もしかして傷に触ったかい?」

「いや、違うんだ……右腕の先が熱くなって……オルガ! 離なれて!」


 ブレウスが黒い泥の膜に覆われた右肘を突き出す。

 先端の膜が泡立ち、先へ伸びるように増殖を始めた。

 異様な光景に人々が視線を釘付けにする中、アノーラとサスキアが冷静に事態の様子を見守る。

 ――黒竜、一体何をする積りなの?


 ブレウスの体中に激しい熱が意識を焼き焦がす嵐となって奔り、激痛の声を上げる。

 絶え間なく神経を針で刺される痛みに、生物として抗う術は何処にも無い。

 右目の裏に至っては、くり貫かれ弄り回される様な感覚が執拗に付き纏う。


 ブレウスの様子を省みない泡の増殖はますます勢いを強め、失われた肘から先を黒に染め上げ再生させていく。

 泡の再生が終る頃、再生された腕は人体の一部としては、余りに異質であった。


 光沢を帯びた黒燐が、失われた肌の代わりに覆われ、手と指先は左手と比べ不釣合いな程に大きく、鋼の硬質さを連想させる鋭く凶暴な狗爪が生え揃っている。

 生物と非生物の狭間にある様な造形は人には畏怖を抱かせ、精霊の血を濃く引く者には畏敬を感じさせる。


 腕の再生を終えて息を切らすブレウスは、右目の裏に感じていた痛みが急速に引いて行くのを理解すると、閉じていた目を開ける。

 異変に気付いたオルガは、ブレウスの右目を指差した。


「ブレウス……目が、ジュリアやサスキアさん達と同じ様に赤くなってるよ」

「なんだって……? 黒竜、説明してくれよ! 何をしたんだい!? ――おい、黒竜!?」


 返事が思う様に返ってこない事にブレウス達が慌て始める頃、ブレウスのボロボロになった服の襟から、小さなトカゲが体を震わせながら這い出てくる。


『つ、疲れた……老体には応えるわい』

「黒竜、無事かい!?」

『煩い声を出すな……お前の声はよく響いて困る……あー、ツラ。眼がぐるぐるして体の平衡感覚が可笑しくなっとる』


 アノーラが疲労でばてている黒竜を摘み上げ、自分の手に乗せた。


「黒竜、貴方一体何をしたの? ……何故か解らないけど、魔力もほとんど空っぽじゃない、これじゃ森の下級精霊さんと大差無いわ」

『ワシの魔力をブレウスに譲渡したんだよ、呪いに拮抗出来る位にな。無茶かとも思ったが、ブレウスを助けるにはそれしか無くてな。まあ、上手く行ったから良しとしよう』

「譲渡したって……貴方、もう二度と竜に戻らない積り?」

『理想の隠居場所を見つけたのさ、羨ましいか? 魔女よ』


 疲れたままでも自分が成し遂げた事を誇らしげに語る黒竜にアノーラは呆れながらも笑みを作る。


「私はまだまだ、生涯現役よ」




 ブレウスがアノーラから貰った、滋養強壮効果の強い水薬を飲み干すのに悪戦苦闘を繰り広げている中で、ジュデッカは事態の確認を行う。


「成る程な……呪装か。よくも永年の間、隠し通せていたものだ」


 ジュデッカは気付けなかった自分への苛立ちを、指の爪を噛んで示す。

 ブレウスは相変わらずしかめっ面で水薬をちびちびと飲んでいる。


『一気に飲まんかい、お前が飲まないとワシも元気にならん』

「いや、臭いがキツイ上に喉に纏わりつくほど粘土の高い苦さが辛くて……」


 ジュリアが不穏気に瞳を揺らしたまま、疑問を口にする。


「アーケオはこの事を黙認しているのでしょうか? あそこの国の教義とは反する事だとは思うのですが……」

「……解らん。そして、私がここに来る途中で聴いた事が確かなら、解らない事に悩む時間も既に無いのだろう。あと愚弟、サッサと飲め」

「なっ姉さっ――うぁっ!?」


 何時までも覚悟を決めない弟に堪えかねたジュデッカが背後からブレウスの左手を固定し無理矢理喉に通させる。

 水薬の味に悶えるブレウスを、姉がしっかりと飲み干すように頭部を固定する。


 ブレウスが黒竜とオルガの気の毒な視線を浴びて飲み干すと、力なくベットの上に大の字で倒れ込んだ。

 ジュデッカが呆れ顔のまま腕を組む。


「で、どうやってシルヴィア様を救う積りだ? 明日の処刑に突撃するなら付き合うぞ」

「……そうか、シルヴィアの処刑が早まったんだね……」


 ブレウスが身を起し、両手をぶつける勢いで異形となった右手の平を左拳で叩く。

 快音が一つ鳴ると、ブレウスが真っ直ぐに顔を上げた。


「なら行くよ、行くに決まってるさ」

『策も無しに突っ込む積りか?』

「ここまで来たら、策も何もないさ」


 明るく特攻を宣言するブレウスへオルガが一歩だけ前に詰める。


「どうしても、やる積りなのかい?」

「ああ、その為にここまで来たからね。シルヴィアの為にも、僕の為にも行かないと」

「なら、俺も手伝うぞ! ジュデッカさんと二人だけでやるよりも、お姫様を助けられる筈だし」

「オルガ……」

「俺も最後まで付き合うよ、ブレウス」


 ブレウスの右手を握るオルガを見て、サスキアが部屋の椅子に腰掛けているガーボンと視線を交える。

 首に包帯を巻いたガーボンが頷き、サスキアは微笑む。


「なら、私も最後まで手伝うわ。 ガーボンと再開させてくれた上に、私達の命の恩人だもの、協力は惜しまないわ」

「あ、えと、えと、私も手伝いますよ! 何だか良く解りませんけど、何やら恋する乙女のピンチな様なので、同志としては助力しないと!」


 手を上げてジュリアが参戦を表明する。

 オルガは案じるように首を傾げた。


「大丈夫? もしかしなくても、失敗したら命に関わるよ」

「勿論です、恋する乙女は何時でも命懸けですからね! それに、魔法で人騙すのは得意です!!」


 何故か誇らしげに手でV字を作る。

 白い歯を見せる得意気に笑顔が清々しすぎてオルガも呆気に取られる。


「少し、いいかしら?」


 アノーラが思わせ振りな笑みを作ると、ブレウスの肩で休んでいる黒竜に視線を投げる。

 気付いた黒竜が怪訝に身構えた。


『お前がそう言う時は、大概は悪巧みだったな』

「まあね、でも重要なのは――」


 アノーラがそう言って動かした視線の先には、一緒に地下牢から連れ出された者達がレオンハルトに温かいスープを振舞われていた。

 その中の一人である青年が、飲み干したスープの皿を掲げる。


「俺も手伝います! 状況は解らないし、知るのもおっかないので聞きませんけど、俺達の為に体を張ってくれた人の姿はハッキリと覚えてます」


 その言葉に続いて他の者達も、控え目に飲み干した皿を掲げて行く。行商人らしき人物が最後まで悩む様に両腕を組み、恐る恐る尋ねる。


「……危険性が低い事でなら、手伝います」


 アノーラが満足な顔を浮かべて頷く。


「ええ、大丈夫よ。みんなでちょっとした悪戯をやって貰うだけだから、ね!」


 振り返るアノーラの笑顔に、ブレウスと黒竜が寒気と共に震えた。




 処刑当日、地下牢から城門前の広場へと連れ出されたシルヴィアを高く昇った陽と快晴が照り付けた。

 黒染みが浮く麻の罪人服のシルヴィアを、アーケオとヴェロキラの兵が厳かに護衛し、目と鼻の先にある広場中央の絞首台へと連行する。


 絞首台の周囲に集った国民達が、複雑な表情を浮かべたままに城から出て来たシルヴィアを痛ましく見送る。


 木製の絞首台は、自分が何であるかを誇示するほどに高くそびえ、中央にぶら下がった質素な荒縄が揺れる事も無くただ、垂れ下がっている。


 シルヴィアが背を向ける城壁の上には、警備の弓兵と混じってユンナとイーサンが|恙無(つつがな)く処刑を終えられる様に目を光らせていた。


 二人の背後には、アーケオの来客が厳かに事の様子を伺い、ヴェロキラの貴族が退屈そうに欠伸を上げ、アーケオの来客が気付き蔑む。


 絞首台への階段まで案内されたシルヴィアを、左右のヴェロキラ兵が堅く敬礼を取る。

 シルヴィアが、自分を送り出そうとする兵達が顎を強く引き締めているのに気付くと、ささやかに会釈をした。


 シルヴィアが絞首台への階段へ一歩を踏むと堪えかねた民が、ああ、と悲嘆に暮れた声を洩らす。


 構わずにシルヴィは一歩、さらにもう一歩と、確かな足取りで湿気を含んだ木製の階段を上り詰めていく。

 ついに登りきった先には、横に控えたアーケオの兵と中央に垂れ下がった荒縄が出迎える。

 首に縄を通し、下の床が仕掛けで抜ければシルヴィア程の小柄な女性でも自重で首の骨が折れるだろう。


 アーケオの兵が他人事の様に、シルヴィアの首に荒縄を巻いて行く。

 首に感じる刺々しく乾燥した縄の感覚を他所に、アーケオから遣わされた司祭がシルヴィアの罪状を読み上げ、自分達がこれから行う事の正当性と大儀を述べていく。


 一つの国が、終節を迎えようとしていた。


 絞首台の仕掛け床の上に立たされ、シルヴィアは赤い瞳を閉じる。

 閉じた瞳の闇からは自分の頬と髪を靡かせる風の感触が過ぎり、月下の夜で幼い少年と邂逅した日の思い出が浮かぶ。

 とても可愛らしく、無邪気で一生懸命に、何時も自分を照らして勇気付けたくれた笑顔がそこに在った。


 ――ああ、そうか。あの時から一目惚れしていたのですね。


 微笑を浮かべるシルヴィアの床が抜ける。

 シルヴィアの体が自然の理に従い、落下していく。

 弛んでいた絞首台の荒縄が決められた距離へ向けて、急速に引き締まっていく。

 けたたましい鈴の音が、街中に響き渡った。


 悲鳴が無数に上がる烏合の中、教会の鐘から陽の輝きを帯びた一矢が吸い込まれるように、絞首台の真下へと落ちて行く荒縄を射抜く。


 シルヴィアの体が、固定される位置を過ぎて巨大な爪痕が残る石畳へと落下していく。


 一瞬、何が上空を横切ったか民衆が理解出来ぬ束の間を、矢を追って飛び出した大きな黒い翼が、陽を飲み込む影となって駆け抜ける。

 影を見てしまった人々が足元から怖気を走らせて萎縮する。


 ――あの翼は。

 ――あの恐ろしい化生は。

 ――攫いに来た。


 暴風となった黒い翼は、石畳の砂礫を吹き飛ばしながら、地面の代わりにシルヴィアを飲み込むと真上へ急上昇を行う。


 アーケオの兵が転げ落ちる勢いで階段を下り始めると、絞首台が黒き暴風によって木っ端微塵の木片へと変えられていく。


 黒き暴風が飛散する木片を吹き飛ばす様に大きく翼を広げる。


 巨大な蝙蝠の翼を背に生やした長躯の黒騎士が、その黒き鎧に|罅(ひび)が走りながらも、化生の右腕でシルヴィアを決して離さぬ様に抱き締めていた。


 自分の身に何が起きたのか、理解出来たシルヴィアが固まっていた口元をゆっくりと綻ばせて行くと、瞳が併せて涙を溜めて流れて行く。


 異形の黒騎士はその場にいる者達全てに宣言する。


「――我は! 高潔なる姫君に心を魅入られし、熱き黒竜の騎士也! 故に、愛しき姫を攫い、地の果てへと連れて行く者也!!」


 邪竜の騎士は高らかに愛を謳う。


 その声は、シルヴィアが約束を交わした相手そのものだった。

 シルヴィアが両手を黒騎士の首へと回し、|罅(ひび)の入った甲冑へと額を預ける。


「シルヴィア、遅ればせながらお迎えに参りました」


 誰にも見えぬ黒兜の下で、ブレウスが笑った。

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