変えられるもの変えられぬもの

 ブレウス達はシルヴィア、サスキア、そして他にも牢に囚われていた人々を伴い、迷宮の道を水路に続く出口目指して逆走していた。


 人気の多さか、それとも戦う能力の無い者達の存在を敏感に感じ取ったのか、ブレウス達が通った時には逃げ隠れていた亡者達が闇から溢れ返し押し迫る。


「ああぁぁぁアア!」

「ひいぃぃ!?」


 殿を務めるブレウスの前を走る男性へと、亡者は歯肉が腐った口の歯を剥き出しに掴み掛かる。


「伏せて!」


 ブレウスが振り向き様に一発の裏拳を亡者の鼻っ面へと叩き込む。

 人の顔の形をした腐肉が柘榴(ざくろ)になって弾け、通路の石畳に跳んだ。


「たたた、助かりました!」

「何があっても僕達の近くに居て下さい。大丈夫、必ず陽の元まで戻します」

「――お願いします!」

『逃げ足速いのお』


 男が頭を下げて、一足先に駆け出す。

 入れ替わるようにシルヴィアが慌てた肩のリズムでブレウスの元へと戻って来た。


「ブレウス、大丈夫ですか!?」

「僕は亡者にはやられませんよ、さあ急ぎましょう! ――失礼を」

「あっ」


 気がつけば先陣を切るガーボン達から幾らか距離が離れてしまっていた。

 見失う前にブレウスはシルヴィアを大切に横抱きで抱え込むと、長い両足を僅かに屈め一気に跳ねる。

 離れて行く松明の灯りを目指して、黒騎士が姫を抱えたまま通路を跳ね駆け亡者達を振り切って行く。


 シルヴィアは体験した事の無い速度に紅い瞳を瞠り、速さの余りに瞳を閉じた。


 目標の灯りへ近づくと、二人が離れている事に気付いたオルガが、先程の広間から何時の間にか拝借した松明を掲げ待ち侘びていた。


「こっちだ、二人とも!」

「待っててくれて有難うございます、オルガさん」


 ブレウスに抱え込まれたままのシルヴィアが丁寧に頭を下げると、オルガは人懐っこい笑みを浮かべる。


「えへへぇ、村に帰ったら皆に自慢出来ます」

『あんまり鼻の下伸ばしてると、後で夢魔の娘に告げ口するからな?』

「えう? なんで?」

『あー……お前は、そう言う性質か。夢魔の娘は苦労するのう』


 黒竜の溜め息の意図が解らずに、オルガは正面を向いて走る姿勢を保ったまま、不思議そうに頭を傾げる。

 ブレウス達は干からびた道化師の遺体が転がったままの丁字路の角を曲がると、オルガとガーボンが地下牢へ侵入した通路には、先を行く筈のガーボン達が立ち止まっていた。


 薄暗い筈の通路は、水路へと続く格子扉の前から闇を朱に染め上げるランプの灯りに照らされている。

 そしてブレウスは、ガーボン達が立ち止まっていた理由を知った。


「やはり生きていましたか、いや流石ですね。愛の力、と言うのも馬鹿には出来ないようだ」


 高雅でいて、嘲る事を隠そうともしない口跡が来たばかりのブレウスに投げ掛けられる。

 暗闇の中で血塗れとなって燃えている様な赤と金の礼服が端整な顔立ちを工芸品として更に際立たせていた。


 待ち侘びていた獲物が自分の罠に入り込んだ事に歓喜する、捕食者の笑みが、ブレウスへと視線を定めている。


「ユンナっ……!」


 ヴェロキラ貴族の中枢を担いこの国の実権を事実上握っている男、ユンナが、礼服の腰に不釣合いな剣を携え待ち構えていた。

 先頭で相対しているガーボンが目の前に立ち塞がる細身のユンナに不吉の影を感じ、思わず身を一歩を引く。

 ガーボンの背後に控えていたサスキアが、堪えられずユンナから瞳を背ける。手が震えていた。


 萎縮するガーボンを半ば強引に押し退け、ブレウスは代わる様に前へ出る。

 黒竜が鎧の影から這い出し、ユンナへと強い敵意を向ける。


 その場に居る全員が、ユンナへと恐怖と怒り、憎悪を向けている。

 ユンナは自分に向けられる負の感情を心の底から楽しんでいる事を、唇の端を釣り上げて表した。


「思ったより速かったですね、それ程彼女に会いたかったのですか? 酒倉の火事が無ければ気付きませんでしたよ」


 ユンナが嬉々としてブレウスへと一歩を踏み、腰に携えた剣の柄を握る。

 ブレウスが腰に下げていた剣と同じ鞘だった。


 応じて拳を握り構えるブレウスへ後方にいたシルヴィアが近づこうとするが、ブレウス自身が背後へと手をやり、シルヴィアへこれ以上近づかない様に静止させる。


 言いたげなシルヴィアをオルガが慌てて下がらせた。


『気を付けろ。あの剣、お前が使ってた物と同じ性能があると見ていいだろう。もしかしたらそれ以上かも知れんが』

「気をつけてどうにか出来ればいいんだけどね……」


 ユンナが柄を握り込んで鞘に収めたままの剣を、黒竜が忌々しい眼で見据える。視線を逸らさぬまま、声の調子を下げてガーボンへ囁く。


『オーク、お前まだ叫べるか? 隙を作ってトンズラしたい』

「あ、ああ、勿論出来るが、他の人間はどうする? 俺は二人までしか抱え込めんぞ」


 ガーボンの背に隠れていたサスキアが提案をする為に手を控え目に上げた。


「……あの、強化の術式の応用を使った防音なら、今の私でもなんとかなると思い、ます」


 戸惑いながらも畏まった態度で自分に接するサスキアの様子に、黒竜はユンナに向けていた視線を戻す。


『お前さん、エルフの血が流れているだけあってワシの事をちゃんと解ってるようじゃのう』

「あはは……やっぱり、上位の精霊なんですね……見た目と魔力の質が反比例過ぎて……」

『ブレウスが仕掛ける。オークよ、道化師共とやりあった時の呼吸で頼むぞ』


 行動の段取りを終えると身構えていたブレウスが更に腰と足を屈め、引き絞られた矢の様に構える。

 ユンナが持っていたランプを通路の隅に置き、退屈した調子で芝居がかった仕草で両手を広げた。


「――密談はもう結構ですか? 大丈夫ですよ、皆さんにはそれぞれ使い道がちゃんとありますから」

「ふざけるなよ、ユンナ! お前は、何で……何であんな酷い事を平気で出来る!! まさに外道の所業じゃないか!?」


 不気味な余裕で嗤うユンナに、ブレウスは地下牢で見て来た惨劇の怒りを全て吐き出してぶつける。

 ユンナは更に笑窪を深くした。


「何故って……呪装を作る事が私の利益になるからですよ? それに……ふふふ、外道、ですか?」


 堪えきれずユンナがどこまでも愉快そうに嗤い声を上げる。

 地下に響き渡る心底愉快そうな声、反響が闇の奥底まで反響し、慟哭となって木霊する。


 ブレウスは唖然としながらも、ユンナの胸中に渦巻くドス黒い何かを感じ取る。


 腹を抱えて嗤っていたユンナが咳払いをする。


「いや、失礼しました、あんまりにも可愛らしい事を言うもので。なら、一つ聴き返しましょう、ブレウス。私のして来た事が外道であるなら、正しい道とは、そもそも人道とは何なのですか?」

「――何だと?」

「人道とは何なのか、ですよ。誰かを愛する事ですか? 社会の中で真っ当に生きる事ですか? それとも、何かを犠牲にしてでも前へ進む事ですか?」

「何が言いたいんだ、ユンナ」


 ユンナが鼻で嗤った。


「人道なんて、社会を作る上で用意した脆くて薄い、表面の張りぼてでしか無い、と言う事ですよ――犬と猫だって愛情を示しますし、社会の正邪は時代と共に移ろい、天気の様にコロコロと変わるものです。50年前には、獣人は街をうろつくだけでも害悪でした。そして、目障りな獣人に石を投げ付けるのは正しいと言う認識でした。詰まりは道徳的に正しかったのです」

『詭弁だな、当時の基準を今に当て嵌めるな』

「所詮、大儀は簡単に移ろうもの、と言いたかったのですよ、恐ろしい邪竜よ。人道とは、人間の自己満足にしか過ぎませんよ。人はどこまで行っても、優れた知能を持った獣でしかないのです」

「違う筈だ! 僕たちは――」

「何が違うと言うのですか!? 弱肉強食が自然の理である様に、ヴェロキラもアーケオに破れ終焉を迎えます! 規模、環境、立場の差こそあれ、人の社会にもその掟がそこらかしこに溢れている!!」


 反論を論じようとするブレウスに有無を言わさぬ勢いで捲くし立てる。

 目の色を変えたユンナに、ブレウスは血を吐きだす怨嗟を見た。


「敗戦国が戦勝国によって、全てを支配される様に! 金の無い労働者が貴族から仕事を貰う様に! 想い人が他人を愛する様に! 社会は常に敗者と勝者、弱者と強者の奪い合いで成り立ち続けている――解り切った事では無いですか? 自覚し不快と感じるかどうか、その程度の認識でしかないのですよ…………お喋りが、過ぎてしまいましたね」


 嵐が過ぎ去った沈黙の後、ユンナがしなやかな動作で剣を引き抜く。

 抜き放たれた剣が高潔さを感じさせる青々と輝き、ランプの灯りと歪に混じった。


 ブレウスは慎重にユンナ動きを見定める。

 あの剣が黒竜との戦いで使った呪装と同じである以上、持ち主の身体能力を強化している筈だ。


 そんな相手と正面から殺り合う事は避けなければならない。

 あの剣を今の自分が一太刀でも浴びれば、運が良くて瀕死だろう。


 ――相手の初手を見切ってからの反撃。これしかない。


 ブレウスはリーチ差を埋める為に腰に下げている剣を抜くかどうか逡巡するが、この狭い通路と今の体では取り回す方に意識を集中してしまうかもしれない。


 張られている札の事もあって、道化師達の時と同様に拳で相対する。


 ユンナが両手の中段で構えていた剣を自分の右肩に沿える様に、体の手前で持ち上げる。

 踏み込みと同時に|斬り下ろし(オーバーハウ)をする構えだ。


 ブレウスはユンナの全体を捉える様に視界を定め、ユンナの呼吸を含めた動きまで意識を集中する。

 笑みと共に生気が完全に失せた冷えた顔のユンナが、ブレウスを見詰め続けた。


 冷め切った殺意と滾る熱意が静にぶつかり合い、相手の隙を喰らいつこうと睨み続ける。

 水路の隅をうろつく、ネズミの影がランプを横切り大きく照らされた。


 先にユンナが動き、後の先を読んだブレウスが応じて放たれた矢になって応じた。

 ユンナが大きく踏み込む足取りと共に、右肩に添えられた剣が同じ勢いで右拳を振り抜こうと前進するブレウス目掛けて、袈裟懸けの軌道をとった。


 ブレウスの目は、自分を両断しようと迫る刃の軌道を捉え続ける。

 ――必要なものは、タイミングと度胸だ!

 ブレウスは更に自らを突っ込ませ、振り抜こうとした右拳を引っ込める。

 剣が肩に触れ様とした矢先に、踏み込んでいた右足を崩し、滑り込ませた。


 ユンナの目が僅かに開き、掴んでいた剣の柄から左手を離して左の袖下から短刀を滑り出した。

 剣の軌道はブレウスが通り過ぎた空間を虚しく切る。


 身を屈め、ユンナの懐へ潜り込んだブレウスが勢いを殺さずに右肘を先端に、ユンナの腹へと自身の重心が乗った肘打ちを叩き込んだ。

 ブレウスの右肘からはあばら骨が折れる感触が伝わった。


「があっあ!?」


 打ち込まれた肘打ちの衝撃でユンナが激痛に顔を歪ませる。

 咄嗟の判断で手元が狂ったのか、衝撃で飛ぶユンナが左手に握っていたナイフがブレウスを通り過ぎて飛んでいく。


 ブレウスの肘打ちの勢いでユンナは体を浮かせ、通路の後方へ吹き飛び打ち付けられた。右手から離さなかった剣を支えに身を起すが、衝撃の余波が抜け切っていなかったのか、堪えきれず地面へ嘔吐する。

 ユンナは自分の体液で汚れた口元を袖で拭うと、そのまま吊り上げた。


「ガーボン!?」

『――しまった』


 サスキアの悲痛な叫びが木霊した。

 ブレウスが咄嗟に振り向くと、援護の為に闘いの|雄叫び(ウォークライ)を叫ぼうとしていたガーボンの喉元に、ユンナが投げた短刀が差し込まれていた。


「ぐ――ふっ」


 ガーボンが喉元を押さえながらその場でうずくまる。

 サスキアが血の気の失せた表情でガーボンの喉元から短刀を抜こうとするが、ガーボンが痙攣で震える手で静止する。


 ブレウスが激情を込めた勢いでユンナへと振り返る。

 体勢を立て直したユンナがどこもでも黒い目を口と共に歪ませ愉快そうな笑みを作っていた。


「私はオークの特徴を知らぬほど、浅識ではありませんよ。もっとも、あの様子では痺れ毒の量が少々足りなかった様ですが」

「貴様アアァァァ!」

「おや、怒らせてしまいましたか。いや、私の中では上策の積もりだったのですが。こんな家業ですからね、呪装以外の仕込み道具は多いのですよ」


 ブレウスが憤りの勢いのままに地面を蹴り上げ、ユンナへと跳び込んで行く。

 ユンナの喉元目掛けてブレウスが手刀を穿つ。


 ユンナが落ち着いた動作で右手の剣で半円を描いた。ブレウスの右腕が切断され、異形の右腕は切断された勢いのままユンナの左頬から肩までを浅く抉る。


「動きが単調になりましたね、それを狙っていましたよ」


 ブレウスの切断された右腕からは血が花の様に噴出し、黒竜が大急ぎで切断面を自身の影を使って覆う。


「がっ……つ」


 ブレウスはその場に倒れ込み、連戦による疲労と右腕の切断によって体を覆っていた鎧が解けて消えて行く。


『起ろ、起きろブレウス! このままだと殺れるぞ!?』


 体中から汗を噴いて蹲るブレウスを黒竜が名を呼ぶが、反応が定かではない。ユンナが感情の無い顔でブレウスを逃さぬ様に踏みつけ、止めを刺そうと剣を刃を下に向ける。


「孫娘の魂が宿った刃で今度こそ死になさい、邪竜よ」

『そんな、貴様らは――』


 告げられた真実に絶句した黒竜の眼に、銀の長髪が映り込み、シルヴィアが懸命な形相でユンナへと必死にしがみ付いた。

 ブレウスに砕かれたあばら骨のダメージが残っているのか、ユンナが顔を再び激痛に歪ませる。


「皆さん早く逃げて下さい! この男は私を殺す事は出来ません! だから、早く!!」


 シルヴィアの訴える叫び声が、戸惑っていた者達に届いたのか、一目散に逃走を始め、横切って行く。

 オルガは重体で意識が定かでないブレウスを急いで担ぎ上げると、悲痛に戸惑う顔でシルヴィアを見やる。


 ガーボンが碌に動けぬ体をサスキアに支えられ、己の情けなさを恥じてシルヴィアを見詰めたまま通り過ぎて行く。


 地下牢へと続く道の方からは、重装備の兵達の靴音が行進のリズムとなって迫って来た。


『時間切れだ……』


 黒竜が歯噛みをしたまま呟く。


「そんな、このままだと姫様が……」

『馬鹿野郎! 今から来る連中がまともな訳無いだろ! 一度謀殺されたワシを信じろ!!』

「あっ……シル、ヴィア……」


 視線が定まらぬまま、意識を目覚めさせたブレウスがシルヴィアを、自分の背に乗ったまま悲痛な眼をした黒竜と共にで見やる。


 シルヴィアが少し残念そうな、穏かな微笑を3人に向ける。


「行ってください、私は大丈夫ですから」


 オルガは目に溜めた涙が零れぬ内に、ブレウスを連れて脱出して行く。


 ブレウスは身を焦がすような熱と、のた打ち回る激痛に朦朧とする意識の中、自分の背後から聴こえるシルヴィアの声を聴いた。


「ブレウス、私は忘れません! 貴方が死に物狂いで私を救おうとしてくれた事を! 全力で約束を果たそうとしてくれている事を! だから、だから――信じています!」


 遠くなっていくシルヴィアの声と共に意識が再び途切れ始める。

 ――諦めちゃ、駄目だ。そうだ、そうだとも、諦めたら――救えない。


『ブレウス……まだ立てるか?』


 ――当たり前だっ……まだ、何も終わっちゃいない……っ!

 その意思を最後に、ブレウスの意識は落ちた。

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