始まりの距離 ③

 一寸先も見えぬ闇の中、ユンナは手にしたランプから溢れる蝋燭の灯火を頼りに、闇に包まれた足元を照らしていく。

 照らし出され、姿を見せる石造りの階段は生い茂った苔によって、そこを踏む者に不快な滑りけを与える。

 暗闇の奥から微かに聴こえて来る流水と風の音は、冥府への誘いか。

 ――否、これが本当の冥府へと続いているのなら、私はどれだけ救われるのか。


 何もかも蔑み距離を置く目が、在りはしない隠り世へ羨望を馳せる。

 しかし、階段を降りきって辿り着いた先はただの地下牢だ。

 自分を無視して徘徊している亡者の成れの果ては、冥府の住人と言うには有り様が陳腐だった。

 ユンナは意味も無く顔を向けてくる亡者の体を押し退け、嗅ぎ慣れた甘く腐った人の波を進んで行く。

 ユンナの背後に三つの道化師の仮面が浮かんだ。


「少し、造り過ぎましたかね。黒竜が来た際には、材料を集める好機だと思ったのですが」

「幾らか処分なさいますか?」

「そのままで構いませんよ、シルヴィアを処刑するまでは残して置きなさい。貴方達もここで見張る様に。小さな黒トカゲが来るかもしれませんので」

「御意に――仲間の仇を討てる機会を下さって、誠に感謝します」


 自分の背後に浮かんだ三つの道化師の仮面が闇の彼方へと消えて行く。

 ――私の扱っている駒でさえ、仲間への情はあるのですね――馬鹿馬鹿しい。

 ユンナは嘲笑した。

 それは、どんな事を命令しても忠実にこなす部下への嘲りか、恐怖でしか人と繋がれない、繋がろうとしない自分を扱き下ろしたものか。その胸の内は、本人にしか聞こえない。


 およそ三百年の歴史を誇る地下水路の一部を無断で間借りした地下牢の奥まで到達すると、牢の奥には幾人かが息を潜めて、ユンナへと視線を向ける。

 ここから出せと騒ぐ者は一人も居なかった。居なくなった。


 その視線を心地良く浴びながら地下牢の最奥へ進むと、最低限の配慮が施された牢の中で、シルヴィアが座り込みながら瞳を閉じていた。

 ユンナにはその姿が、これから生贄になる為に最期の祈りを捧げる敬虔な乙女に見えた。


「一体、何の御用ですか?」


 気配を察したのか、閉じられていた紅い瞳が開き、ユンナとは視線を合わせないまま、ここに来た意味を尋ねて来た。

 シルヴィアの言葉には侮蔑も恐怖も怒りも無かった。

 投げ掛けられた言葉を聴いて、ユンナは微笑む。


「いえ、舌を噛み切ってないかと心配になりまして」

「そんな事は致しません。意味が無いですから」


 あっさりと否定するシルヴィアの平然とした顔に、ユンナは執着で彩られた切れ目を向ける。


「何が貴女をそこまで気丈に支えているのですか?」

「こんな私の為に、自身の全てを賭けてくれる人がいました。私はその人に顔向けできない様な生き方を、したくないのです」

「……待ち続けないのですか?」


 シルヴィアの瞳がユンナへと向けられた。ほんの微かだが、怒りの色が見える。

 甘美な想いがユンナの心を満たした。


「ユンナ、貴方はあまり良い趣味をしていませんね。ジュデッカをあの場で人質にして、ここに連れて来たのは貴方でしょうに」

「そうやって成し上がって来た家の出ですので」


 嗤うユンナの視線にシルヴィアは呆れながらも、手を胸元に添えて心の中を確かめた。

 自分への怒りが直ぐに消え失せたシルヴィアの落ち着いた仕草に、ユンナの背に怖気が走る。


「……待ち続けますよ、首が吊られ、自分の体重で絶命するその時まで。――悪い竜は、お姫様を攫うものらしいので」

「――っ」


 シルヴィアが全てを受け入れながらも、最期の瞬間まで何一つ諦め様としない、たおやかな微笑みをユンナに見せた。

 ユンナが自分の服を、胸を掻き毟るように掴み悲痛に唸る。

 急変するユンナの調子に、シルヴィアが心配そうに見詰めた。


「……失礼します、また来ますよ。貴女が絶命するその時まで」


 ユンナが踵を返して暗闇の中へと足早に去って行く。

 鉄格子越しでシルヴィアが見送る中、ユンナの胸中には一つの言葉が浮かぶ。

 ――殺してあげましょう、貴女の高潔な生き様も希望も、その幸福な笑みも、全てを。殺してあげましょう。




「お口に合いますか?」

「うん! 凄い美味しい。田舎だと、こんな手の込んだ物は中々食えないから、嬉しいよ」


 店内上階の宿泊施設、助けて貰ったお礼にと、個室を貰っていた。

 オルガの前には、牛と豚の合い挽き肉に野菜と香辛料を混ぜて焼いたソルーズ・ベリーステーキと、作った本人であるジュリアがオルガの食いっぷりを満足そうに赤い瞳で眺めている。


 美味い料理と共に、会話が弾み、最後の一口を食い切ると、オルガは食材と作ってくれたジュリアに礼を告げた。


「ご馳走様でした」

「はい、どういたしまして。オルガさんは、何の御用があってこの国に?」

「うーん……実はほとんど成り行きでね。邪竜の話は知ってる?」

「はい、私はここに来て、まだ日は浅いのですが、そんな私でも竜の噂はよく聴きましたよ」

「実はその竜、俺の住んでた村近くの山で出たんだよね。大昔の遺跡が在ったんだけどさ、そこを住処にしてたみたいで」

「まあ」


 ジュリアが小さな口を驚きで開く。

 対するオルガは楽しい思い出話と言った調子で語り続け、立ち耳を幾度か揺らす。


「おもしろかったなあ、村長の爺ちゃん『も、もう駄目じゃー! ワシらあんな事やこんな事を竜にされちゃうんじゃー!!』とかパニックになっちゃってさ」

「オルガさんは平気だったんです?」

「うん、実はその竜に一回、森の中でバッタリと出くわしちゃってさ、その時に『死にたくなきゃさっさと走れ』って見逃して貰ったんだよね。だから、そんなに悪いやつじゃないのかなって」

「話の解る竜さんだったのですね」

「頑固だけどね……」


 付け足したオルガの言葉にジュリアは首を傾げるが、オルガは構わず話を続けた。


「そんで暫くしたらさ、若い騎士が一人で村に来たのさ。僕が竜を退治しますって」

「あ、その方がもしかしてお連れの?」

「そうそう。ブレウスって言うんだけどさ、遺跡の場所を詳しく教えると、直ぐに行っちゃったんだよね。そんでその日の真夜中になると、山が光るわ燃えるわ、何か壊れる音するわで、みんな大パニックだったよ」

「そ、それは生きた心地がしませんね……」

「朝になって村の男達で遺跡まで行ったらさ、粉々になった遺跡と見た事の無い魔方陣、髪と目が真っ黒になって重症のブレウスが居たんだよね」

「なんだか規模が大きすぎて、実感が湧かないですね」

「うん、俺も未だに不思議に思うよ。でも……ワクワクしちゃったね。後はもう、ほとんど衝動的に着いて来ちゃったんだよ。こんなワクワクするもんが世界に溢れてるなら、冒険者になっちゃえってね」

「え、えええ!?」


 焼け焦げた大地と巨大な爪痕によって抉られた地面。

 争いの跡と言うよりは天災が過ぎた跡と言った方が、まだ納得できる光景だった。

 村の皆が恐怖で慄く中、オルガだけは未知のものを目の当たりにした興奮で震えていた。

 ――村の近くでさえ、こんな事が起きるのなら、外の世界には一体何があるのだろうか。


 そして、オルガは醒める事のない衝動に突き動かされるまま、瀕死の状態から回復したブレウスを、ヴェロキラまで帰す、と言う名目で村を飛び出してしまったのだ。


 ジュリアの狼狽える素振りが、自分が行ってしまった行動の無鉄砲さを表していた。


「この後は、どうする積りなんですか?」

「うーん、ブレウスとはここまでの約束だから、明日は冒険者としての手続きをギルド商会の方でしにいく予定なんだ。それが終れば、一度村に帰って別れの挨拶でもしようと思ってる」

「成る程、成る程……ど、どうしよう……」


 ジュリアが頬を染めつつも、何やら思案を巡らしている。

 そして意を決したのか、むん、と綺麗な曲線を描いている胸を張り、オルガへ一歩近づいた。

 妙な凄みを感じたオルガは体を後退させる。


「あの、私の話も聴いて頂けますか?」

「構わないけど……聴いてもいいの?」

「はい、聴いて下さい。オルガさん、善い人そうですから。えーとですね、私の種族ってご存知ですか?」

「ああ、さっきブレウスに教えて貰ったよ。夢魔なんでしょう? 人間の所で姿を現すのは珍しいとも聞いたけど」

「そうなんですよ、夢魔ってそもそも夢を見ている生き物からその夢を少し頂いて、ご飯にしてるんです。ほら、夢って覚めそうな時に、急に内容が変ったり途切れちゃうじゃないですか。アレ、私達の仕業なんですよ。最後の方から頂くのが、私達のテーブルマナーみたいなもので」


 悪戯っ子の様にジュリアが舌先を出して、オルガは興味津々とした顔つきで彼女の話に入れ込む。


「ほえー……見た目は可愛い人間の女の子なのに、本当に別の生き物なんだなー」

「ふふ、口説いてます?」

「え、いや別に?」

「そ、そうですか……」


 ジュリアは肩を少し落としたが、直ぐに復帰する。

 オルガはイマイチ把握仕切れていないが、コロコロと変るジュリアの表情を見ているのを楽しんでいた。


「あ、そう言えば、夢魔ってどうやって子孫を増やすか想像出来ます?」

「うーん、俺達みたいに夫婦になる訳じゃないんだね?」

「私達は精霊に近い種族ですから、男女の概念って無いんですよ。疲れますけどその気になれば、お婆ちゃんから小さな男の子にでも変えれますし。それに、同属同士だと子供は出来ないんです。だから、成人すると里に降りて相手を見つけなきゃいけないんですけど……私はその風習が嫌で、そのまま里を出てきちゃいました」

「何がそんなに嫌なんだい?」


 ジュリアが眉間に眉を寄せて不満を露にする。


「……しないんです、恋愛。私達の種族、相手をテキトーに選んで、子供授かったらさっさと相手の元から去っちゃうんですよ。酷くありません!?」

「それは……何と言うか、淡白だね」

「淡白通り過ぎて冷淡ですよ! 時代錯誤も良い所です!」


 気がつけば、ベッドの上で寛ぐオルガの横に、ジュリアは腰を降ろして熱弁を披露していた。


「だから私はちゃんとそう言う経験を通して、信頼出来る好きな人と結ばれたいんです」

「憧れているんだね、人の営みに」

「そりゃそうですよ、恋愛の無い一生なんてありえません!」


 ――いや、この場合は恋に恋してると言うべきか。

 どこか危うさを感じさせてしまうジュリアの真っ直ぐさに、呆れ雑じりにオルガは感心した。


「それで、ですね。ここからが本題なんですけど、オルガさん。もし冒険者として旅をするなら、私もお供させて貰えませんか!」

「うえっ、そりゃまたどうして!?」

「いえ、今日私の正体があまり宜しくない経緯でバレてしまって、この町には住み難くなってしまいましたし。それに、もっと性質の悪い人に狙われる可能性もあるので……」

「あー……成る程ね」


 オルガは脳裏に食事の席を台無しにした行商人を思い出す。

 アレ位ならばちょっとしたトラブル程度で済ませる事が出来れるが、もっと酷いとその身を売られる事になっても珍しくない。

 ――そう考えると、ジュリアの夢は途轍もなく大変な事なんだな。


「それに私、こう見えても旅慣れしてますし、必要最低限の自衛は出来ますし、あとあと、家事料理得意です! 一応ギルド商会の方にも名簿登録はしてありますし、他にも――」


 自分を旅先に連れて行く利点を必死で挙げて行くジュリアの姿を見て、オルガは自分の考えを纏める。


「旅は道連れ世は情け、袖振り合うも多生の縁、か」


 祖父が口酸っぱく語っていた言葉を、オルガは反芻した。

 オルガは獣人特有の大きく肉球の付いた手をジュリアへと差し出す。


「解ったよジュリア、僕と一緒に旅へ出よう」

「はい! 宜しくお願いします!」


 ジュリアがオルガの差し出した手を、両手で掴んだ。

 服の袖に通してある怪しげな小瓶を、ジュリアは最後まで気取られまいと隠し通す。

 ――アノーラさんから貰ったやつ、使わなくて良かった~。あ、後は私の努力次第!

 夢魔の少女が意中の相手へ笑顔を交わしながら、乙女の戦を始めた。




 夜の帳が降り切った宿屋の個室で、ブレウスはベッドの上で体を休めていた。

 美味しく頂いた食事の満腹感に浸りつつ、アノーラから貰った薬の小瓶を掲げる。

 高い粘性と強烈な薬草の臭いに苦戦したが、何とか飲み込む事には成功した。

 隣の部屋からは、オルガとジュリアの話し声が洩れて来る。


『夜中だってーのに、これだから若いもんは……』


 ブレウスの胸の上で黒竜が眠たそうにぼやいた。


「黒竜は眠くなったりするのかい?」

『ワシは坊主と一蓮托生なんだぜ、お前の魂に引っ張られて腹も減るし眠くもなるわい。今の俺は、お前の魂に引っ付いてる、とても心強い竜に良く似た精霊様って所だ』

「なるほど、人に畏れられる竜から変温動物の精霊になったんだね」

『……お前さん、案外に口が悪いよな。あ、さては戦った時の事をまだ根に持ってるな!?』

「いや、ぜんぜん根に持ってないよ、爪で体を押し潰された直後に火を吐いて来た時は、絶対息の根止めてやるとか思ったけど、過ぎた事さ」

『だから、あん時のワシは機嫌悪かったって言ってるだろ!! ワシ覚えてるからな! お前さんがワシの爪や尾先を切り落とした時の、血に塗れた嬉々とした表情!! あー人間恐いわー、老竜虐待だわー』

「あれは興奮し過ぎてただけだよ、心外な」

『はん、無駄口叩いてる暇があったらサッサと寝ちまえ! ワシはもう寝るからな、体が温まって眠くなった訳じゃないぞ、本当だぞ』

「言われなくても、もう寝るよ――なあ、黒竜」

『あん? なんじゃい』

「君が僕と会う時に不機嫌だった理由に心当たりが在るんだ。シルヴィアはもしかして君のし――たっ!」


 黒竜がブレウスの鼻にぺちり、と自分の尾を叩き付けた。


『それ以上は言うな……世の中にはな、明言しない方が都合がいい事なんて、山程あるんだぜ』

「……黒竜がそれでいいならいいさ。明日は頼む」

『――任せろ、坊主。お前についているのは邪竜だからな』


 一人と一匹が、明日の為に眠りに入る。

 睡眠へと落ちて行く中、ブレウスの過去が夢となって黒竜に流れた。




 ――今日の夜空は満月か。

 騎士叙任式を終えて退屈な宴から抜け出し、急ぎ足で新品の鎧を盛大に揺らしながら、何時もの待ち合わせ場所である庭へ辿り着く。

 慣れない酒で火照った体で冷えた夜空へ繰り出したブレウスは、今日与えられたばかりの剣と兜を手にしたまま、目的の人物を探していた。


 右へ左へと視線を彷徨わせるが、意中の相手は見当たらない。

 ――もしかしたら、今日は忙しいのかな。

 一瞬暗い思いが背を通り過ぎるが、後ろから近づいて来る足音で、それが杞憂だと告げられた。

 自覚が無いまま、ブレウスは音のした方へ笑顔を向けた。


「ブレウス! 遅れてしまって、ごめんなさい」


 待ち望んでいたシルヴィアが、銀の髪をたなびかせながら着慣れない黒のドレスの裾を持ち上げ、苦労した足取りで駆けて来る。


「そんなに高いヒールで走ったら危ないですよ、シルヴィア」

「もう、こんな時だけヒールを履かせるなんて――ひゃっ」

「危ない!」


 シルヴィアは庭へあと少しと言う所で、段差にバランスを崩してしまう。

 ブレウスが手にしていた剣と兜を放り投げ、滑り込むように前へと倒れるシルヴィアを抱き止めた。


「あ、危なかった……」

「ううぅ、ご、ごめんなさい」


 突然の事で呼吸を乱すブレウスに対して、抱き止められたままのシルヴィアは、耳の裏まで整った顔立ちを赤く染める。

 一足先に冷静になったブレウスが、篭手越しで伝わってくるシルヴィアの華奢な肩の感触を意識してしまう。彼女の揺れる肩の鼓動と吐息に、ブレウスは視線を彷徨わせた。


「シルヴィアも、もう、立てますか?」

「へ? あっ、はい!」


 自分達の状態にシルヴィアも気づいたのか、慌てながらブレウスから離れて姿勢を正す。

 滅多に無い事態に、二人の間に気まずい沈黙が流れた。

 ――この空気はいけない、何か言わねば。


 ブレウスは解決口の模索を始め、最初に目に付いたのはやはり、シルヴィアの普段とは違う格好だった。

 普段は位の低い貴族の娘が着る様な、大人しい服装なのだが今日に至ってはどうだろうか。

 今回ばかりは、見た目ばかりを重視する貴族達に感謝しなくてはいけない。

 ――そう、例えば開いてある肩とか胸元は中々に――。

 ブレウスは篭手で自分の顔を小突いた。


「ど、どうしたんですか、ブレウス!?」

「いえ……ちょっと、酒の酔いを醒まそうと思いまして……」

「まあ、それなら、今日は速く寝た方が――」

「大丈夫、大丈夫ですよ。ほら、この通り!」


 自分が酔い潰れていない事を示す為に、ブレウスはシルヴィアの目の前で、ハンマーを振る様に素振りを繰り返す。

 必死に自分が大丈夫で有る事を伝えてくるブレウスの様子に、シルヴィアは愉快そうに顔の表情を解す。


「もう、そんなに重たい鎧を着けたまま動き回れるのですね。少し前は、あんなに小さくて可愛らしい栗毛の子だったのに」

「何時までも子供のままではいられませんからね」

「ふふ、そうですね。こんなに立派になって……背も、何時の間にか超えてしまって……」


 ブレウスの成長を見守って来たシルヴィアが、確かめるようにブレウスの頬を撫でる。

 向けられて来るシルヴィアの慈愛に喜びながらも、ブレウスはもどかしい気持を募らせた。


「今日の騎乗戦での一騎打ち、凄かったですね。とても素敵でしたよ、あんなに体格の差がある相手によく勝てましたね」

「ちょっとした基礎と勝負時を理解すれば、後はそこへ飛び込む度胸で事足りるものです」

「でも、最初は貴方が押されそうになってとても気が気では無かったです。落馬して大怪我したらどうしようかと」

「体格が優れている者は、その優位性を過信しがちですから、最初はワザと相手をその気にさせたんですよ、後は喉を狙えるタイミングを逃さない事ですね」

「本当に一人前の騎士になったのですね。私からも、何かお祝いの贈り物が出来れば良かったのですが……」


 残念そうにしているシルヴィアをブレウスは好機、と言わんばかりの勢いで石畳に放っていた剣を拾い上げ、両手でシルヴィアの前へ差し出す。

 ブレウスの意図を掴めていないシルヴィアが不思議そうに紅の瞳を傾ける。


「ブレウス……?」

「シルヴィア、僕に君個人から佩剣(はいけん)の儀式をしていただけませんか」

「え……私が、ですか?」

「はい、そうです」


 ブレウスからの真剣な願いに、シルヴィアは戸惑う。

 佩剣の儀式とは、騎士叙任式において最も重要な行事であり、君主または近親者が正式な騎士になる新米の騎士へ武具を授け、一人前の騎士として任命すると言った内容だ。

 名実共に、騎士として生きて行こうとする者の人生にとって極めて重要な成人式の晴れ舞台だった。

 ブレウスはそれをシルヴィアに頼んだのである。


 ――貴方の騎士にして下さい。

 それがブレウスのシルヴィアへ伝えたい想いだった。

 ブレウスからの意図を察したシルヴィアが、紅い瞳を揺らして驚き、高揚していく頬を隠すように両手で覆う。


「わ、私、ブレウスに、拍車も上げる事は出来ませんよ?」

「僕は物が欲しい訳では無いのです、シルヴィア。貴女から騎士としての任命を頂きたい。それが僕にとって、今日まで騎士を目指して来た理由ですよ」


 驚き戸惑うシルヴィアに、ブレウスは熱意を伴った真剣な面持ちで跪く。

 ブレウスの真摯な想いを受けたシルヴィアは、覚悟の程をブレウスに尋ねる。


「ブレウス、私がお城で何と呼ばれているか、解っていますか?」

「ええ、知っていますとも。銀の魔女やら、呪われた負債の姫君だとか」

「そうです、そんな者の騎士になったと言う噂が流れれば、貴方が苦労するだけですよ」

「大丈夫ですよ、僕は栄誉が欲しい訳では在りませんし、好きに言わせてやりましょう。僕は知っていますから。シルヴィアがどれだけ、騎士として仕えるのに相応しい人で在る事を」

「ブレウス……」


 ブレウスは今日までの自分の短い人生の中で、惹かれ続けていたシルヴィアに思いの丈をぶつけて行く。

 ブレウスの両手から、シルヴィアは慎重に剣を抱え受け取った。

 シルヴィアは若き騎士の想いを満面の笑みで返し、溢れ出た気持が彼女の頬を涙となって伝う。


「……こんなお婆ちゃんの騎士になりたいなんて、後で後悔しても知りませんよ」

「齢を通して、貴女に色褪(いろあ)せたものなど、何一つもありませんよ」


 シルヴィアが剣を抜き、跪くブレウスの前で掲げると、慣れない動きで、ブレウスの首筋を剣の平で三度打った。


「主の名において、ブレウス、汝を私の騎士とします。堂々と振る舞い、誠実に、自分の信じたものを守りなさい」

「――御意に」

「ここに誓いは果たされました、顔を上げなさい、ブレウス」


 促されブレウスは立ち上がると、シルヴィアが剣を返そうとして来る。

 受け取る為にブレウスが身を僅かに屈めた瞬間、頬に柔らかな感触が静かに弾む音と共に過ぎった。


 剣を受け取ったブレウスが体を硬直させ、仕掛けた張本人であるシルヴィアも恥じ入る様に顔を伏せ、銀の髪が垂れたうなじが、朱色に変化していく。

 ブレウスが自分の頬に触れた感触の正体を確認する為に、混乱した表情でシルヴィアに尋ねる。


「し、シルヴィア……今なにを……?」

「あの、えと……今日の宴の席で、若い男女の間で流行っている様子だったので……う、嘘じゃないですよ! 本当ですよ!」


 真偽がハッキリしないシルヴィアの弁明に、ブレウスは喜びを噛み締めて、誘う為の手を差し出した。


「それでは、宴の続きをしませんか? こう見えてもダンスは得意ですよ」

「エスコートをお願いしてもいいですか? ダンスは知識でしか知らないので……」

「任せてください」


 ブレウスはシルヴィアの手を下から取ると、手を握り合って一定の間隔で足を運ぶだけのダンスを先導していく。

 不慣れな足取りで着いて行くシルヴィアの足取りは、単調なリズムを重ねる度に、こなれたものへと変化して言った。


 城から湧き出る宴の喧騒の外、望月が照らす花の庭園では、騎士と姫君が静穏に包まれた空気で拙いダンスを楽しんでいた。




 淡い記憶の残滓によって、ブレウスは沈み込んでいた己の意識を浮上させ、差し込んでくる朝焼けの眩さに覚醒を促される。

 確かに繋いでいた筈の手はここには無く、虚しく空を掴む感覚だけが虚無感として返って来る。

 十分な休息と夢によってブレウスの体には活力が満ち溢れている。

 ――夜明けはまだ、遠い。

 ならば、その陽を自らの手で掴み取ろう。

 若き騎士は自分の信じたものを護る為、行動を始める。


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