第十一話 運と奇跡 1/3

 ヘルルーガ・ベーレントは途方に暮れてた。

 彼女がかつて経験してきたどの戦場よりも困難な場面に直面していたのだから、無理もないことであろう。

 いや、途方に暮れていたわけであるから「困難」などという生やさしい言葉では表現できないほど切羽詰まっていると言うべきであろう。ヘルルーガの持つ豊富な経験と深く広範な知識、そして柔軟で秀でた思考能力をもって考え得る限りの策を講じてもなお、勝利への道筋どころか方角すらわからない状況なのだ。

 そう。

 端的に言うならば、ヘルルーガはもはや「詰んで」いたのだ。

 シルフィード王国軍を率いてフラウト王国と対峙した時には、最後の切り札として「全面降伏」という逃げ道があった。しかし今回ばかりは最初からその逃げ道すら存在していない。

(我が人生に於ける最大の敗北が本日この時ということか)


 口には出さなかったが、そう考えた時点でヘルルーガには既に戦意が失せていたとみるべきであろう。少なくとも敗北を認めた時点で勝負は決したといえるだろう。

(認めざるを得ないが納得がいかん。いや、そもそも認めたくもない)

 だがその実、本人も驚くほど冷静で、自分が置かれている状況を俯瞰的に眺められている事に驚いてさえいた。

 そして同時に、心から安堵していた。(この場にエスカが居なくてよかった)と。

 幕僚達の反対意見を押し切って、エスカがわずかな手勢を引き連れてウンディーネの首都島アダンに向け、密かにここフラウト王国を出たのは二日前である。

 まさに間一髪と言えた。


 ヘルルーガは改めて眼前の「敵」を観察した。

 ヘルルーガに関する生殺与奪はすでに相手の手の内にあり、あとどのくらいのあいだ「敵」の姿を眺めていられるかはわからない。だがそれでも、最後の瞬間までこの目に焼き付けておくべきだと思っていたのである。


「そんな恐い顔をしないで下さいな、ベーレント……えっと、大臣でしたか?」

「サラッと失敬な事を言うところは相変わらずだな、ユグセル中将。いや、今はユグセル公爵とお呼びするべきかな? 一応言っておくがあなたの言う怖い顔は生まれつきだ」


 そこはヘルルーガにあてがわれている自宅の、と言っても宮殿内にある要人用住居の一区画であったが……の接客用として作られた部屋であった。

 もっともヘルルーガはその部屋を接客の間としては使っていなかった。彼女は自室に招き入れるのはエスカのみと決めて、それ以外の人物とは自室外でしか接見しなかった。そんなわけでその部屋には来客用の調度はいっさいなかった。代わりに執務用のやや大振りな両袖机が置かれていた。それ以外には柔らかい詰め物で座面を覆った座り心地の良さそうな長椅子が一つあり、アプリリアージェは今その長椅子に深々と腰を下ろし、一見すると寛いでいるように見えた。

 その長椅子は書類仕事の合間に気分転換のために腰を下ろして茶を喫したり、場合によっては仮眠をとる為のものとして置かれていたのだが、実質的にその椅子はほとんどエスカ専用といえた。

 というのも、ヘルルーガのあまりの勤勉ぶりを心配してたびたび様子見にやってくるエスカがそこに腰掛け、相談という名目の雑談、いや、ばか話で小一時間ほど暇をつぶして行く為の場所になっていたのである。


 長椅子の前には小さな卓があって、そこもエスカが好きな酒を置くためだけ使われていたと言っていい。だが現在その上には白い湯気をたてるカップが置かれており、その中味は今し方ヘルルーガ自身が淹れた珈琲だった。

「以前のようにリリアでけっこうですよ、ベーレント大臣」

 アプリリアージェは出された珈琲にはまったく手を付けず、終始微笑を浮かべたままでヘルルーガを見つめていた。

「お互いに立場はかなり変わりましたが、そうは言っても旧知の仲であることに違いはありませんから」

 ヘルルーガはそんなアプリリアージェの軽口には乗ってこなかった。

「確かに旧知の仲と言えなくもない。だが、私には『ペトルウシュカ公爵』ではなく『リリア』と呼び捨てにした記憶は一切無いのだがな」

「あらあら、そうでしたっけ」

 そう言ってわざとらしく勘違いをしている風を装いつつ、アプリリアージェは微笑を湛えたままだった。

 そう。突然この部屋に現れてから、ずっとその状態なのである。座ってただヘルルーガを見つめているだけなのだ。例の一見穏やかで優しげな微笑を浮かべたままで。


 アプリリアージェの訪問は突然だった。

 いや、あれを訪問とは呼ぶまい。通例である朝食を兼ねた幕僚との打ち合わせが終わり、いったん自室に引き揚げ、執務室へ入る前に自室で昨夜の残務を片付けておこうとして椅子に腰を下ろしたまではよかったのだ。

 だが、誰も居ないはずの部屋からクスっという小さな笑い声が聞こえて咄嗟に顔を上げてみると……目の前の長椅子に黒髪の小柄な美少女が座っていたというわけである。


 ヘルルーガ・ベーレントはシルフィード王国の将官の中でも冷静で現実的かつ合理的な考えを持つ軍人として知られている。

 だから目の前に突然アプリリアージェが座っているのを見て、もちろん驚愕はしたがすぐにその意味を自分なりに理解していた。いや、理解したつもりになったと表現した方が正しいだろう。なぜならまだアプリリアージェの訪問の意図を確認してはいないのだから。


「念のためというか、立場上というか、取りあえず参考までに聞きたいのだが」

 アプリリアージェとは対照的に、ヘルルーガは招かざる客に対する不快な表情を隠そうともせずに、しかしながら感情はいっさい表に出さぬ落ち着いた声で呼びかけた。

「なんでしょう?」

「宮殿の正門で私への取り次ぎ依頼などは……行ってはいないのだろうな」

「あらあら、これは私とした事が!」

 そう言ってアプリリアージェは機嫌のいい笑い声を上げた。

「失礼とは承知しておりましたが、なにぶん気が急いておりまして」

「直接ここへ来た、と?」

「ええ」

「やはりな。とはいえよくこの部屋がわかったものだな。いかにル=キリアの鼻が良くても、これには驚かざるを得ん」

「いえいえ。私の方こそ驚きましたよ」

「む?」

「宮殿ですからそれなりに用心してお邪魔したのですが、入ってみるとおよそ警備と呼べるような警備など存在していなかったものですから。むしろここでこうしてベーレント大臣とお会いするまでは、ルーンの結界か呪法があって、私はまんまと罠にはまっているのではないかと気が気ではありませんでした」

「それは失礼した。あいにくと、高位ルーナーや主立った面々は出払っていてご希望に添いかねる。極めて残念ながら、な」

「残念、ですか」

「ああ、正直に言ってそのような仕掛けがなくて非常に残念だ。もっとも白状すると平時でも大して変わりはないのだがな」

 強がりではない。ヘルルーガの言葉に偽りはないのである。フラウトの宮殿は普段からかなり無防備な状態であった。仮想敵すらいないのだから当然とも言えたが、それでも改めて考えてみれば無防備に過ぎるかもしれない。

 ヘルルーガはそう考えてつまらぬ後悔に苛まれた。

「なので留守を襲われても痛くも痒くもない、と?」

「いや、もちろん痛いしけっこう痒い。だが、お主がこの宮殿が欲しいというのならばくれてやる」

「あらあら、いいのですか?」

「かまわんよ。とは言っても豊かさで鳴るファルンガの領主たるユグセル公爵ともあろう方が、大した規模でもない質素な宮殿が欲しくてわざわざこのような辺境にやってきたとは思ってはいないがな」

「少々誤解があるようですね。今の私はファルンガの領主でもル=キリアの司令官でもありませんよ」

「ほう」


 相変わらずアプリリアージェの意図が見えないヘルルーガだったが、この様子から察するに相手は何らかの情報を得ようとしてやってきたと判断できた。つまりすぐには襲われる心配はなさそうだということである。

「そう言えばル=キリアは分裂しているのだったな。解散といった方がいいのかもしれんが」

「ル=キリアと言えば、ベーレント大臣はフリスト小隊とは面識があると風の噂で聞いております。確かフリスト最後の戦場は……」

 ヘルルーガは頷いた。

「さすがに耳に入っているようだな。その通り、他でもない。それは私が指揮をした戦場だ」


 フリスト・ベルクラッセの名がアプリリアージェの口から告げられると、ヘルルーガは苦しそうな表情を浮かべた。そしてその場で深々と頭を下げた。

「既に詫びる立場にはないのは重々承知している。だがこれでは言わせて欲しい。私が不甲斐ないばかりに、ベルクラッセ少佐に頼らざるを得なかった。結果としてあなたのかけがえのない部下を失ってしまった。言葉にすべき文言が私には一言も見つからぬ。ただこの通り、頭を下げるのみだ」

「顔をお上げください、ベーレント大臣、いや、ヘルルーガ・ベーレント。勘違いされているようですが、その時も、そして今も、あなたはフリストの件で頭を下げるべき立場にはありません。それが誰であっても」

「しかし」

「当時のフリストはル=キリア所属だと名乗っていましたか? そもそもシルフィードの軍人だと言いましたか?」

「いや」


 ヘルルーガが聞き及んだ限りでは、その時、既にフリストはドライアドのペトルウシュカ公ミリアを主(あるじ)としていたという。それはつまり、シルフィードの軍人ではなかったという事になる。

「つまり、フリストは私人として義を感じ、あなたの知らぬところで勝手にシルフィード軍に助太刀をしたのです。ならばそこは純粋にフリストを褒めてやってくださいな。その方が、私も友として嬉しく誇らしい。でもあなたが誰かに詫びを入れることで自分の気持ちを幾分か楽にするつもりなら、それは甘えというものでしょう」

 アプリリアージェの言葉に、ヘルルーガは思わず顔を上げた。だが目の前にある小柄なダークアルヴの表情には何の変化もなかった。もちろん何かを期待していたわけではない。だがアプリリアージェの口からもれた「友」という言葉に何か「違うもの」がそこにあるのではないかとを期待したのかもしれない。

「これは痛いところを突かれたな。公爵の言うとおりかもしれん」

 ヘルルーガは小さなため息をついた。

「もちろん、ベルクラッセ少佐に対しては、ただただ感謝あるのみだ」

 そういうとヘルルーガは右手を心臓のあたりに置いて見せた。

「彼女のおかげでイエナ三世陛下の命は救われ、我が部下を始め何万という兵が無事にノッダに入城できた。本来ならばシルフィード王国の英霊として祀られるべき人物であろうな」

 そう言って目を伏せるヘルルーガに、アプリリアージェは首を振って見せた。

「フリストはその時既にシルフィード王国の人間ですらなかったのですから、そもそもシルフィードの国家英霊になどなれません。そしてシルフィード王国の人間であったとしても、ル=キリアの一員でいる限り死亡の発表があろうがなかろうが、そもそもその存在自体が幽霊なのです。幽霊が軍記に名を残すことなどあっていいはずがありません。まあ、そんな細かい事はどうあれ、どちらにしろフリスト・ベルクラッセは『そこに居なかった人間』なのです。すなわちベーレント大臣がフリストの件で今後心を痛める必要はいっさいありません。我が盟友であるフリストを思い出す際には、ただ感謝の気持ちと供に」

 ヘルルーガは深くうなずいた。

「承知した。考えてみれば、ベルクラッセ少佐との出会いがあればこそ、私は今ここに座っているのかもしれん。我が人生に大きな影響を与えてくれた人として、生涯忘れる事は無いだろう」

 アプリリアージェは満足そうにうなずいた。気のせいかもしれないが、その微笑には今まで感じなかった感情の色がみえたような気がした。

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