第八話 密会 1/3

「いないとはどういう事か!」


 澄んだ女声だからか、はたまた根本的な音質によるものなのか、とにかくスウェヴ・イヴォーク少佐の怒鳴り声は、扉を隔てた廊下の歩哨が思わずびくっと体を震わせるほどのものであった。

「どこへ行かれたのだ? 副官のお前がなぜここに居る? またか? またなのか? ああもう、この大事な時にフラフラと。あの方はわかっておいでなのか? 船はもう、すぐそこまで近づいておるのだぞ? 急ぎ戻るようにお伝えしてこい、いや首に鎖をかけてでも連れ戻して来い! いや、お前では頼りない。ここはこの私が自ら行くべきだな」

 海岸の哨戒から帰ってきたスウェヴは、司令官のティルトール・クレムナートが本部いない事を知った。彼が次にとった行動は叫びながらアンデル・サリナー少尉の襟元を締め付けることであった。


「け……」

 首を絞められ、答えたくても声がでない状態にある哀れなアンデルは、それでも必死に声を絞り出そうとした。

「け? け、なんだ?」

 アンデルはしかし、今のままではそれ以上声が出せないことを悟ると、腕をスウェヴの背中に回し、バンバンと叩いた。

「早く答えろ! って、サリナー少尉?」

 スウェヴはようやくアンデルの顔色が土気色に変化しているのに気付いた。

「おっと、これはすまん」


 ようやく開放され、死地から帰還したアンデルだったが、今度は咳の為にまたもや言葉が出ない状況に陥っていた。

「ま、まあ落ち着け。ゆっくりでいい。私としたことがいささか冷静さを欠いていたようだ。許せ」

 スウェヴのねぎらいがあろうがなかろうが、アンデルがまともに喋れるようになるには数分を要した。

 アンデルはしかし、その間も早く言葉を喋らねばならぬという強迫観念に囚われていた。許せと言ったものの、その実、本当に少し落ち着くのを待ってくれるような上官ではないことをよく知っていたからである。その証拠に咳き込んでいるアンデルを見下ろすスウェヴの表情には、すぐに再び苛立ちの色が漂いはじめていた。


「先ほど、ごほっ、イルフラン、ごほっ、さまが、ごほっ」

「何だと? あの女……いや賢者様と出かけられたというのか? 二人きりでか? どこへ向かわれたのだ? ええい、いつまで咳き込んでおるか、この軟弱ものが。それだからお前は能力はあるのに、いつまで経っても少尉のままなのだ。シルフィードの尉官たるもの、上官にちょっと襟を合わせられたくらいでへたり込むヤツなど初めて見たぞ」

「ひいっ」


 怒りと焦りで興奮したスウェヴが、事の次第を知ったのはそれから更に数分後のことであった。

 喋ろうとするアンデルは、本人の意志とは関わりなく咳き込んでしまい、咳き込む度にスウェヴがアンデルを罵る為に一向に話が進まないのである。

 イヴォーク少佐は普段は冷静で頭が切れる上官で、アンデルはそんなスウェヴを尊敬していたのだが、ことティルトールに関する事になると、その女副官はとたんに冷静さを失う。そうなるとそれまでの思慮深げな副官が、ただの暴君に変貌してしまうのだ。もちろん、そうなったスウェヴは、もう誰の手にも負えはしない。

 二人いるティルトールの副官のうち、一人はスウェヴ・イヴォーク少佐で固定されているが、もう一人は入れ替わりがけっこう激しいという話は聞いていたが、自分が実際にそのもうひとりの副官として赴任して見ると、アンデルはその理由をイヤというほど理解することになった。


「それで将軍を連れ出した賢者様は行き先を仰らなかったのか?」

 アンデルはうなずいた。

 ティルトールとアンデルがシドンの港湾地図を広げていたところに、ジナイーダは突然やってきたのだという。前触れもなく訪れるなど前例がなかったことから、何事かと訝るティルトールに対し、ジナイーダは黙って書簡を渡した。

「将軍は書簡を広げると、すぐにとても驚いた顔をなされました。そしてイルフランさまに『すぐに行こう』とおっしゃったのです」

「そしてそのまま二人は出て行った、と」

 うなずくアンデルの胸ぐらを、スウェヴは再び掴んだ。

「だからなぜお前は随行しなかったのかと聞いている」

「だ、だから出来なかったんですって」

「どういう意味だ」

 スウェヴは襟首を掴んだ手にさらなる力を入れたが、ある事に思い至ったのか目を見開くとその手の力を緩めた。

「まさかとは思うが……」

「そのまさかです。賢者様が私にルーンを使われたのです」

「それはまさに謀反であろう! お前はなぜ落ち着いて港湾地図など眺めていたのだ? ああ、こうしてはおれん。近衛隊を呼べ。弓隊の小隊を五、いや十ほど編成せよ。遠方攻撃を中心とした討伐部隊を編成させるのだ。我らもすぐに捜索に向かうぞ。ああ、それから部隊にいるルーナーを全てかき集めろ。賢者様相手では焼け石に水かもしれんが、いないよりはいい」

「いや、謀反とか反乱ではないと思います」

「なんだと? お前に何がわかるのだ」

「将軍ご自身がそう仰ってましたから。それから少佐に言づても預かってます」

「何? 言づてだと? なぜ先にそれを言わん」

「言わせてくれなかったのは少佐じゃないですかあ!」


 ジナイーダに足止めの為のルーンを所望したのは、誰あろうティルトール自身であった。彼はアンデルにこう言ったのだ。

「心配はいらん。なに、無口な友人から珍しくお茶の誘いが来ただけだ。ただ、ちょっと人見知りが激しい気難しいヤツでな。そういうわけだからお前には悪いが一人で行かせてもらう。それから、スウェブにはこう伝えておいてくれ」

 納得していないという表情を浮かべながらもスウェブは「将軍なら言いそうだ」と思った。

「それで、言づてとは?」

 続きを促されたアンデルはしかし、言い難そうに目を泳がせた。その様子をみてスウェブのこめかみにに再び苛立ちのスジが立った。

「とっとと言え」

「さ、最初に言っておきますけど」

「何だ?」

「言ったのは私じゃないですからね。将軍の言葉ですから。そこの所をよくご理解ください」

「そんな事はわかっている。さっさと言え」

「で、では、一言一句そのままに」

 アンデルは咳払いすると意を決したように唇をむすんだ。そして数秒たってからようやく口を開いた。

「スウェブに次の言葉を伝えよ。『夕食までには必ず帰る。今夜は二人きりで食事をしよう』」

「な、なんだとー! なぜ私がお前ごときと二人きりで食事をせねばならんのだあ!」

「将軍がそう仰ったんですって!」

「将軍がそんな事を言うはずがなかろうが!」

「ああもう、クレムラート将軍! お願いですから早く帰ってきて下さいよー」


 部屋の中で繰り広げられているであろう惨状をおもんばかってか、部屋の扉の左右に立つ二人の歩哨は、互いに顔を見合わせて肩を落とした。偉ぶらず、いたわりの言葉を駆けてくれる気さくなアンデルの事が、二人とも気に入っていたのだ。

「毎度毎度大変だな」

「お気の毒とは思うがな」

「この後ボロボロになったサリナー少尉が、オレ達に『恐ろしい思いをさせて済まなかったな』っていう姿が目に浮かぶようだ」

「何もして差し上げられず、申し訳ないのはこっちなのにな」

「まったくだ」

 部屋の中の喧噪はまだ終わりそうもなかった。



「どうかされましたか?」

 部屋につく直前で立ち止まったティルトールに、ジナイーダが声をかけた。

「いや、誰かの断末魔が聞こえたような気がしただけです」

「ああ」

 ジナイーダはなるほど、という顔をしてクスッと笑った。

「あれはちょっとイタズラが過ぎるのでは?」

「あの二人は相性がいいようですし、まあ大丈夫でしょう」

「いえ、私は二人きりでお食事、という約束の事を申し上げたつもりでした」

「なあに、スウェヴは辞退しますよ。いつもそうなのです」

「そうでしたか。でも、もし辞退されなかったら?」

「その時はその時です。大事を控えた息抜きにでもなれば幸いと言うところでしょうかな。正直に言って、今は彼らの手に余る状況ですからな。その中で良くやってくれているとは思いますが、その緊張を長く持続させておくわけにはいきませんからな」

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