第五話 シドンの丘 2/2

「これから、どうする?」

 十数隻もの軍船が錨を降ろしている港を見下ろすエイルに、隣に佇むテンリーゼンがたずねた。

 エイルはそれには答えず、自ら質問を投げた。

「リーゼはここがどこかわかるか?」

 テンリーゼンはうなずいた。

「港の形状から推察すると、おそらくあの港はシドン。ウンディーネの北にある主要港の一つ。ここからだと首都島アダンにもほど近い」

 そう言ってテンリーゼンが指し示す方向には、確かに島影があった。

「あれがアダンか」

 エイルは学校都市ハイデルーヴェンで出会ったゾフィー・ベンドリンガーの事を思い出していた。アダンはベンドリンガー家が経済支配を行っていると聞いていた。

「元気だといいな」

 エイルの心を読んだように、テンリーゼンがそう言った。主語のないその言葉に、エイルはうなずいた。

「そうだな」

 エイルはしかし、そんな感傷からすぐに抜け出した。

「ピクサリアまではどう行けばいい?」

「エルミナの港が、地震で崩壊した後の、状況がわからない。だから海路は未知数。私はここから南へ行く方法、つまり水路の方がいいと思うけど」

 そう言ってテンリーゼンはチラリとニームを見た。

「どちらにしろ戦況がわからないと、安全な経路も何もないと、思う」

 エイルはそうだな、と言ってうなずいた。

 そもそも今が何月何日なのかも不明なのだ。「ネッフル湖」という場所は、明らかに普通と違う空間にあった。もしもあそこが龍墓や龍の道だとすると、現世との時間に相当なズレがある。だから取りあえずエイル達が行うべき事は、情報の収集だった。

 エイルがその旨を提案すると、ニームは賛同した。テンリーゼンが何も答えないので確認すると「愚問」と一蹴された。要するに同意したということであろう。その証拠に先頭に立って丘を降りる道を歩き始めた。

 ニームとエイルは、慌ててその後を追った。


 まとめた長い銀髪を左右に揺らしながら先頭を歩くテンリーゼンの後ろ姿をみながら、エイルはある事を思い出して声をかけた。

 振り返ったテンリーゼンの顔を見て、エイルは久しぶりに胸がチクリと痛むのを感じた。

「どうかした?」

 振り向いたテンリーゼンは少し首を傾げてそうたずねた。当初に比べると見違えるほど人間的な受け答えをするようになったその様子こそが、胸の痛みの正体だと、エイルはもちろんわかっていた。

「お前、そのままの姿でいるつもりか?」

 エイルが言わんとする事がわかったのか、テンリーゼンは腕を組んで何事かを考えはじめた。

 その様子をみて、ニームが不審な顔をした。

「それはどういう意味だ?」

 もちろんニームはすでにテンリーゼンの状況は知っている。だが、どうやら本人同様、テンリーゼンの素顔がどのような状況を引き起こすのかをすっかり忘れていた様子だった。

 ドライアドやサラマンダ、それにウンディーネならば問題は無いのだろうが、シドンがシルフィード陣営にあるとやっかいだ。自国の女王であるイエナ三世の顔を知らぬはずがないのだから。

「ああ、その事か」

 少し間をおいてニームが合点がいったという風に手を叩いた。

「ふむ、ならば別段気にする事もあるまい」

 そして事も無げにそう言った。

「しかしな」

「お主の言わんとする事はよくわかる。だが、本人の気持ちはどうなのだ?」

「本人の気持ち?」

「そうだ。リーゼよ、お前はまた男装をして仮面を被りたいのか?」

 ニームの問いにテンリーゼンはかぶりを振った。

「ならばそのままで良いではないか。銀髪と金髪が同一人物などと誰も思わんよ。ましてやアルヴィンなど皆同じような顔であろうが」

「いやいやいやいや。本当にそっくりなんだって」

 エイルがそういうと、ニームは歩みを止めてエイルの前に立ちはだかった。

「では尋ねるが、お主はイエナ三世その人に目通りした事があるのか?」

「会うも何も、そこにいるじゃないか」

「私が言っているのは、エッダで歴史的な戴冠式を挙げたイエナ三世の事を言っておる。世が世ならの話はしておらん」

 もちろんエイルは「変わり身」であるイース・バックハウス本人とは面識はない。戴冠式にエッダに滞在していたニームの方が「イエナ三世」を知っているのは間違いないだろう。

「私に言わせれば、イエナ三世とリーゼは大して似てはおらんぞ。本人がイエナ三世を知っている人間の前で『我こそはカラティア朝シルフィード王国女王、イエナ三世なり』などと言い出さぬ限り、銀髪と金髪を混同したりはせんよ。人間は普段からそれほど注意深い観察眼をもって事に当たっているわけではない。もちろんイエナ三世のそっくりさんを探す事を仕事にしているのであれば別だがな」

「そう、なのか?」

 ニームにそう言われて、エイルはテンリーゼンにたずねた。だが銀髪のアルヴィンは首を横に振った。

「私が彼女に会ったのは、一度だけ。ネスティやリリアと、エッダを出発する時。それも、ほんの数分。そしてその時は」

「そうか。互いを似せるルーンがかかってたんだっけ」

 テンリーゼンはうなずいた。

 エイルも思い出していた。エルネスティーネは最初にウーモスで出会った時と、エルミナで永訣(わか)れた時では面影がかなり違って見えていた事を。イース・バックハウスにも同じような変化があったとすれば、ニームの言うとおり現時点でのテンリーゼンはイエナ三世と間違われる可能性は低いのかもしれない。

 だがごく最近、具体的にはツゥレフへ向かう軍艦イークナイブの甲板でテンリーゼンが自分はイエナ三世だと名乗った際は疑問視する人間は居なかった。もっともイエナ三世の側近とも言える数名にはさすがに通用してはないなかったが。


「本人が素顔でいたいと言っておるのだ。尊重してやれ」

「わかったよ」

 エイルはニームの進言を尊重する事にした。とはいえ無駄に素顔を露出しても得るものより失うものの方が大きいのは確かであろう。エイルも情の部分ではテンリーゼンの気持はよくわかる。だがそれ以上に「自分」も含め、まだ気を抜くべき時ではないと思っていた。

「でも、できればその、お前のルーンで……」

「わかっている。存在感を消す精霊陣の結布をつくってやるから、町へ入ったらそれを使えばいい。ルーンと違い精霊陣なら基本的に効果に対する時間制限はない。安心するがいい」

 エルミナの時がいい例だが、敵に回すとやっかい極まりない相手だが、味方になるとニームは実に頼もしい相手であった。

 そんな事を考えて、エイルは苦笑した。

 それもそのはずだ。何しろその相手とは正教会の伝説である賢者なのだ。しかもただの賢者ではない。たった四人しかいない大賢者の一人である。亜神を除くと最高の力を持つルーナーと言っていいだろう。エイルが知る限りタ=タンという一族は「人の筆頭」であるらしいが、ならばニームの場合は文字通り人間のルーナーの中では最高位と言っていいのであろう。


「それよりも」

 ニームは立ち止まるとまっすぐエイルを見つめた。

「人の心配もいいが自分の心配もしたらどうなのだ?」

「え?」

「え? ではない。お主はそのままの姿で人前に出るつもりなのか?」

 ニームにそう言われてもエイルには何を指摘されているのかがすぐにはわからなかった。

「まあ、無理もないのかもしれぬな」

 エイルが本当に何も気付いていない様子なのを見て、ニームは小さなため息をつくと独り言のようにそう言った。

「ここで少し止まれ」

 歩き出したばかりだが、ニームの一言で一行はそこで小休止をとる事になった。理由を尋ねるまでもなく、それが必要に迫られた停滞である事がエイルにもテンリーゼンにも理解できた。

 ニームは懐から自分の顔ほどの大きさの木綿の布を取り出すと、同じく懐から出した筆記具を使って何やら書き始めた。それが精霊陣である事はすぐにわかったが、驚いたのはその美しさであった。そして驚くほど速い。

「まずはお主からじゃ」

 素人目にも複雑な、つまりは高度な精霊陣であったが、ニームはそれをあっと言う間に書き上げてエイルに差し出した。

「これを頭に乗せるがいい」

 エイルが言われるままに結布を頭に乗せると、ニームは杖セ・レステ取り出し、頭頂部を結布の上に軽置いた。

「エリト・ルルティア・ムーティ」

 短い詠唱に呼応した精霊陣がぱっと輝き、ルーンが発効した事を示した。

「あとはその精霊陣を肌身離さず持っておれ。髪も目も茶色で、ただのデュナンにしか見えん」


 ニームにそう言われるまで、エイルは「自分の事」をすっかり忘れていた。精霊陣は気配を消すルーンが発動するものとばかり思っていたからだ。

 冷静どころか、そんな事にも気が行かぬほど呆けている自分にエイルは愕然としていた。同時に無意識に自分に課していた「冷静であらねばならぬ」という呪縛が解けるのを感じた。言ってみれば緊張の糸が切れたような状態であろうか。

 その証拠に体から力が抜けた。立っていられず、膝を付き、崩れそうになる上体を手で支えると、その手に滴が落ちるのが見えた。

 雨ではなかった。冷たくないのだ。むしろ温かかった。

 その液体が自分の目から滴っている事を理解した時には、視界がぼやけていた。そして無意識に叫んでいた。

「チクショー!」

 後悔とか、悲しみとか、悔しさ。そんな一つの言葉で表せない感情が、その一言に集約したかのようで、それ以上、それ以外の言葉は出てこず、あとはただ嗚咽を堪えるだけしか出来なかった。

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