第五話 シドンの丘 1/2

 覚醒は一瞬であった。

「うわっ」

 小さな悲鳴とともに目覚めたエイルは、自分を見下ろす心配そうな二人と一匹の見知った顔を認識した。

 だが安堵よりも先に反射的に恨み言が口をついた。

「もう少しマシな起こし方があるだろ?」

「第一声がそれとは心外だな」


 金髪の小柄な少女は、そう言いつつもエイルに手拭いを差し出した。

「言っておくが揺すってもつねっても起きなかったのだからな。それで仕方なく次善の策を講じたまでだ」

「いやいやいや……」

 揺する、つねるの次が水をぶっかけるって、それはちょっとどうなんだ? と思ったものの、エイルはそれを口に出すことはせず、座り込んだまま小さなため息をつくと差し出された手ぬぐいを素直に受け取った。

 ゆっくりとそれで顔と髪の水分を拭いながらも、それとなく周りの様子を伺った。


 そこは小高い丘の頂上と思しき場所であった。そして差し迫った危険がな場所であることはニームの様子で理解した。

 右手にはエイル達がいる場所に続く細い道があり、それは少し行くと林の中に消えていた。反対側、つまり左手は崖のようだ。視界が開けていて、陸地ではなく向こう側には海が見えた。

 風はない。気温は低めではあるが頭から水を被っても凍えるほどではない。したがってその場所の緯度が極端に高いわけではないと知れた。

 エイルはゆっくり立ち上がると丘の端、つまり海の見える方へと歩を進めた。


「港町がある」

 座っていると海しか見えなかったが、ニームの言う通り、崖の端に近づくにつれそこが港町にほど近い崖の上である事が判明した。同時に普通の港町ではない事も理解した。

「港町というより軍港みたいだ」

「うむ。そうかもしれん」

 投擲機を何門も据え付けた軍船が何隻も停泊していた。対して一般の船はさほど見えない。軍港とは言わぬまでも軍が駐留している港である事がわかる。


 海の色が暗かった。反対に水平線で別れている空は白い。雲で覆われているのだ。暗くはないが、影が出来るほど明るくもない。したがってエイルはまだ今現在の時間の感覚がはっきりしなかった。

 わかっているのはそこに居るのがエイルとニーム・タ=タン、テンリーゼン・クラルヴァイン、そしてセッカ・リ=ルッカの三人と一匹である事、そして眼下の港町には見覚えがない事だった。


 ふわりと小さな風が生まれ、すぐ横に人の気配がした。テンリーゼンがすぐ側にやってきたのだ。だが、そのすぐ後にエイルに声をかけたのは、そのテンリーゼンではなく、後方にいたニームだった。

「意外と落ち着いているのだな」

 その声色にはいつものニームのやや不遜な態度は微塵も感じられず、むしろ遠慮がちな雰囲気すら漂っていた。

「なんだ? オレは泣き叫んで取り乱したあげく、激情に任せてこの辺りを焼き払わないといけなかったのか?」

 軽口のつもりであったが、エイルの言葉に対する反応がなかった。

「どうした?」

 思わずそう声をかけると、ニームはバツが悪そうに視線を外した。

「いや、お主が目覚めるのを待っている間に、そこのケダモノに事の次第を聞かされてだな、なんというか、その、私も同じような経験をしているので、つまり、早い話が……」

 エイルはニームの態度の理由を悟った。同時に軽い不快感がこみ上げる。

「まさか同情してくれているのか?」

「違う!」

 やや毒のあるエイルの言葉に、ニームは即座に反論した。


「同情などではない。これは決してそんな感情ではないのだ。ただ、お主にかける言葉を持っていない自分の無力さが悔しくて、申し訳なくて、居たたまれなくて仕方がないのだ」

「だからオレに水をぶっかけたわけか? ずいぶんだな、おい」

「だからあれは……いや、すまん。何度も声をかけるより、お主の顔の上にルーンで水を生成するのが手っ取り早いと思ったまでだ」

「大賢者さまは能力の無駄遣いが過ぎませんかね?」

「だから何度もすまんと言っておろうが」

 確かにその声は本当に済まなそうであった。エイルは不覚にもクスっと小さな笑い声を漏らした。そしてそんな自分に愕然とした。


 そう。ニームの言葉を借りるまでもなく、エイルは自分でも驚くほど冷静であった。ほんの少し前にエルデと別れた、いやエルデが自分の元を去った事に対して、激情が湧いてこないのだ。むしろ凪いだ海のように鎮まってさえいる。自分でも違和感を覚える程だ。ニームが疑問を投げてくるのも無理はないと思えた。

「ニームは、さっきまで、泣いていた」

 すぐ横でテンリーゼンがそう言った。

「え?」

 その言葉の意味がすぐに理解できず、エイルは不思議そうにテンリーゼンを見やった。

「エイルが、エルデと別れた話を、セッカから聞いて」

「そ、そうなのか?」

 テンリーゼンは大きくうなずいた。

「それはもう、号泣だった」

「ちょっとそこ、号泣は言い過ぎであろう、号泣は」

「じゃあ、爆泣き?」

「そんな言葉ないから。あってもそれって爆笑と一緒で、一人じゃなくて大勢で一斉に泣くことだから! つまりそんな現象ありえないから」

 エイルはニームの混乱振りに心が安らいでいた。根が真面目であることはわかっていたが、テンリーゼンを叱責する際にもわかりやすいほどその性質が出ていておかしくなった。と同時に感謝のような気持ちも芽生えていた。

「ありがとう」

 エイルは振り返ると、顔を真っ赤にしたテンリーゼンにそう言った。よく見ると目が赤い。号泣か爆泣かはともかく、泣いていたのは間違いなさそうだった。

「え?」

 エイルがかけた言葉の意味を推し量りかねたニームは、きょとんとした顔でエイルとテンリーゼンの顔を交互に見比べた。ひょっとしたらテンリーゼンが自分に聞こえないように何か別の事をエイルに吹き込んだのではないかと考えたのだ。

「お前はオレに掛ける言葉がなくて申し訳ないって言ったけど、泣いてくれたそうじゃないか」

「ば、爆泣じゃないわよ。号泣でもないし!」

「うん。でも泣いてくれたんだろ? それがうれしいと思ったから礼を言ったんだ。お互いを知るには言葉にして言わなきゃわからないって言うけどさ。確かにそうなんだけど、それでも言葉に出来ない気持ちや、言葉にしたらかえって伝わらないような思いっていうのもあるんだなって、オレも知っているから」

 エイルはそう言ってニームに笑いかけた。

「お主……」

 ニームはエイルに微笑み返した。

「少し変わったな」

 変わったかどうかはエイル本人にはわからなかった。だが、感情を爆発させたいという思いがまったくない事については不思議だと感じていた。意識を失う直前、あるいは直後にエルデもしくはクロスによって強い感情を抑制するルーンや呪法を掛けられた可能性はある。だが、おそらくそうではないだろうとも思っていた。

「そうだ、一つ聞きたいんだが」

 エイルはニームの足元にいるクロネコに声をかけた。

「素朴な疑問なんだけど、なんでお前がここに居るんだ?」

 セッカはいい質問だと言って、ニヤリと笑った。

「【白き翼】に代わって、炎精のお目付役をしろと命令されたのさ」

「クロスにか?」

 セッカはうなずいた。

「ついでに言うと、もう帰ってこなくていいとも言われた。要するに私はお払い箱さ」

 エイルはクロスの真意を測りかねたが、拒否する理由も浮かばなかった。セッカが自分達に危害を加えるとは思わなかったからだ。そもそもクロスも最初からエイル達に危害を加えるつもりはなかったに違いない。エイルはクロスとの会話を思い出して、そう考えた。

「なるほどわかった。ところで、これから先はずっとクロネコの姿なのか?」

「ここに飛ばされたときは人間の姿だったんだけど、ほら、最初にアンタに会った時の姿さ」

 エイルはエルミナの港で一番人気のカフェで出会った賢者の姿を思い出していた。濃い金髪を持つ、灰色が挿した青い目のデュナンの女だ。少し吊り目だが、小振りな形のいい鼻のせいでむしろ可愛らしく見えていた事を覚えていた。

「あのデュナンの給仕の姿か」

 だがセッカは首を横に振った。

「そっちじゃなくて、その本人が来たときに変わっただろ?」

「ああ……」

 もちろんエイルは覚えていた。姿を真似た本人がやってきたため、セッカは咄嗟に違う姿に変わったのだ。栗色の髪と瞳を持つ、エルデとそっくりの姿に。

「よかれと思ってその姿になってたんだけど、そっちの銀髪のちびっ子が姿を変えないと殺すと脅すもんだから、仕方なくクロネコのままって訳だよ」

「そいつは良かったな。目が覚めたときお前があの姿でいたら、リーゼじゃなくてオレがお前を焼き殺してた」

 エイルの言葉にセッカは前身の毛を逆立てた。

「おいおい、物騒な事を言うなよ。私はよかれと思ってそうしたんだぞ」

「冗談だ。でも約束してくれないか。オレの許可無しで、オレの知り合いの姿にはならないでくれ。なるならあのエルミナの女給仕の姿にしろ」

「わかったよ」

 セッカは特に不満はない、といった顔でうなずいた。

「その、エルミナの女給仕とやらの姿とは、どのようなものなのだ?」

 単純な興味本位なのだろう。ニームが二人の会話に首を突っ込んできた。

 セッカがチラっとエイルの顔を伺うと、エイルはうなずいて見せた。

「じゃあ、ご要望にお応えして……こんな感じかな」

 まさに一瞬で、クロネコは黒いローヴを纏った濃いめの金髪碧眼の女デュナンの姿になった。

「ほう、見事な能力だな」

 ニームが言うとおり、何度見ても信じられない。肉体があってないような完全なエーテル体だからこそ出来る芸当なのだろう。

「【月白の森羅】と言ったか。ケダモノに対してその名を呼ぶのはいささか抵抗があるが、その姿ならば特に違和感はないな。ふむ。しかもデュナンにしてはかなり整った顔立ちをしているではないか。これは奇っ怪極まりない喋るクロネコより、ずっとその姿でいる方がよいのではないか?」

 ニームはセッカの周りをぐるりと回ってその姿形を吟味すると、改めて感心したようにそう言った。しかしテンリーゼンが即座に反論した。

「その姿もダメ」

「ほう。なぜじゃ、リーゼ? 猫の姿よりも人の姿の方が微妙な気持にならずに良いではないか」

「なぜでも。とにかく、女の子の姿になるのは禁止」

「ああ、なるほど」

 ニームは少し考える様子を見せると、セッカに尋ねた。

「念のために尋ねるが、男の姿にもなれるのだな?」

「性別は関係ないよ。それから念のために言っておくけど、どちらにしろ模写は長時間続けられないからね」

「使えんな。ではケダモノの姿のままでいるがいい」

 ニームは少しガッカリした様子を声に滲ませながらそう言った。

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