第八十六話 暴走と暗転 4/5

「どうする? 二人でありったけの力を放って、戦うという選択肢も、ある」

 精霊会話でテンリーゼンがささやく。

「エイル、お前が本当にそうしたいなら、私は喜んでこの力を使おう」

 テンリーゼンのその一言で、エイルは強くかみ合わせた歯が折れる前に自らの顎の力を抜くことができた。あまりに淡々としたその申し出は、エイルの頭を冷却する効果があった。

「ありがとう、リーゼ」

 呼吸を整えながら、妖剣ゼプスの柄に手をやったエイルは、改めてクロス・アイリスをにらみ据えた。

「でもそれって、無駄死にするだけだよな」

 テンリーゼンは小さくうなずいた。

「その、可能性は限りなく、高い」

「なあ、リーゼ。こんな時、リリアさんならどうするんだろうな」

 アプリリアージェの名前を挙げたのは窮地に陥って精神的に逃避したわけではなかった。エイルはアプリリアージェの名前を敢えて出す事で、できる限り冷静に「次善策」を考えるだけの精神的余裕をつかみ取ろうとしていたのだ。

「リリアなら、多分話を、する」

 答えなど求めていたわけではなかったが、テンリーゼンはエイルにそう言った。

「少し違うか。 『話』ではなく、『会話』だ。リリアが私よりも強い点は『言葉』を武器として使える事だと、私は思っている」

「なるほど」


 言われてみればその通りかもしれない。エイルはテンリーゼンの言葉に心から納得すると同時に、多少の絶望も噛みしめた。アプリリアージェは剣技でも弓の腕でも突出したものを持っている。それはもう、その存在自体が戦術と呼べる程の力と言っていい。だがそれに加えてアプリリアージェにはさらなる武器がある。頭脳だ。もちろんテンリーゼンの頭脳もその明晰さでアプリリアージェに劣るとは思えない。だが両者には決定的な「違い」があった。それが「会話」である。「会話力」と言い換えてもいい。相手と何気ない会話をする事で、相手を知りその秘密や隙や動揺を引き出す事ができる話術を、あの目尻が垂れた人の良さそうな笑顔の下に隠し持っているのだ。その洞察力と五感で得た情報を処理する能力が相互補完を行い、状況把握をした上で打開策を高速で編み出すのだ。


 そうやってアプリリアージェの事を思い出せば思い出すほどエイルの絶望の淵は深くなっていった。なぜなら今この場所にアプリリアージェ・ユグセルはいないからだ。

 テンリーゼンはもちろん、エイルではその代わりになりようもなかった。

 だが。

 エイルはそこまで考えて改めてクロスが抱きかかえている瞳髪黒色の「妻」を見た。

(いるじゃないか)

 そう。あの歩く分析機械のようなアプリリアージェと互角、いや本人に言わせると「あんなんと比べんといてんか。ウチの方が何倍も上やろ?」という事らしい。その言葉を信じるなら、それはつまりこの場にアプリリアージェ以上の人間が存在する事に他ならない。そしてその頼れる人物は疑いのようのない「味方」なのだ。剣の柄から手を離し、目を閉じて後ろを向き、その首筋を晒していても熟睡できるような、そんな相手なのだ。


「エルデが、任せろって言ってた」

「私もそれがいいと 思う。力を解放するのは簡単だけど……」

「ああ」

 エイルは力強くうなずいた。

「それは最後の手段だな」

 そして少し間を置いて付け加えた。

「エルデに任せておくのが多分最善策なんだろうな。でもオレは、もう黙ってエルデに頼るつもりはない」

 エイルはそれだけ言うとクロスから視線を外し、ちらりとテンリーゼンの表情を伺った。テンリーゼンはまっすぐに前、つまりクロスを見据えていたが、その表情を見てエイルは思わず(え?)と小さく声を上げかけた。もちろんそこにはエイルが驚くだけの理由があった。テンリーゼンは微笑んでいたのだ。微笑というよりはニヤリと笑っていると表現した方が適切であろうか。不敵な雰囲気が漂っている。

 エイルはその表情を見て今はなきテンリーゼンの双子の妹の笑顔を想起してしまった。エルネスティーネの笑顔と重なったしまったのだ。もちろん厳密に見れば二人の笑顔は全く違うと言っていいだろう。だがそこは姉妹、しかも基本的にそっくりな一卵性双生児なのだ。無意識のうちに脳内で多少の違いは補完されてしまう。髪の色が金と銀であろうが、長かろうが短かろうがそんな事は問題ではない。テンリーゼンが笑顔を見せ、それはエイルがよく知っている面影と近似したものであるならば、それはエイルの心を揺さぶるには充分なものだった。

 だからエイルは、テンリーゼンが浮かべた「笑い」が一体何に対してのものなのかを考える余裕を失っていた。従って耳元でささやかれたエーテルトーク、精霊会話でテンリーゼンが告げた言葉の意味を理解するのに数秒を要した。

「私が合図をしたら、いいと言うまで、息を止めろ」


「え?」

「できるな?」

「そりゃ出来るけど」

「私は空精。風というよりも、実際の所は空気を操るエレメンタルだ。ここが地上である限りその場は空精が支配できる」

「つまり?」

「空気を一瞬で毒に変える」

 もともと感情が反映されにくい精霊会話を通じ、テンリーゼンの言葉がエイルの耳元でそうささやいた。

 空気を毒に変えるという言葉を文字にして、その意味を追うエイルは、頭の中に浮かんだものをそのまま疑問として尋ねる前に、持っていた知識で一つの憶測を導き出した。

 だがそれを肯定したのはテンリーゼンではなく、クロス・アイリスであった。そもそもエイルはまだ誰にも何も尋ねてはいないのではあるが。


「この付近の空間を酸素や一酸化炭素だけで覆ってしまっても、あまり意味はないと思うよ」

 クロスの言葉に、テンリーゼンが大きな反応を見せた。エイルにしてもテンリーゼンが特定の者に対して送った精霊会話がクロスに聴かれていたことに驚きを隠せなかった。

 いや。もしかしたらテンリーゼンはクロスにも、いやここに居る全員に対してエーテルトークを流していたと考える方が正しい気がした。自分だけに送られているとエイルが勘違いしていただけかもしれないのだ。もっとも話の内容を考えれば「そんなはずはない」のは間違いないはずであるのだが。

 エイルのその疑問は、テンリーゼン自身によって裏付けられた。つまり「傍聴」されていたのである。

「驚いた」

 テンリーゼンは自分を見つめるエイルにそう言うと、唇を噛んで見せた。テンリーゼンのそんな感情的な仕草も、珍しい事だった。テンリーゼンが受けた驚愕の度合いがわかろうというものだ。


 そんなエイル達の心の中を見透かすようにクロスが言う。

「驚くには値しないよ。僕は君たちとは生物学的な種が全く違う。そうだね、どう言えばわかりやすいだろう。そうだ、この場のエーテルは全部僕の支配下にあると想像してごらん。そして理解力を総動員しつつ想像力を働かせれば、君達が驚いている事が実は驚くに値しないということがわかると思うよ。もっとも本来僕は君達に想像力を働かせることを推奨しているわけでもましてや強要しているわけではないんだ。もっともっと先を見て欲しいという事なんだよ。想像ではなく予想だよ。と言っても君達が僕の考えに辿り着くかどうかは不確定要素が多すぎて僕にもそれこそ予想は付かない。だから説明をして手間を省くことにした方がいいよね。で、僕がいったい何を言いたいかわかるかい? つまりここで君たちの持つ常識を僕に当てはめるのは大きな誤算を生む事になるよ、と忠告しているんだよ。簡単に言うと君達が思っているようには絶対にならない、という意味だよ。ああ、そうそう。この場合の忠告は僕に対して敵対行動をとるのはやめた方がいい、という意味の忠告であってそれ以上でも以下でもないんだ。その事自体が全く無意味だとは言わない。ただ、今のところは僕は君達を排除対象として考えていないから、そもそも君達が僕に敵対行動を取る必要は無いんだよ、と言いたいだけなんだ。大前提としてね。それから無意味ではない、と言う二重否定を使ったのは、そうだね、君達が敵対行動をとる事によって僕はそれを無効化するためにちょっとだけ時間を使わなくてはならないという、つまりは僕に無駄な時間を消費させる程度の意味はある、という程度のものだよ。そう、その程度の事でしかない。もう一度言うが、君達が炎精と空精であろうがただの乳飲み子であろうが同じ事だよ。君達は僕の体にも、もちろん心にも傷どころか一片の曇りすら付ける事は出来ないんだからね。とは言え実は僕も少しばかり君達、いや空精に対しては驚いているんだよ。まさか空気中の成分配合を瞬時で変える程の力があるとはね。そんな事ができるとしたら、多分一定の範囲を真空状態にする事もできるんだろうね。人間同士の戦いに於いて、その能力は圧倒的かつ決定的な暴力足りうる。その力があれば、敵兵など何人居ようが次の瞬間にはその場所が遺体置き場になるに違いないからね。そこは僕の予想を大きく上回っていて、ちょっと反省をしている。もちろん見くびっていたわけではないよ。なぜなら僕は君達をそもそもある方面からの基準で値踏みしていたわけではないのだからね。そもそも僕は四人のエレメンタルの中でもっとも戦場支配能力が高いのは空精だと考えているんだ。何しろ」

「そこまでや」

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