第八十六話 暴走と暗転 5/5

 クロスの言葉を遮ったのはエルデだった。

「アンタの戦力考察はどうでもええから、取りあえずウチを降ろしてくれへんかな」

 エルデは嫌味をたっぷりと上乗せした不機嫌な声色でクロスにそう言った。

「これは失敬。でも僕の戦力分析はまず間違いないところだよ。もう少し聴けば、君も興味を持ってくれるんじゃないかと思うんだが」

「だから、そこまで。アンタと話していると気が遠くなる」

 クロスの手から逃れて地面に両足を付けたエルデは、チラリとエイルの方を見て一瞬キッと眉根を寄せると、すぐにクロスと向かい合った。

 それが「余計な事はするな」という念押しであることはエイルにもわかった。

 だが、エイルはもうエルデの言いなりになるつもりはなかった。理由は簡単だ。エイルはもうエルデを信用していなかったのだ。

 このところどんよりと浮かぶ「違和感」が理由付けの証拠のようなものなのだが、それが明快なものではなく、不確かで、むしろ曖昧で理由にすらなりにくい類に属するのだということはエイル自身も重々理解している。だがそれでも本当に重要な事をエルデはエイルに隠している事は間違いないと確信していた。要するに勘なのだ。おそらくは今、命に関わるほど重要な場面に直面していることは間違いない。しかも自分自身だけでなく、テンリーゼンやニームをも巻き込む可能性が高いと知りつつも、それでも盲目的にエルデの言うとおりにおとなしくしているつもりはなかったのだ。

 違和感を覚えたら、従わない。問いかける。いや問い詰める覚悟で行動するつもりだった。


「では話題を変えよう」

 クロスはエイル達にまったく関心が無いといった様子でその長身をかがめ、片膝を突くと視線の高さをエルデのそれに合わせた。

「何があったのか教えてもらおう。三千年振りに再会した君がここまで大きくそして美しく成長していたのは軽い驚きだったよ。レティナも美しい女だったが、娘の君は彼女を間違いなく越えている。だからもっとよく顔を見せて。そうだ。ふむ、母親はもう少し線が細い感じだったが、君の顎の線は実にしっかりしている。その辺は父親譲りと言ったところか」

「【黒き帳】」

「その名で呼ばれるのは嫌だな。婚約者同士じゃないか。僕のことはクロスとお呼び」

 エルデは一瞬頬をひくつかせたが、何かを我慢するように小さく息を吐くと素直にクロスの名を呼んだ。

「ほな、クロス」

「何だい、エイル」

「その話は今はしとうない。それからこれはお願いやない。命令や」

「おやおや」

 クロスは目を見開いて大げさに両手を広げて見せた。

「三千年振りの再開なのに、いきなり僕に命令かい。でもまあ……」

 そこで言葉を切ったクロスは、ゆっくりと首を曲げてエイル達を見回した。

「君のその命令の意味するところが、僕たちの会話を彼らに聴かせたくないという事なら、彼らの耳を塞いでおけばいいよね」

 その言葉を聞いたエイルが、会話に割って入った。

「待て!」

 クロスはその声に反応してエイルを見つめ、眉をひそめた。


「聴力を奪わないでくれ。オレは話を聞きたい。というか、頼む。いくつか質問させてくれ」

 エイルは必死の形相でクロスに懇願した。そう、それは懇願だった。だがクロスはすぐにその顔から表情を消した。それがどういう事か、亜神や一部の賢者を見てきたエイルにはもうわかっていた。エイルの事など眼中にない、つまりエイルの訴えを聞くどころかその内容自体に自らの髪の毛の先ほどの興味すらないという意味なのだ。

 だから返事を待たずにエイルは続けた。問いかけた。いや、叫んでいたと言うべきであろう。

「お前達が婚約者ってどういう事だよ」

 エルデに対し、クロスが一人で婚約者だと主張していた時点ではまだ何とか耐えられた。

「わけを話せ!」

 だが、目覚めた……つまりは意識のあるエルデに向かってクロスは「婚約者」と呼びかけ、それに対してエルデは否定はせず、反論もなく、得意のツッコミすらしなかったのだ。

「説明しろ、エルデとオレは……」

 エイルの声は、しかしそこで途切れた。いやより大きな声が被せられたのだ。

「やかましい」

 それはエルデの声だった。エイルの叫びはクロスではなく、エルデが封じた格好だ。

 エイルは批難の姿勢をエルデ向けたが、相手は顔を背け、エイルと目を合わせようとはしなかった。それを見たエイルは瞬間的に激昂した。その刹那はエイル自身、何に対して怒りを覚えているのかもわからなかった。ただ腹立たしいという感情が沸騰したのだ。今まで信じていたもの、大切にしていたものを根こそぎ引き抜かれ、地面に叩きつけられ、挙げ句の果てに泥靴で踏みにじられたような、そんな理不尽に対する単純な反動、すなわち怒りだった。


 興奮のあまりうなり声すら上げられないエイルの感情の渦は、歪な形になってその場に発現しようとしていた。そして怒りに我を忘れそうになっていたエイルは、そこで初めて自分が「しでかした」事を悟る事になった。

 エルデに言われた言葉が脳裏に蘇る。

「何があっても、絶対に負の感情に支配されたらアカン。ええか、何があってもやで?」

 そう。

 耳にタコができるのではなかと思われる程しつこく、事あるごとにエルデはそう言い続けていたではないか。そうしないと……こうなってしまうのだ。

(ああ。エルデはこの事を言っていたんだっけな)

 しまったと思った時にはもう遅かった。そしてほぼ同時にエイルは……おかしな表現だが……自分の自我が霧散するのを「認識」した。すぐに視界が狭小化し、程なく消失した。そこにあるのは赤い闇。そして音。

 いや、それは人の発する音声、つまり声だった。

「エイル!」


 それが自分の名である事。誰かが自分を呼んでいる事。そしてその誰かとは自分がよく知っている人物の声である事が、人ごとのようにわかった。その声は耳ではなく、内なる「何か」に響いて、そして何かが苦しくなった。

 だが、そこまでだった。

 エイル・エイミイの外界に対する「認識」はその次の瞬間には全て途絶え、赤かった視界は漆黒で塗りつぶされ、そこでエイルの感覚の全ては途切れた。

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