第八十六話 暴走と暗転 1/5
目に見えるか見えないか。
いや、その動きが捉えられるかどうかと表現すべきであろうか。テンリーゼンの速度はそれほどのものだった。
エイルが持つ生来の能力に加え、幼少期より鍛え上げてきた動体視力をもってしても残像を認識できるだけで、その動きによる軌道は捉えられなかった。
それほどの速度があれば、テンリーゼンがネッフル湖の解呪士を名乗る高位ルーナー……まちがいなくルーナーだ……の首をその双剣で掻き切る事はたやすい事に思えた。
普通に考えればそうであろう。エイル自身も、一瞬後にネッフル湖の解呪士が血しぶきをあげて崩れ落ちるであろうと思っていた。
いや、それら一連の光景を「想像した」のだ。
だが事実は肉眼で捉えきれない速度より上位にある力の存在を誇示したのである。
エイルには予想とは全く違う光景を目にしていた。
双剣を振りかざそうとした瞬間にその動きを完全に止めたテンリーゼンの姿がそれであった。
エイルが次に予想したのは、そのテンリーゼンに対して行われるであろうネッフル湖の解呪士による「制裁」だった。
そして同時にエイルは悟ったのだ。
ルーンを詠唱せずに特定の相手の動きを止めることができる者が……少なくともエイルにはルーンの詠唱は聞こえなかった……「普通ではない」事を。
エルデを抱きかかえているアルヴもまたエルデと同じなのだ。
同族。
そう。誰でもない、そのアルヴはエルデ・ヴァイスと同じ、つまり「人間ではない」のだ。
ではいったいどのような亜神なのか?
かつてエルデがこう言っていた。ファランドールで最高位に立つハイレーンは自分なのだと。それはつまり人と亜神を含めてもエルデが最高位だという事だ。言い換えれば目の前のアルヴの姿を借りた亜神はハイレーンではないという事になり、攻撃系を得意とするエクセラーか、強化系防御系を得意とするコンサーラかのどちらかという事になる。それはすなわちエルデが使う強化ルーンや攻撃ルーンなど比べようもないほど強力なルーンを自由自在に使えるという意味を持つ。
つまり空間固定能力一つとってもエルデより強力で、そしておそらく怒りに捕らわれているであろう今、殺意を向けてくる相手に寛容な対応など期待する方が間違っているという事になる。
エイルは髪の毛一本動かす事ができず、目の前でテンリーゼンが白い炎に包まれたかと思う間もなく、一瞬で灰にされるのをただ見守るしかなかった。
一度は間違いなく死んだと思っていた人が、五体満足で生きていた事を知ったときの喜びは、再会の驚きを塗り替える程大きな歓喜をエイルにもたらした。
だからこそテンリーゼン・クラルヴァインという人を、もう二度と失いたくはない。
一度目の時に「その場」に居られなかった事への苛立ちと後悔で、どれだけ自分自身を責め続けたかわからない。だがその場に居なかった事が、実はどれだけ幸せなことなのかをエイルは今こそ思い知った。その場に居合わせたものの、ただ「それ」を眺めているだけ。それは気が狂う程の感情の爆発を伴うものなのだと、エイルは初めて知った。
散りゆく灰を見つめて……いや、見続けさせられて、エイルは正気を失いかけていた。
だが。
エイルは鈍く、固い音を聞いた。
そしてその次の瞬間に顔に温かいものが降り注ぐのを感じた。その異常なな感覚が意識を覚醒させた。
(え?)
そして改めて目を懲らすと、そこに広がる光景に、エイルは総毛立った。エルデを抱きかかえて超然と立っていたネッフル湖の解呪士の首から血しぶきが降り注いでいた。そして離脱する際にテンリーゼンに頭を蹴られたのであろうか、長身のアルヴはエルデを抱えたままでゆっくりと後方に倒れ込むところであった。
エイルは自分の想像した映像に自ら堕ちていた事にその時初めて気付いた。
現実ではテンリーゼンの速度がネッフル湖の解呪士のルーンに完全に勝っていたのだ。その事を認識するのとほぼ同時に、体の拘束が解かれたことを知った。それは術士であるネッフル湖の解呪士の意識の喪失を意味していた。
「エルデ!」
エイルは弾かれたようにエルデに取り付いた。返り血を含んでじっとりと気持ちの悪い服越しに抱きつき、むしり取るように倒れたアルヴから奪い取った。
「ちょ……」
事態の把握がエイルよりも遅かったニームが、ようやく声を上げた。エイルはニームに向かい、声をかけた。
「戻ろう」
エイルの声に反応したニームはしかし、エルデの姿を見て目を大きく見張った。
「すまん、血だらけで」
エイルはニームが自分とエルデの返り血による血まみれの姿を見て驚いているのだと思い、改めて抱きかかえたエルデに視線を移した。
「ええ?」
エイルはそこに信じられないものを見た。
「血が」
その異常な光景を見た脳が、エイルの全神経に警戒を発した。だがそれは恐怖に対処できる状況ではなく、エイルの感覚の硬直を誘発する事になった。
人間は自分の常識や知識に照らし、ありえないものを目の当たりにすると思考が止まる事がある。今のエイルはまさにそれであった。
顔を上げるとニームがいた。だが目の前のニームはエイルを見ていなかった。その瞳には涙が溢れ、悲鳴を上げまいと両手で口を閉ざしているのがよくわかった。そして視線は……視線はエイルの向こう側に固定されていたのだ。
「風のエレメンタルが本気で動くとこの僕でさえ見えないんだね」
背後の大きな存在感が、そう語りかけてきた。
背中が感じる気配でわかった。いや、声でわかる。知っている声なのだから。
エイルは反射的に振り返るとエルデを片手で抱えなおし、腰に差してある妖剣ゼプスの柄に手をかけた。
だが。
そこまでだった。
同じ事が再び起こったのだ。
空間軸の固定。
そしてそれは目の前の人物が唱えたルーンであることも、もちろんわかっていた。
前回と違うのは、口を利くことができたことだ。
「どうして?」
どうして生きているのだ、と問いかけようとしたが、口から出たのはそれだけだった。喉が渇いていて、言葉がちゃんと出なかった。全身の毛穴が開ききっているような感覚がある。それは根源的な恐怖からくる生理現象と言えた。
「それはどうして僕が生きているのか、という問いかけかな?」
目の前のネッフル湖の解呪士は、薄ら笑いを浮かべてエイルを見下ろしていた。当然エイルはその首筋に視線を這わせる。だがそこには期待する傷は存在しなかった。
「強化ルーンか」
思いついた考えをエイルが絞り出すように言うと、ネッフル湖の解呪士は残念そうな顔で首を横に振った。
「左右の頸動脈をスッパリ切られて血の噴水をまき散らした後に自動的に完全修復するなんていう強化ルーンはこのファランドールには存在しない。少なくとも僕が知る限りはね」
声の主はそう言ってから視線を違う所に移し、言葉を続けた。
「君は知っているかい?」
それはニームに投げかけられたものだった。
ニームは首を左右に振った。
「人の筆頭、コンサーラの長とも言えるタ=タンの王ですら知らない。つまり存在しないと考えていいということだろうね。それに蛇足かもしれないけど敢えて言っておくけど、もちろん回復系のルーンでもないよ」
ただの修復でないことはエイルにもわかっていた。なぜならエルデと自分の体にかかっていた血が、綺麗に消えていたからだ。つまり血がその持ち主に戻ったという事なのだろう。あの出血量だ。体だけを修復させたとしても、普通ならば失血で死んでいる状態だ。亜神であれば死ぬ事は無いのかもしれないが、まともに動けるとは思えない。回復を専門とするハイレーンのエルデでさえ、血を作るのには時間を要する。つまり「元の体に戻った」と考えた方が混乱せずにすむ。
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