第八十二話 排除命令 3/4
「斥候にしては妙ですね」
先ほどとは反対側から、しかし今度は耳のすぐ近くで声がした。こちらはアルヴィンの女兵士だった。
「確かにそうですね」
アプリリアージェはうなずいた。
街道のど真ん中でじっと立っているだけの斥候など聞いた事がない。
「まるでああして誰かが来るのを待っているようですね」
アプリリアージェは自分の言葉にハッとした。それは戦慄を伴っていたと言っていい。相手は自分達の到着を知っていたと言うことなのだ。それは先手を取られているということを意味していた。
「行きましょう」
ほんの数秒のためらいの後で、アプリリアージェはそう言ってゆっくりと歩きだした。
「え?」
「彼らの待ち人は、どうやら我々のようですから」
戸惑う部下達を尻目に、アプリリアージェは早足で前方のドライアド兵と思しき三人組に近づいていった。
三人組はアプリリアージェ達の動きを見ても微動だにしなかった。向こうから近づこうという気はないのであろう。アプリリアージェはもちろん罠の存在を念頭に置いていたが、同時に罠はないという確信も持っていた。
なぜなら罠にかけるつもりであれば、わざわざこれ見よがしに姿を見せる必要などないからだ。誰もいなければアプリリアージェ達は無防備に街道を走っていたのだから。
それよりもアプリリアージェが解せないのはなぜ自分が今日この時この場所に現れることが相手にわかったのかということである。たとえティルトールが相手に通じていたとしてもこれほど正確にここで待ち伏せる事など不可能だ。
「あ、提督!」
部下が思わず声をかけたが、アプリリアージェは苦笑しながらもそれを無視し、歩みは止めなかった。部下が声をかけたのは一般にルーンの射程圏と言われる距離にアプリリアージェが無造作に踏み込んでしまったからである。
不用意に「提督」という言葉を発する程、アプリリアージェの随員達の練度は低かった。だがアプリリアージェはそれを責めるつもりはなかった。相手は正体を知った上でここにいるはずだからだ。もっとも帰投後にはティルトールに対してそれなりの皮肉は言うつもりではあったが。
やがて互いに顔が判別できる距離にまで近づいた。
「あらあら、まあまあ」
歩みを止めると、アプリリアージェは満面の笑みを浮かべた。そこには想像すらしていなかった人物がいたのである。そして同時にその人物が自分よりも戦略的に上位にいることを認識すべき瞬間でもあった。なぜならアプリリアージェは自分を迎える人間が誰かが想像出来ていなかったが、相手はそうではなかったからだ。
強いて言えばアプリリアージェとしてはヘルルーガ・ベーレント本人が現れる可能性があるとは考えていた。しかしその程度である。対して目の前のその人物、かつてアプリリアージェの下で行動していたクシャナ・シリットとイブキ・コラードの両少尉はアプリリアージェ・ユグセルという人間がやってくる事を確信して待っていたのだ。
「ご無沙汰しております」
横に並んだ三人の人物のうち、左端のアルヴ、クシャナ・シリットが最初に声を発した。
「以前お会いしたときよりはお元気そうで何よりッス」
これはクシャナとは反対側に立っていたイブキである。
アプリリアージェは二人の挨拶には直接応えず、微笑を真ん中の槍を背負った女性と思しき人物に向けた。
「この方は?」
立ち位置を見て単純に考えれば、その槍を背負った女性は彼ら二人の今現在の主人もしくは上位者である。
しかし。
(それにしては)
アプリリアージェはその単純な考えを保留する事にしていたのだ。
その人物には殺気が全くない事が一番の理由だった。
いや、殺気はなくてもいい。そもそも敵対する立場かどうかすらわからないのだ。そうではなくてその人物からは覇気というか生気というか、誤解を怖れずにいえば「やる気」のような、およそこのような場面にふさわしいエーテルが感じられなかったのだ。
二番目の理由は立ち姿である。槍は背負っているが少なくとも歴戦の軍人や兵士ではない事は間違いないと思われた。殺気とはまた違う、こちらは見た目の問題だ。軍服や兵服より、普段着と前掛け姿でかまどの前に立っているような、そんな佇まいなのである。
アプリリアージェの嗅覚はつまりその女アルヴからは危険を感じ取れなかったのである。だがそれこそがアプリリアージェの緊張をさらに高める要因となった。
客観的に見てアプリリアージェにとっては当然ながら、この場面は相手にとってもそれなりに、いやかなり重要なはずである。端的に言ってこの場にいるのがぼんやりと突っ立っているだけの「でくのぼう」であっていいはずがないのだ。
アプリリアージェは自分が珍しく相当戸惑っていることに驚いていた。交渉相手としてはこのような雰囲気の人物はおよそ初めての相手である。後手に回る予感があった。
クシャナやイブキがアプリリアージェに応えるよりも前に、中央に立つ件の人物は自ら口を開いて自己紹介を行った。
「初めまして、ユグセル公爵。私はミリアの使いでスノウ・キリエンカと申します」
槍を背負った女アルヴは、抑揚のない声でそう言うと、軽く会釈して初めてフードを下ろした。スノウの髪を覆い隠していたものがなくなると、さしものアプリリアージェも、息を呑んだ。
生まれて初めて見る赤と金に分かれた見事なモテアの髪に目を奪われたのだ。だが、そこはアプリリアージェである。一瞬後にはいつもの微笑を浮かべながら、既にスノウの初期分析を終えていた。
自己紹介でわかったことは、スノウと名乗るモテアの娘はやはり軍人でも兵士でもなさそうであること……ではなく、クシャナとイブキの上位にある者だという確信だった。
なぜならスノウは一国の重鎮と言っていいミリア・ペトルウシュカ公爵を「ミリア」と呼び捨てにして見せたのだ。つまりミリアと対等か上位にある人物であるか、一国の公爵を敬う必要の無い立場にある者、他国の王族やエルデのような正教会、あるいは新教会の上位にあるものという事になる。
だがアプリリアージェはそのどちらも目の前のモテアの娘にはそぐわないと直感していた。
だが、そんな事は後から考えればいいことであった。問題はミリア・ペトルウシュカとヘルルーガがどのような「連盟」なのかということである。
ほんの微かではあるが、アプリリアージェは未知の陣営の陰にペトルウシュカ公爵の匂いがしたような気がしていた。それは同時に「まさか」という考えが浮かぶくらい、想定外に追い出してしかるべき可能性だった。しかし今こうして目の前にいる面々を見れば結局一番遠い可能性こそが「当たり」であった事を思い知るしかなかった。
「単刀直入に言います」
スノウ・キリエンカと名乗ったモテアの娘は、そのぼんやりとした雰囲気と語り口からはあまり予想できないような言葉をアプリリアージェに突きつけた。
「ユグセル公爵におかれましては、このまま自陣にお戻り下さいますよう」
スノウはそれだけ言うと目を伏せてゆっくりとお辞儀をしてみせた。その際背中の槍がアプリリアージェの目に止まった。
(木刃の槍?)
兵隊とも思えぬ娘が槍を背負っている事に違和感を憶えていたアプリリアージェは、その先端を見てなるほどと思った。それは武器ではなかったからだ。
おそらく儀式に用いる槍なのであろう。その儀式がどのようなものかをアプリリアージェは知る由もないが、モテアの娘スノウにとっては重要なものなのであろう。
スノウは兵士ではない、という事をアプリリアージェは改めて認識した。
「はい。そうですか」
アプリリアージェは非常にいい笑顔でスノウに微笑みかけた。すると今まで無表情だと思っていたスノウの瞳に少し輝きが生じたように見えた。
「などと、私が言うとでも思っていらっしゃいましたか?」
「ですよねえ」
イブキがすかさず相槌を打った。
「まあ当然だな」
クシャナも同感だというふうに大きくうなずいた。
「だから言っただろ、スノウさんよ。あんまり言いたかないが、『そらみたことか』だ」
「全面的に同意しよう」
イブキが呆れたような口調でスノウをなじるとクシャナもため息交じりにそれに同意した。
「こういうのはもっとこう、ちゃんとした駆け引きが必要なんだよ。用があって来てるのに理由も何も言わず一方的に帰ってくれっていわれて帰るヤツが居たらお目にかかりたいもんだな」
「全くもって同意見だ」
いつもならクシャナとイブキは片方が何か言えば、片方はそれを否定する発言を口にしてつまらない口論にもつれ込むのが常だ。主にイブキが軽口を唱え、クシャナがそれにツッコミを入れる形が多い。だが今回はイブキの意見にクシャナが完全に同調していた。それはモテアの少女スノウの意見がよほど二人の常識から外れていたという事になろう。
「とりあえず訳を聞きましょう。話はそれからですね」
アプリリアージェはかつて部下だった二人の極めて高性能な戦闘員の様子を見ると、緊張を解くことを自らに許した。取りあえずここで事を構えるつもりがないらしい事は確かだった。
「理由?」
ぼんやりとした表情でスノウは首を傾げた。
「ええ。私がここで引き返さなければならない理由です。そもそもキリエンカさんは私がどこへ行こうとしているのかをご存じの上でそう仰っているわけでしょう?」
アプリリアージェの言葉を受け、スノウは少し考える様子を見せた。だが、あまり時間を置かずに回答した。
「ユグセル公爵」
抑揚のない声で呼びかけるスノウに、アプリリアージェは「はい」と言って小首を傾げて見せた。
「あなたにはベーレント陣営に関わって欲しくないからです」
「なるほど」
アプリリアージェはスノウの言葉を受けてうなずいて見せた。
「ヘルルーガの黒幕はペトルウシュカ公爵だということでよろしいのですか?」
スノウはこれには即座に反応した。首を横に振ると「それは違います」と短く告げた。
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