第八十話 ナットニース戦役 3/6
滝。
大中小、無数の滝が眼前に広がっていた。
ナットニースの沼地は確かに谷あいのものだが、そこに注ぐ川はない。沼に水を供給しているのは湧き水であって、その両側の崖からではないはずであった。崖から水が出ているという話は聞いたこともなかったのだ。
さらに言えば崖は左右だけのはずであった。沼を抜ければ目の前にはしかるべき道があるべきであった。だから多少沼が増水しても前に進めば乾いた土に辿り着くはずであったのだ。
だが、その道が存在していなかった。
目の前にあるのは崖崩れによって生じた大小おびただしい岩や石と、左右の無数の滝から放水されている大量の水だけだったのだ。
彼らが耳にした最初の地鳴りは、おそらくこの崖崩れのもので、その後ずっと響いていた低い音は、滝が放出する水音であった。その証拠に、地響きにも似た音を立てるだけの大きな規模の滝がいくつかある。
そんな異常事態に直面したドライアド兵達の混乱は数分であったろう。多少の時間がかかったものの、彼らの上官はそれなりの仕事をした。
「いったん退却だ。戻れ」
退却を決断させたのは、足元に増えていく水であった。信じられないほどの勢いで塞がれた谷に水が溜まりつつある。滝の勢いは全く衰えておらず、ここに留まっている事は危険だと判断したのである。ならば多少の水があろうと、昨日まで進軍していた場所、すなわち後方に下がればこの水から逃れられると判断したのは無理もない。
想定しない異様な状況が彼らの上官の冷静さを失わせていた事は否めない。増水が片方からしかないと思い込んだ事がそれである。だが彼らはそうせざるを得なかったのだ。誰も上官を責めることはできないだろう。
そんな状況だから、彼らはこの水攻めがフラウト王国軍の綿密な計画によってもたらされた作戦であるということまで考えを巡らせる余裕はなかったに違いない。
そしてその事に気付いた時には、十万のドライアド軍兵士達は、自らの足が大地を捉えていないことを認識していた。
ナットニースは、実は完全な平地ではない。崖崩れで塞がれた部分が実は最も低い場所であり、沼と平地はそこに向かって緩やかな坂になっていたのである。
撤退を開始した兵士達は、ようやく沼に大量の水を供給しているのが自分達が発見した滝だけではないことを知る事になった。
至る所から水が噴き出していた。それは崖だけではない。そもそも湧き水で沼地が作られていたのだが、その沼から、つまり地面からも噴水のように水が吹き出ており、それらは何本もの巨大な柱を成していた。
「信じていないわけではなかったが」
忽然と表れた眼下の「湖」を見つめながら、ヘルルーガがつぶやいた。
「それでも信じられないものを見ているという気持ちで一杯だ」
そしていつになく真剣な顔をしているエスカの横顔を見つめた。
「俺達が細工をしたのはたった五カ所だぞ?」
ヘルルーガの視線はもちろん感じているだろうエスカは、しかし細めた目を湖に向けたままそう答えた。
「崖崩れに至ってはたった二カ所だったがな」
エスカの言いたい事がなんとなくわかったヘルルーガも、視線を湖に戻してそうつぶやいた。エスカ自身が、自分の指示した作戦の結末に驚いているのだ。
それはつまり予想していた以上に劇的な状況になっているという事であろう。
「そろそろ種明かしをしてくれてもいいのではないか?」
ヘルルーガはため息を付くとそう言った。
俺の言うとおりにしろ。
絶対に大丈夫だ。
万が一失敗したら? ンなもん、ありえないから心配すんな。
そう言ってニヤリと笑ったエスカの自信満々な顔がヘルルーガの脳裏に浮かんでいた。
エスカの言うとおり、作戦は予想以上の成功を収めた。であれば溜飲を下げるなり「どうだ? 俺の言った通りだろう」と尊大に笑ってみせるのがエスカという男ではなかったのか?
だがヘルルーガの隣に立っているエスカ・ペトルウシュカの表情は険しかった。見ようによっては恐ろしいものを見ているような顔だった。少し怯えていると言ってもいいだろう。もちろんそれはヘルルーガが初めて知るエスカの表情だった。
エスカ・ペトルウシュカの指示は直接フラウト王国の部隊に伝えられたわけではない。王国軍の指揮官はヘルルーガ・ベーレント軍務大臣であり、今回の作戦もヘルルーガから幕僚を通じて全軍に伝えられたものだった。
ヘルルーガの作戦とはナットニースを見下ろす崖の五カ所の掘削と二カ所の楔打ちであった。掘削地には、それぞれ集められるだけの地のフェアリーを配置し、巨大な木の楔を岩盤に打った地点には大量の水瓶と水のフェアリーを配し、念の為にリンゼルリッヒ・トゥオリラを付けていた。
フラウト王国軍には高位のフェアリーはいなかった。だがシャナンタ・キョウヤが引き連れてきた部隊には結構な数のフェアリーがいた。最初にその報告を受けたヘルルーガは、通常の部隊ではまず考えられないフェアリーの数、いや率であった事からシャナンタが何らかの意図を持って予め投降部隊を編成していた事に気づいたのだが、その話はここでは割愛しよう。
だが、今回の作戦は基本的にそれらフェアリーの存在があったからこそ短時間で準備が可能になり、その準備が小規模なものであったために敵に気取られることなく、そして合図と同時にほぼ一瞬で「成された」のだ。
それはつまり、エスカがこの作戦を予め温めていたと考えるべきであろう。そしてシャナンタは大量のフェアリーをエスカに提供する為にのらりくらりと戦いながら自らの部隊を編成していた……要するにエスカに都合の良い部隊を提供する為にシャナンタは最初から投降する事が決まっていたという事なのだ。
そして何よりも確かなのは、エスカにはナットニースの地下に走る、当然ながら目には見えない水脈が手に取るようにわかっていたと言うことである。
元シルフィード王国軍の、よく知っている地のフェアリーや水のフェアリーにヘルルーガが「地下の水脈が感じられるか?」と尋ねたが、彼らはみな首を横に振った。
よほど大規模であっても漠然としたものを感じる程度で、しかもそれがどれだけのものがどう走っているかまではほとんどわからないのだという。
もちろん能力差がある為に一概には言えない。だが裏返せばほとんどの人間には正確な水脈の位置などわからないということであろう。
だがフェアリーでもルーナーでもない普通の人間であるはずのエスカは赤い×が記された地形図を取り出し、ただ「ここを崩せ」と指示したのである。
しかも掘削と言っても大して掘り進める必要は無かった。指示通りの深さを掘るのに時間はかからなかったし、だからこそドライアドの大軍を待ち受ける間に準備は完了し、当然ながら敵に気取られることもなかったのである。
そして合図と共にフェアリー達が一斉に力を使い、最後の一押しをそれぞれの地点に加えた結果、地中に隠れていた水脈が地上にその一部を晒すことになったのである。
フラウト王国軍が行った行為は、一気に大水量を吹き出させるものではなく、ナットニースに走る豊富な伏流水を地表に誘導する為の「引き金」とも言えるものであった。
小さな石ころを雪山の斜面に投げると、それが雪を取りこみながら巨大な雪塊に成長する現象は知られているが、今回も似たようなものであった。最初に崩壊した部分に表れた水脈が、その圧力により崖を崩壊させ別の水脈を暴き出し、その暴いた水脈の力でさらに崖が崩れ、また新たな水脈を眠りから覚ます。エスカはその連鎖反応の最初の「ひと転がし」を行ったに過ぎないのである。
伏流水が大きく動いたことで、地下の水の流れなり力の向かう方向がが大きく変動したのだろう。ナットニースの沼自体の湧水量も飛躍的に、いや爆発的にその量を増やした。
ドライアドの大軍は、何が起こっているのかわからないうちに自分達がいつの間にか湖で水泳をしている事に驚き、戸惑っていた。そしてこれがどうやら敵の罠であったのだと悟る頃には、もうどうしようもない状況になっていた。前進できないのであれば後退しようとした彼らは、そこで絶望的な光景を目にする事になったからだ。
今まで進軍してきた道がなぜかなくなっていたのだ。理由は一目でわかった。崖が大きく崩れ、岩の壁が行く手を塞いでいた。つまり前後にあるくびれたような細い部分双方に出来た壁により、ナットニースは人工の湖となった。
ドライアド軍十万の兵は、かつてナットニースの沼と呼ばれたその巨大な生け簀に閉じ込められ、その時点で五千人対十万人という戦いは、大方の予想、つまりドライアド軍が誰一人想像すらしていなかった結末を迎えることとなった。
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