第八十話 ナットニース戦役 2/6
その首が本当に王女エルネスティーネのものだとすると、ノッダ政府はサミュエルが言うように偽物の王が君臨する、つまり正統な政府ではない事になる。
しかし本物の王女を暗殺した人間を指導者としていたエッダ政府を「正しいシルフィード王国政府」であるとも認めがたい。
いや、それよりも何よりも「シルフィードの宝石」と呼ばれて、国民から親しまれていたエルネスティーネ「王女」が最も信頼していたであろう腹心により殺害され、あまつさえその首が衆目に晒された事実に対する衝撃が大きかった。
その事件はおそらく悠久の歴史を誇るシルフィード王国最大の事件であり、最悪の醜聞と言っていいだろう。
つまり、この頃のシルフィード王国軍は、ドライアドとは全く別の原因により兵士達のみならず指揮官達ですら平静を保つことは困難な状況下にあったと想像出来る。
こればかりは一切の記述がない為に完全な想像になるが、ナットニースの戦いの時点では、エスカ陣営にはまだエルネスティーネに関する凄惨な話は伝わっていなかったと思われる。理由は、もしエスカがその情報を得ていたとしたら、作戦の総指揮官にヘルルーガを起用しなかったであろうと考えられるからだ。
なぜならヘルルーガはノッダの玉座に座っているイエナ三世がエルネスティーネではないことを既に知っている。つまり噂の「首」が本物であると確信するに違いない。それにより生まれる憎悪や嫌悪と言った負の感情が、持ち味である慎重で冷静、かつ大胆な指揮を曇らせる可能性が生じるからだ。何より大事を前に指揮官が取り乱す事は避けねばならない。サミュエルがドライアド政府の一部、もしくは政府そのものに通じている可能性など、ヘルルーガはとっくに想定済みであろう。だとすればヘルルーガの激情がエスカの掌握を離れ、その負の感情の赴くままに眼前の敵におそいかからないとも限らないのだ。
なぜならエスカ達の作戦は、その気になれば十万の兵を文字通り一方的に全滅……いや、はっきり言えば虐殺できる類のものだったからである。だがエスカは「シルフィード軍が」できる限り血を流さずに十万のドライアド軍を無力化する事をこの作戦の唯一の目的に掲げていた。それこそが次の布石の為の、なくてはならない前提であったからだ。それが崩れた時点でエスカの壮大な「ホラ話」は文字通りホラで終わる可能性が高かった。
結果として「ナットニースの戦い」は、開始から二時間も経たずに終結した。そして後世数多(あまた)の名前を連ねる歴史学者達は誰も、この戦いで流された血が砂漠で砂金の粒を見つけるに等しい程でしかなかったとされる戦果に異議を申し立てようとはしてしない。
つまりフラウト王国軍務大臣ヘルルーガ・ベーレントが、シルフィード軍とドライアド軍の混成部隊からなるわずか五千の部隊を指揮し、立ちはだかる十万もの大軍を一瞬で降伏させたことは歴史上、事実として認定されているのである。
戦いは正午に始まった。
動いたのはドライアド軍であった。
もっともドライアド軍はヘルルーガやエスカの予想に反し、存外紳士的な対応を行ってきた。
矢よりも先に人間、つまり白い旗を掲げた伝令がやってきたのである。
あえて紳士的と表したのは、ドライアド軍とヘルルーガ部隊の間には大きな沼地が横たわっていたからだ。つまりドライアド軍の兵士達は障害物の多い泥濘地をわざわざ船を使って渡ってきたのである。
泥の成分が多く、そもそも竜骨のある普通の船は沼では使えない。平底の船に乗り、長い竿を泥に差し込んで押し、それを推力として渡ってきたのである。
伝令が伝えに来たのはこの手の会戦ではよく行われる講和条件の提示である。講和条件と言っても、要するに無条件降伏の勧告であった。
ナットニースの戦いにおける十万のドライアド軍を率いていた指揮官は、記録によればジーフ・ナインステップ大将という事になっている。おそらく間違いないと思われるが、ジーフについては残念ながらあまり特筆するような記述が残っていない。年齢は50がらみ。もちろんデュナンで、ドライアドのいくつかある中堅どころの侯爵家の第一子ながら家督はまだ継いでおらず、「月の大戦」以前に大きな部隊を率いて戦ったという記録もない。いや、前戦に出て戦った経験があるのかどうかも定かではない将官であった。
ナインステップ侯爵家自体は比較的新しい貴族の系統のようで、いわゆる五大老の紐付き貴族の一つであろうと考えられる。そしてそれを証明するかのように大将という地位にありながら、不思議な事にその戦歴には目立った恩賞も功労も見出せない。
ジーフの父親も俗人であったようで、それは齢(よわい)八十を迎えようとしてもなお家督を息子に譲れないその業が証明していると言えるだろう。
息子のジーフはというと、果たしてそんな父親を越えるような人物ではなかったようだ。事実、ナットニースの戦い以降、ジーフ・ナインステップの名前が再び歴史の表舞台に出る事は無い。彼は軍人としても政治家としても、もちろん貴族としても凡庸な存在であったと言えるだろう。
だからドライアド軍の実際の指揮がジーフによって一本化されていたとは考えにくい。
ジーフはただ、十万の軍隊で最も階級が高い「大将」であったから指揮官という立場に座っていたに過ぎないのであろう。
もちろんフラウト王国側はドライアドの大軍が十万人という兵の数をそのまま兵力にできるわけではないとわかっていたはずである。
結果論であるが、その事実は双方にとって幸いしたと言えるだろう。
エスカの作戦は完璧に遂行された。
講和条件を持参した伝令が、これも形式通りに慇懃に追い返された後、まずドライアド軍が動いた。そもそもドライアド軍は早くこの沼地を抜けたがっていたのである。有り体に言えば「さっさと倒して、さっさと港に向かう」という事しか彼らの頭にはなかったのだ。なにしろたかだか五千のシルフィード軍など、障害とすら感じていなかったのだから。
ドライアド軍は一斉に沼地に板を渡し始めた。膝上まで浸かってしまうナットニースの沼を抜ける為のドライアド軍なりの戦術である。
物資がない中、驚くほどの数の板が用意されており、沼の岸から数十本の橋がみるみる縦に、つまり向こう岸に向かって伸びていった。しばらくすると今度はその橋同士を繋ぐように横方向に板が敷かれていき、やがて線は面に変わっていった。
この橋を作る手順だけはそれなりの段取り能力を持つ指導者が率いる部隊が担当していたのであろう。文字通りあっと言う間に沼を覆う木の床ができあがり、沼の対面、谷の奥にに陣取ったヘルルーガ率いる「自称シルフィード軍」の本陣にそろそろ届こうかというところまできた。
そしてあと少しでドライアドの大軍がヘルルーガ達を呑み込むのでは、と思われたとき、あたりに大きな地鳴りが起こった。
正確には、ドライアド軍がシルフィード軍の本陣になだれ込み、そこがもぬけの殻である事を知って戸惑っている時に「それ」は起こったのである。
「何だ、今の音は?」
「地鳴り……地震か?」
「それよりシルフィード軍がいないぞ?」
兵達は不安を紛らわせようと口々に言葉を交わし合う。目的を失ったドライアド兵は、上官から次の行動指示が下されるまでその場に立ち止まっていた。
上官達は上官達で、そのまま進むべきか、状況を後方の本部に伝えるべきかで逡巡していた。
地鳴りは続いていた。その正体がわからぬまま停滞していた彼らが次に耳にしたのは、味方の怒号であった。
「水だ」
「沼が増水している!」
確かにそうであった。
振り返る彼らの目に映ったのは、沼の上に渡して踏みしめてきたはずの板が、水面に浮いてバラバラになっている様であった。
誰かが叫んだとおり、沼地の水位が上がっていた。いや、既にそこは沼ではなく湖と呼んでいい状態になっていた。当然のようにドライアド軍が敷き詰めた板は橋の役目を完全に失っていた。もちろん要所要所を釘などで固定してそれなりの強度はもたせてあったのだろうが、それは泥濘地の上にあっての固定力である。湖の上に浮かぶ板きれ同士が互いに固定されたままでいるはずがない。ましてやその水は動いていたのである。
対岸、つまりヘルルーガの陣がある岸に上がったドライアド兵達は、増水した水が足元を濡らしはじめた頃、誰言うとなく前進をはじめた。増水する沼地から離れる事が最優先事項だと誰しも感じていたからだ。
だが、そんな彼らの行く手に、それ以上前進できる場所はなかった。
「なんだと?」
兵士達は目の前にある信じられない光景に絶句した。
そして程なく地鳴りの原因が「それ」だったのだと理解したが、だからといってその信じられない光景を腹に収めることが出来たかというとそれはまた別問題であった。
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