第八十話 ナットニース戦役 1/6

 ドライアド軍は総勢約十万人、対するシルフィード軍……正確にはエスカのフラウト王国軍であるが……はわずか五千の兵力。両陣営併せて十万五千の兵が、この「ナットニース」と呼ばれる沼地に集結していた。

 この歴史に名高い「ナットニース戦役」通称「ナットニースの戦い」に於ける双方の兵力については諸説あるが、ここではこんにち最も信憑性が高いとされているドライアド側の補給担当の尉官が残した詳細な日記に記された人数を信じることにする。一方フラウト側はゾルムス・アルダーの備忘録に記された兵士の数を用いている。

 もっとも五千人が二万人だろうが十万人が五万人だろうが、つまりはどの説を採ったとしても、双方の間には圧倒的な兵力の差があったという事実は変わらない。

「ナットニースの戦い」は一部の伝説、具体的にはエレメンタルや高位ルーナーといったいわゆる異能者の圧倒的な力による殲滅戦を除くと、ファランドールの歴史上もっとも兵力差の大きな戦いとして有名だが、未だに謎が多い事でも当代随一の戦いだと言える。


 開戦にあたり、ドライアド軍側では誰一人としてこの戦いの勝利を疑う人物はいなかったに違いない。いや、実際問題としては戦いにすらならないと考えていたものが大半であったであろう。

 彼らはニットナースの沼地を抜ける為に必要とされる充分な準備があったし、その谷を抜けさえすれば補給地、すなわち友軍が管理する港湾都市へたどり着けるという戦う為の明確な目的があった。これは、言い換えるなら沼地を抜ければ食料事情が一気に好転する「はずだ」という楽観と、目的地に辿り着く事が何よりの目的であるという意識が支配していた状況とも言える。つまり安息の地を目の前にしているというのに、ごくごく少数の敵兵を相手に総力を挙げた戦争をしようと考える者は居なかったということである。

 簡単に言えば、ドライアド軍はフラウト軍を全く問題視していなかったのだ。


 そんなドライアド軍に於いて、楽観に無意識の焦りが加味された精神状態なのは、末端の兵達よりむしろ上層部の面々であったにちがいない。

 なぜならドライアド軍の補給状況については、大方の予想以上に悪い状況になっていたからだ。ニートナースを抜けるのに充分な物資はあったのだろう。だがそれは言い換えればニットナースを抜けるまでの物資しかないという事である。

 大部隊になればなるほど確保せねばならない物資の数字は膨れあがる。当時、ドライアドの小さな部隊などはもはや対シルフィード軍に対する戦略及び戦術行動を中途で放棄し、作戦目的を補給、つまり物資確保に変更していたほどである。つまり略奪で食いつなげる規模の部隊がそれすらできない状況にあったということである。ドライアド軍の物流はそれほどまでの壊滅状態になっていたのである。


 ではその「略奪が事実上できない状況下」とはどういうことか?

 小さな部隊だけでなく、当時サラマンダに展開していたドライアド軍の多くは部隊維持の為、有り体に言えば餓えをしのぐ為、つまりは生きる為に彼らにとっては当然の行為として略奪を行っていた。「月の大戦」において兵士の戦死者よりになによりも非戦闘員の犠牲が多かったのは戦争終結間のドライアド軍による略奪行為が主な原因であるとする歴史学者は多い。そしてそれは歴史学者でなくとも想像に難くない。

 補給困難により戦場を撤退したドライアド軍は、自分達より大きな部隊を見つけるとそこに合流していった。大きな部隊であればまだそれなりの補給経路があり、そこに組み入れられれば飢えることがないだろうという短絡的な考えによるものだ。

 一方小規模なままで補給のない部隊には、大軍と合流できないままシルフィード軍や他の勢力……この場合はドライアド軍の略奪行為に抵抗する地元の武装勢力である……に殲滅されていく。

 やがてサラマンダ大陸に展開していたドライアド軍は結果としていくつかの大軍に集約されることとなった。だがもちろんその大軍が潤沢な補給力を持っていたわけではない。むしろ大軍になればなるほど悪化していたと言えるだろう。

 そして彼らがやることはシルフィード軍との大義をかけた戦いではなく、闇雲に物資を奪う為の略奪戦に変わっていった。

 終盤になりドライアド軍がシルフィード軍に対して数に物を言わせた各個撃破戦法をとってきたのは、つまりはそういう事情があったからである。

 大軍に飲まれる部隊は少なからずあったにせよ、大軍に集約しつつあるドライアド軍の事情のせいで、シルフィード軍は見かけ上の陣地確保は楽になっていた。

 だが、ひとたびドライアドの大軍と対峙する事になれば、まともな指揮官であれば撤退するしかなかったのも事実である。

 いくつかの部隊がドライアドの大軍を挟撃するなどして戦術的には優れた戦いを繰り広げたものの、どれも圧倒的な数の差の前に敗走を余儀なくされていた。


 また、終盤のドライアド軍の集約化、大軍化に伴い、シルフィード軍が支配下におく陣地拡大が進行すると、員数の少ないシルフィード軍同士の連携が希薄になりつつあった。要するに自軍が大戦の中で、いったいどのような戦況下に置かれ、双方の軍がどう展開しているかを把握できなくなっていったのである。

 それはつまりシルフィード軍においてもきたるべき補給路の分断化を示しており、危うい状況であったとも言える。

 さらにシルフィード軍の場合は頭の痛い特殊な事情を抱えていた。すなわちノッダ軍とエッダ軍の存在である。

 その頃になるとエッダ軍の指揮系統はほぼ機能しておらず、ほとんどが独立部隊として指揮官の胸先三寸で行動していたようである。一方で一部のエッダ軍はいまだにノッダ軍を敵軍として見なしており、サラマンダ大陸内のノッダ軍掃討を作戦目的として掲げたまま、それを遂行しようとしている部隊もあった。

 悲劇的なことにそんなエッダ軍の多くはドライアド軍を自軍とともに傀儡政権であるノッダの軍を共に倒す為の友軍と見なすようエッダ政府から伝えられていたようで、物資目当てで近づいたドライアドの大軍に抵抗することなく蹂躙されていった。

 翻ってノッダ軍はエッダ軍を同胞として捉えており、対峙した際はまず話し合いの場が持たれることが常であったが、大義を重んじるアルヴ族の気質が災いし、多くの場合は双方の主張は平行線のままであり、ノッダ軍は戦うか撤退かの二者選択を迫られることとなっていた。もちろん矜持を重んじるアルヴの軍は撤退をよしとせず、多くの場合は同胞同士で剣を交える悲劇を繰り広げる事になっていた。


 そんな折り、一つの情報がノッダ軍エッダ軍を問わず、シルフィード軍に嵐のように駆け巡った。

 イエナ三世が実はエルネスティーネ王女の変わり身で、つまりは偽物の女王であり、アプサラス三世の意志を継ぐエッダ政府こそがシルフィード王国の正統であるとするサミュエル・ミドオーバ大元帥が、実は本物のエルネスティーネ王女を暗殺していたという噂である。

 それは自陣営の罪の重さに耐えかねた側近が、サミュエルが隠していた王女の首を持ち出し、証拠としてエッダの人々の前で掲げたという、例の事件が発端である。

 その事件以降サミュエルはシルフィード側に顔を見せたという話はなく、おそらくは逃亡したと見なされていた。またエッダ政府はノッダ軍によって既に解体されており、現時点でノッダ軍とエッダ軍が戦う理由は存在しない……そんな情報である。

 この世の常であろう。正式な指示よりも噂の到着の方が早いのだ。いや、エッダ軍には正式な通達がもたらされる事はもはやない状況であった。従ってエッダ軍にとっては噂が毒を含んだ二律背反をぶら下げて、話をややこしい方向へ誘おうとするのである。

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