第七十九話 もう一人のニルティーアレイ 4/4
「フラウト王国……これですね」
スウェブが指さす先に、その小さな独立都市国家は確かにあった。
周りをぐるりと川で囲まれた中州のような特殊な土地に渡るには、陸続きでは到底無理で、幾本かの橋が架けられ、内地側の街道に繋がっている。
そしてその街道は幹線と遠く離れながら山間を縫うように並行して伸びているが、幹街道と交差するまで他の都市国家はおろか、集落もあまりない。確かに地図を見る限りでは完全な孤立地域と言えた。
アプリリアージェは一目見てそこが軍事的な拠点としてはほとんど用を為さない事を見抜いていた。敢えて使うとすれば倉庫としての役目だろう。
「フラウト王国とは、何をもって生業としている都市ですか?」
地形を一目見れば要塞都市であろう事はわかる。だが都市国家を維持するには産業が必要なのだ。だが残念ながらアプリリアージェの頭の中にはフラウト王国という項目はなかった。それはつまり取り立てて記すべきもののない、要するに一般的にはどうでもいい小都市であるという事だ。
(いや、違う)
アプリリアージェはなぜか心臓が強い鼓動を打つのを感じていた。
(これはおそらく……いや、間違いない。どうでもいい小都市だと思わせる事に成功していたのだ!)
「小規模な農業はありますが、たしか主な産業は岩塩ですね。内陸側には岩塩の産地はないので、おそらくこの中州のような部分は地殻活動による隆起か何かで岩塩が含まれる地層が地中から突出したのでしょう」
トランはウンディーネ出兵の際に付近の小都市の情報を集めて勉強したのだという。
「上っ面をなぞる程度で恐縮ですが」
「いいえ、とても参考になりました」
「まさかここが第三の陣営だと言うのではあるまいな?」
ティルトールの言葉に、アプリリアージェはいつもの微笑みで返した。
「そんなもの、行ってみなければわかりませんよ」
「行くって、おい」
ティルトールはあきれ顔でそう言ったが、ベッドに横たわった老首領の方がアプリリアージェの本気を理解していたようだった。
「お前さんの指示通り、何年も前から河川用の船は手配済みだぜ」
アプリリアージェは嬉しそうににっこり笑うと小さく首を傾げた。
「さすがはアングルの首領です」
「ふん。それより約束は覚えてるんだろうな?」
「約束?」
ティルトールがその言葉に反応した。
だがアプリリアージェは涼しげに微笑するだけであった。
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「どうにも気が進まんな」
眼下に広がる沼地の向こう側に、ドライアドの大軍が展開していた。
ヘルルーガ・ベーレントのつぶやきは、その状況を眺めながら出たものであった。
「今さら愚痴ってくれるな。気持ちはわかる。だが、ここだけはどうしてもシルフィード軍の旗を挙げて戦って欲しいんだ」
ヘルルーガの隣に寄り添うと、エスカ・ペトルウシュカがそう声をかけた。
「いや、その意味は重々わかっている。私が言っているのは別の事だ」
「別の事?」
「あれだ」
ヘルルーガが顎で指し示すのは、中隊ごとに広範囲に展開しているドライアド軍であった。沼地と通常の陸地との境界線のうち、岬のように突き出た部分ごとに点在しているようであった。
「そうだな。沼は確かに足元が汚れる。進軍するのは気が進まねえよな」
「そうではない」
呑気に答えるエスカに、ヘルルーガは不機嫌な声で答えると首を横に振った。
「私はまだ『戦わずして全滅させる』というお前の戦略に対して納得がいかんのだ」
「なんだ、そっちの話か」
「なんだとはなんだ? ドライアド軍の立場になってみろ。兵士としてその力を振るう前に戦いが終わり、敗北の屈辱を味わうのだぞ? しかも一方的に、そして圧倒的にだ。剣を振るえぬまま戦いが終結するなど、私だと耐えられん。いやアルヴ族なら皆そう言うだろう」
ヘルルーガは心の底からそう思っているようで、そう言った後に眉間に深い皺を寄せた。エスカはわかりやすいヘルルーガの表情を横目で捉えながらも、その気持ち自体は全く意に介さずといった風に、相変わらずのんびりとした口調のまま答えた。
「そう言うな。五千人対十万人の戦争だ。まともにやれば悲惨な状況になるのは目に見えてる。俺が俺で居る為にはそんな戦いをするわけにゃあいかねえからな。だから血を流さずに終わらせるにはこれしかねえんだよ」
「わかっている。それはもう了解しているのだ。だが、頭でわかっていても心が頷かないのだ。つまり私はその辺りのシルフィード王国の軍人の気持ちをもっと察しろ、と言っている」
ヘルルーガは目を伏せて低い声でそう言うと、エスカの胸を拳でそっと突いた。
「お前は私だけでなく、シルフィード軍の兵士の気持ちをも奪わねばならぬのだ。つまり私はそういうことを言っている」
「そりゃあまあ、軍務大臣の仰る通りなんだけど……それでも痛いのは嫌だしなあ……」
二人の後からエスカに輪をかけてのんびりした口調の声がした。
「とは言え、私に言わせればそっちの方も大丈夫だと思うがね」
ヘルルーガが声の主を振り返った。
そこにはきらびやかな女性ものの夜会服をさらに派手に手直ししたような……単純に派手と言うにはあまりに言葉が足らなさすぎる……つまりは奇天烈な格好をした人物が立っていた。
「キョウヤ卿」
「シャナンタでいいって言っているではありませんか。同じ目的を持つ者同士なのに、まったくいつまで経っても大臣は他人行儀ですな」
「願わくば、私は卿とはずっと他人でいたいと願っている」
「ああ、それには俺も同意する」
機嫌良さそうにエスカがうなずきながらそう言うと、キョウヤは大げさに肩をすくめて見せた。
「何時もながらお二人揃って手厳しい。できれば身内のように親しみを込めて『シャナたん』と呼んで欲しいものですなあ」
「キョウヤ卿」という呼び方は、ドライアド王国の爵位を有するシャナンタ・キョウヤに対するヘルルーガなりの接し方だ。爵位で呼ばず「卿」という敬称を使うところに微妙なわだかまりが垣間見える。シルフィードでは通常「卿」という敬称は爵位のない貴族のものだからだ。
ヘルルーガ自身は礼を重んじる性格であるが、どうにも素直にシャナンタを「そのまま」の状態で受け入れる事ができないでいた。
ヘルルーガの解釈はこうだ。
シャナンタはドライアドでは侯爵という爵位のある貴族であるが、そもそもその爵位を与えてくれたドライアド王国から寝返ってフラウト王国についた。そしてその時点でドライアド王国の爵位など無効だいう考えである。
同じような立場であるエスカはしかし、戦略上ドライアド王国での爵位はしばらく維持する必要があると言っていたが、それはシャナンタに当てはまるのかどうかの確認はしなかった。曖昧な状況ではあるが、その曖昧さを逆手にとって「卿」という比較的体裁のいい呼称を使う事にしたのである。言い換えるならわだかまりを持っている事を知らしめる為に敢えてそう呼んでいると言っていいだろう。もちろんシャナンタがそれを気付かぬはずはなかった。
ヘルルーガのシャナンタに対するわだかまりはエスカの戦い方に対するよりも深いようで、シャナンタが持つ指揮官としての能力の高さは認めつつも、自分の部下、それも直属の幕僚として全幅の信頼を預ける気には毛頭なれないでいた。もっともそそれはシャナンタの性格が苦手だと言うよりもほとんどは外面的なものに起因していた。すなわちその立ち居振る舞い……いや、はっきり言ってしまえば服装の趣味に納得がいかなかった。
フラウト王国にも一応軍服はある。アキラが着ているものが指揮官用のそれであると説明されていたが、その時点ではアキラ以外に軍服が用意されているわけではなく、ヘルルーガを始め、全員がそれぞれ元々の軍服をそのまま着用していた。その倣いでいくなら、シャナンタが「それまで通りの格好」をする事に何ら問題はない。
しかし、それこそがヘルルーガに取っては問題だったのだ。
そもそもシャナンタがヘルルーガの幕僚に連なるということは、すなわち今まで自分が率いていた兵達の上に立つ立場になる。その人間が道化のような格好でいるというのはいかがなものか……いや、どうあっても認めるわけにはいかなかった。
その事をエスカに文句を言うと「そろそろ俺の流儀を理解しろ。いいか、戦争にはああいう面白いやつが一人は絶対に必要なんだぜ」というわかったようなわからないような……いや、はっきり言ってヘルルーガにとっては全く意味不明な答えではぐらかされてしまう。
ヘルルーガは小さなため息をつくと、大きく首を横に振った。
雑念を払い、戦場を確認する。
ヘルルーガ達が本陣を構えているその丘からは、朝靄というヴェールを上げた広大な沼地が一望にできた。
そしてその沼地の岸に押し寄せたドライアドの圧倒的な兵の数が。
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