第八十話 ナットニース戦役 4/6
「さあ、そろそろお前の出番だな」
ものの数秒で平静さを取り戻したエスカは、いつもの様子でヘルルーガの肩をポンと叩いた。それを見たヘルルーガは眉間に皺を寄せた。
「私の問いに答えてはくれぬのだな」
拗ねるようにそう言ったヘルルーガをしかしエスカは一瞥だにせず、羽織っていたマントを翻して少し離れた場所に控えていた幕僚達に合図を送った。
状況としての戦いは既に終わっていたが、むしろフラウト王国軍にとってはここからが正念場であった。
何しろたったの五千人が十万人を捕虜にするわけである。
単純に一人当たり二十人を引き連れて行く事になる。言い換えれば両手を拘束されていても足が動くのなら、一人を二十人で戦闘不能にできる。そうなればドライアド軍の逆転勝利も充分あるということになる。
もっとも実際はそんな事よりも食料や水などの人を活かす為の物資であろう。もちろん収監するならばそれなりの施設が必要であるし、その施設までの移送手順などを考えるだけでも気が遠くなるというものだ。
フラウト軍としては、ここで十万人を全滅させる方がよほど楽なのだ。
おそらくエスカ・ペトルウシュカでなければ、敵が降参するよりも早く水面にただ浮かぶだけの兵達を矢、それも火矢で狙い撃ちにして相当数を虐殺する方法をとったであろう。十万人の兵力を失うとなれば、それはドライアド王国にとってはそれなりの痛手になるはずであった。
だがエスカの現時点での戦いは敵を殲滅することではなかった。
要塞都市フラウト王国を出る事を決意したエスカは、まずはウンディーネの首都島アダン上陸を目標とした。
動く時期を探っていたエスカであるが、ウンディーネ北部海域の戦況の変化を知りこれ以上は待てないと判断したのである。
戦況の変化とはこうである。
開戦当初からドライアド海軍が制海権を取っていたと言えるウンディーネ北部の海域は、ドライアド軍の大動脈と呼ぶべき海の重要な補給線であった。
だがドライアドに生じた補給不全により、拠点となる主要港湾都市が混乱。これに乗じて攻めてきたシルフィード軍にいくつかの都市が陥落されたという報が次々とフラウトにもたらされた。
これはもはやドライアド海軍が北部海域に制海権を持たないという状況を示していたと言えるだろう。事実、シルフィード海軍と海賊が北部海域でさかんに目撃されるという。
エスカはそこが重要だと判断した。
北部海域にある要衝、すなわちアダンをシルフィード海軍が取りこむ事を危惧していたのである。
シルフィードに取りこまれる前に、政治的・軍事的両方の理由から、エスカはアダンの「お墨付き」を得ておく必要があった。エスカの目論見では、これまでの状況から判断して、まだしばらくはアダンのある北部海域はドライアド勢力下にあるはずであった。だが実際は、エスカの予想よりも早くドライアド軍の勢力は衰えたのだ。シルフィード海軍が思いもしない勢力であったことも想定外であった。
そんなエスカの行軍、すなわちアダン行きのフラウト軍の眼前に立ちふさがったのが同じく北の港へ向かう十万のドライアド王国軍であったのだ。正確には立ちふさがったのではなく、合流してしまったのである。エスカの判断がもう少し遅かったなら、ドライアド軍はナットニースの沼地を越えてしまっていたであろう。
もっとも、出会い頭というわけではない。エスカ側はドライアド十万の大軍の動きは把握していた。だからこそ先回りをして準備をするだけの時間が稼げたのである。
エスカは十万の大軍の経路を大型馬車が楽に往来できる街道でなく、勾配はあるものの、二日以上短縮できる沼地経由であると断定。その上でナットニースこそが唯一戦える場所だと判断し、そこに先回りしてドライアドの大軍を迎え撃ったのである。
沼地がある経路を選んだドライアド軍が、ナットニースの沼に木道を作り上げて軍を進めるつもりであろう事も当然ながら折り込み済みであった。
つまりドライアド軍は沼を越える準備をしていたということになる。だからこそ、迷い込んでしまったかわいそうなシルフィード軍を、行きがけの駄賃宜しく殲滅しよう、いやできると思い込んでいたのであろう。
多少の罠の存在はドライアド軍側でも想定はしていたであろう。だがそんなものは二十倍の兵力の前には文字通り「屁の突っ張りにもならぬ」とも思っていたに違いない。戦力差があまりにありすぎると、凡庸な司令官であればあるほど単純な、つまり数に頼った力業を採りたがるものだ。
ましてや戦う相手はシルフィード軍である。微に入り細にわたった「奇策」を弄する戦い方はしないとタカを括っていた部分もあろう。
「恐ろしい話だよな」
ヘルルーガが幕僚を従えて低い場所へと歩き出したのを見届けると、エスカはそうつぶやいた。
「御意。とは言え、正直に申し上げて私はもはや驚きはしませんが」
エスカの背後で、一人の兵がそう答えた。
「そうか。ゲイツ【大佐】はあのバカ兄貴のとんでもない能力を見せられたんだったっけな。まったく気の毒になあ」
「まだ【少佐】です。陛下」
ドライアド軍の佐官服を纏ったグラニィ・ゲイツはエスカの言葉を訂正した。
「それから、哀れまれるのは心外です。あのデタラメな力を見せられたからこそ、私は迷いなく自分の力が使える場を選ぶ事ができたのですから」
「だな。悪りい悪りい」
エスカはグラニィの几帳面な応対に目を細めつつ、そう言っておかしそうに笑いながら謝った。
「あのバカ兄貴は、弟の俺が言うのもナンだが、バカだけどこれが実にマメな性格でな」
エスカはそういうと眼下の湖に浮かぶかつてドライアドの大軍であった哀れな兵達を眺めて肩をすくめてみせた。
「ファランドール中回ってこういう『虐殺場所』をいくつも見つけ出しては事細かに地形図に記載して保管してるんだ。俺はそのうちのいくつかを知っているだけなんだが……」
グラニィは最後を言い淀んだエスカのその言葉に含まれた意味あいをぼんやりと理解した。
「別の誰かが陛下の知らぬその『虐殺場所』とやらを知っている可能性があるということですか?」
エスカはしかしそれには応えなかった。
「まあ、これだけは言える」
そう言って振り返ると、エスカはグラニィに対峙した。
「あのバカ兄貴がその気になれば、こんな戦争なんてあっと言う間に終わらせられるだろうさ」
グラニィはうなずいた。それはエスカに言われなくともわかっていた事だ。考えるまでもない。グラニィはその目で見たのだ。ミリア・ペトルウシュカという男は、とんでもない力の持ち主だった。この世にそんなものは存在しないはずだと思っていた無敵という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。だが結局、それでもグラニィはミリアの敵となることを選び、それを本人の前で宣言したのである。
今から考えると、ミリアはむしろ自分の力を知る「敵」を探し出していたのではないかと思える。少なくともグラニィにはそれを望んでいたに違いないのだ。
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