第七十五話 鍵 1/4

 テンリーゼンは顔の化粧をやめた。

 正確にはあのおぞましい痣状の化粧をやめ、見た目を少し変化させる普通の化粧に変えた。

 一番の変化は仮面を付けなくなった事だ。自分の正体をエイルに明かしたあの時から、テンリーゼンは一人のアルヴィンの娘になった。

 もっとも素顔でいるのはエイル達と一緒の時だけで、周りに他人がいる時には素顔の上にいつもの仮面を付けていた。

 取りあえずは特に問題が無い状態だと言えた。少なくともエイルはそう感じていたが、エルデは全く違った見解を持っていた。


「想定外や。こんな大問題を抱える事になるとはとは思っても見いひんかった」

 エルデはそう言うと、恨めしそうな顔でテンリーゼンを見やった。

 テンリーゼンと言えば、エルデのそんな視線もどこ吹く風、いつもの無表情でエイルの横顔を見上げていた。問題とはもちろんテンリーゼンが無表情であるという事ではない。彼女がしっかりと腕に抱いているものこそが「それ」であった。

 テンリーゼンはある宣言をした後、即座にそれを実行に移した。

 具体的にはエイルの腕をとって抱きしめるようにして歩き出したのだ。

 それはエルデがあっけにとられる程迷いがなく、そして止める暇さえ与えない程の早業であった。さすがは風のフェアリーというべきであろうか。


 テンリーゼンの宣言とは「私はエイルとずっと一緒に居る」というものだ。

「ネスティーの意思って……そっちか? そっちなんか? ちゃうやろ? もっとこう、ネスティはファランドールの将来についてやな……」

 エルデの抗議は完璧に無視された。いや、エルデの存在自体がほとんど無視されているようで、エイルの手を取ったあたりから、テンリーゼンはエイルしか見ないようになっていた。

「ちょっとアンタもアンタや」

「え、オレ?」

「他に誰がおるんや! なにされるままになってんねんっ、この浮気もん!」


 それがテンリーゼンでなかったなら、たとえばエルネスティーネであったなら、エルデは実力行使にでたに違いない。膂力に物を言わせてエイルから引きはがした上で、羽交い締めにするなり縄でぐるぐる巻きにするなりして二度と同じ事ができぬように拘束手段を用いたに違いない。

 だがテンリーゼンにはそれをしなかった。

 口で非難を浴びせはするが、実力行使はしない。

 エイルも同様で、それがエルネスティーネであれば抗議した上で自ら離れようとしたであろう。だが二人ともそれが出来なかったのは、テンリーゼンの行為にはエルネスティーネの行動原理が備わっているようには見えなかったからだ。

 他意は全く無い。ただエイルの側にいる事が目的なのだ。

 そこには男と女の間に生じるある種の感情というものが介在するようには思えなかった。

 二人の感情を的確に表現する言葉を選ぶ事は困難だが、そんなテンリーゼンに対し、エイルもエルデもある種の憐憫の情がこみ上げていたのは間違いないだろう。


 アプリリアージェの話を信じるならば、テンリーゼンは幼少の頃から自我や感情を抑えるような、特殊な訓練を受けていたのだという。理由は簡単だ。自分を守る為にはそれが一番都合が良いからだ。

 だから「ドール」は敵を迷いなく殺す事ができたのだ。一瞬の迷いの積み重ねは命の危険を数百倍、いや数万倍に膨れあがらせる。アプリリアージェ自身も同じような訓練を受けたというが、彼女は自らを「劣等生だった」と言った。対してテンリーゼンは「ほぼ完璧に『望むもの』になっていた」という。

 つまり今のテンリーゼンは、感情が極めて未熟なのだ。

 おそらくは「風のエレメンタル」であろうテンリーゼンは「風精の監視者」の下にあって、もう「ドール」である必要は無くなっている。「その時」が来るまで、監視者であるエルデはテンリーゼンを守り抜くに違いない。それはエイルも同様だ。エルデの仕事ならば自分でできる限りの協力はするつもりであった。マーヤ・タダスノという一人の人間として、そして炎精、炎のエレメンタルとして。

 ミリアによってその封印を解かれたテンリーゼンは、使命ではなく、生まれて初めて自らの意思で歩き出したに違いない。

 アプリリアージェを解放したいという言葉もその一つであろう。なぜならアプリリアージェをただの護衛だと認識しているのならばためらわずに再び呼び戻すはずである。だがテンリーゼンはアプリリアージェを労ったのだ。感情はなくなったのではなく、文字通り封印されていただけなのである。

 感情を顔に連動させる事についてどういう状況にあるのかはわからない。だが表情を見る限りにおいては、今のところ感情によってエルデの腕を抱いているとはどう見ても思えなかったのだ。

 エルネスティーネが望んだ事をやりたいという言葉に嘘はないのだろう。だが今のところそれは上辺をなぞった「形」だけに留まっているという状況なのだ。

 だからそれを無下につぶす事については、エルデも、そしてエイル自身もためらわざるを得なかったのであろう。


 ダーレから教えられたもっとも安全でかつ最短の経路を通った一行は、迷いの森を抜けてウンディーネの東海岸にある比較的大きなエフタイという港町に辿り着いていた。

 もちろん「ネッフル湖の解呪士」に会う為に必要な行動であった。

 セッカに依れば、その人物はツゥレフ島にいるのだという。

 ツゥレフ島は島と呼ばれてはいるが相当に大きな面積を誇る。白の国と呼ばれるエスタリアほどではないが、アプリリアージェに聞いた話では自領であるファルンガ程度の広さがあるのだという。

 言い換えるならばファルンガが相当広いという事にもなるのだが、とにかくツゥレフ島は島の中央部に活火山がいくつもあり、地盤が脆く穴だらけでいわゆる平地がほとんど無い密林地帯である。従って未踏の地が多くを占めるのだ。未踏と呼ぶのが大げさだと言うのであれば、中央部には道はなく、地図に載る集落も存在しないと言い換えよう。

 とにかく彼らはその中へ入り込む必要があった。

 それには何はともあれ海を渡る手段が必要だった。セッカのように鳥になる訳にもいかなかった。そこでセッカの勧めもあってこの戦時下にあってもまず間違いなくツゥレフ島への航路を確保しているというこのエフタイにやってきたのだ。

 エフタイに入りさっそくツゥレフ島の航路を尋ねたエイルは、取りあえずセッカの胸ぐらを掴む事になった。


「聞いてないぞ。軍艦じゃないか」

 航路は確かにあった。

 だがそれはいわゆる客船ではなく、軍船が法外な金を取る、要するに無許可航路であった。戦時下においてもはや許可も何もないと言えばそれまでだが、その航路は辺りに顔が利くドライアド海軍の将校が、「補給物資の確保」という名目で私服を肥やすための私設航路とでも呼ぶべきものだった。

「どちらにしろ最短でいくにはこの航路しかないよ。だから仕方ないだろ」

 セッカは悪びれずにそう言った。

 確かにセッカの言うとおりであったのだが、怒りが収まらないエルデの命令によってセッカはその特性、つまり形態模写の力を禁じられた。期限はない。エルデが許すまでという、要するに無期限である。

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