第六十九話 アリキヌ・ミステル 1/4

「早く、毒薬の名前を言え」

 エイルの怒鳴り声で、ハーモニーは数瞬の自失から覚醒した。

 だがどうにも感情だけでなく理性すらも機能不全を起こしているようで、視覚から事態を把握したつもりになってはいるものの、自分がそれにどう対処すべきかを導き出せないまま、エイルの言葉が唯一の逃げ道であるかのように、ハーモニーは自分に向けられたその強い命令に素直に従った。

「エルート……」


「エルデ!」

 調合した毒薬の名称がハーモニーの口から告げられたのを受け、エイルは希代のハイレーンの名を呼んだ。

「まかしとき!」

 フィンマルケンのそばに両膝を付いて喉と胸に手を当てていたエルデは、そう言ってエイルにしっかりとうなずいてみせた。それはエイルがよく知っている、自信に満ち表情であった。


「スクルド!」

 常態の精杖ノルンではなく、エルデは直接白い精杖を呼び出すと、その頭頂部を躊躇なくフィンマルケンの鳩尾あたりに押し当て、少し長めのルーンを唱え始めた。

「セヴァートゥーリュ・エイントリーグダーシャ・ユルドザグドダードマータ」

 エイルには未知の詠唱文であった。だがそれが解毒作用を持つルーンであろうという推測はついた。

 異変に気付いて駆けつけたエルデは、フィンマルケンの様子を一目見てそれが毒に依るものだと判断した。何もしようとしないエルデを不審に思ったエイルに、解毒ルーンを用いるには毒薬の成分が必要だと説明し、その後はじっと体の各機能の監視に努めていた。

 おそらくいよいよとなったなら、背に腹はかえられず何らかの処置は執っていただろう。だが、間に合ったのだ。

 エイルはエルデの自信に満ちた表情でその事を確信した。


 二人で庭に出ていたエイルとエルデだが、ハーモニーの家に近づく第三者の気配を察して自室に戻ったところで、フィンマルケンのうなり声を聞いて駆けつけていたのである。

 決して大きな声ではなかった。さらに言えば倒れた音も衝撃もたいした事は無かった。その証拠にエイルにはそのどちらも聞こえてはいなかった。

 聴力が一般的な人の常識を遙かに超えたエルデだからこそ気付いた異変だと言えるだろう。

 即効性の毒薬のようで、倒れておそらく一分もたたずに脈を診たエルデが首を振るほど、つまりはフィンマルケンはほぼ即死であった。

 だがエルデは即座に「助かる」とエイルに告げた。数分の間であれば、毒薬に依る心肺停止は解毒と蘇生ルーンによって回避できる可能性が高いのだという。

 問題は毒薬の成分で、それがわかればエルデの能力であればほぼ完璧に、それがわからない場合は一か八かの賭けになると言ったエルデは、それ以上の説明や憶測を一切エイルには告げず、食卓の横に置かれた薬瓶に視線を投じた。

 エイルはエルデの仕草で、だいたいの状況を把握した。毒薬を作ったのはハーモニーで間違いはないだろう。

 ハーモニーが逃げたのでない事は来客に応対している気配でわかる。

 まさかフィンマルケンに毒を盛った後、平気で世間話に興じるとは思えなかった。なによりエイルとエルデが居るのがわかっていたら、そんな間抜けな事をするわけがない。

 つまりフィンマルケンの誤飲による事故であろう事はわかった。

 だが食卓に毒薬の薬瓶が、それも蓋を開けたまま置かれている事はどう考えてもおかしい。フライパンの側……まるでその瓶は調味料のような位置に置かれていたのだ。

 エイルが火口から遠ざけた為に焦げる事を免れたベーコンは、既にカリカリになっていたが、そのベーコンを焼く際に振りかけられた可能性が高い事を薬瓶の位置は示していた。

 そしてフィンマルケンはおそらく薬瓶の中の調味料ではなく、ベーコンをつまみ食いしたのであろう事も推測ができた。

 あとはもう状況証拠をもとにした推理である。

 エイルは既に出来上がっている二人分の皿と、まだベーコンが配分されていない空の皿が本来の対象者を雄弁に物語っていると考えた。いや、それ以外に考えが及ばなかった。

 ハーモニー・エッシェという女は、エイルとエルデを毒殺しようとしていたのだ。

 カネ……すなわち金貨を狙ったとは考えにくい。

 いや、一枚二枚でなく、身ぐるみを剥げば相当の枚数を持っているのかもしれないと考え、それを全て欲しかったのかもしれない。

 あるいは賢者に恨みがあったのかもしれない。エイル達の知らぬところで、賢者がハーモニーの肉親、あるいは掛け替えのない存在を消し去ったことがあったのだろうか?

 エイルの脳裏に、一瞬ラウとカノナールが向かい合ったあの場面が浮かんだ。あれは不幸が招いた対面であったが、今考えると幸せな結末だったのだろう。エイルが知らないだけで、実はファランドールにはカノナールは大勢存在している可能性がある。

 もちろんそれは可能性で、ハーモニーがカノナールであるかどうはまではわからない。

 確かなのは、迷いの森の住民にはエイルが想像もできない暗い「何か」があるのだろうという推測だけであった。

 事態は一刻を争うという事を理解したエイルは、ハーモニーを呼びに行こうとした、まさにその時、件のハーモニーが「現場」に現れたのである。


 エルデの詠唱が終わると、まるで雲が湧き出すようにその場に羽毛のようなものが突然発生した。

 エイルにとっては何度か見た光景であるが、ハーモニーにとってそれはまさに「奇跡」の現場であった。

 あたりの空気が一瞬で穏やかな気配に覆われたかと思うと、羽毛はゆっくりと円を描きながら収束し、フィンマルケンの鳩尾に当てられた精杖スクルドの頭頂部に向かって渦を巻いた。

 頭頂部にはめ込まれている無数のスフィアが輝くと、やがてそれが流れ出すようにしてフィンマルケンの体を覆った。


「エルート」

 続いて短いルーンが唱えられると、今度はエルデの周りに光の帯が出現し、高速に回転し始めた。

「ちょっと離れて」

 これはルーンではなく、平文だ。いや、エイルに向けた「指示」であった。

 エイルは何も言わず、呆然としたままのハーモニーの手を取り、フィンマルケンとの間に距離をあけた。

「何が始まるというの?」

 未だにピクリとも動かないフィンマルケンの姿を凝視したままで、ハーモニーがエイルに尋ねた。

「大丈夫だ。エルデに任せておけばいい。オレ達はあいつの邪魔をしないように見守っていればいいんだ」

 その言葉が合図であったかのように、エルデは精杖を持ち上げると、今度はその頭頂部をフィンマルケンの胸に当てた。

「トニトルーア!」

 唱えたのは治癒ではなく、稲妻を呼ぶルーンだった。それは極々小さな光を、頭頂部とフィンマルケンの体の間に出現させた。フィンマルケンの体はまさにその雷に打たれて大きく跳ねた。

 その直後、咳き込む声がしたかと思うと、それまで全く反応を示さなかったフィンマルケンが上体を起こした。

「フィン!」

 エイルやエルデが声をかけるよりも早く、ハーモニーがフィンマルケンに向かって突進していた。

 それまでのハーモニーとは別人のようにフィンマルケンの名前を呼び、そして泣き出した。

 事態が把握できていないフィンマルケンはエイルとエルデを見上げていたが、答えが何も得られないようだと悟ると自分の胸にすがって泣き続けるハーモニーの肩をそっと抱いた。

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