第六十九話 アリキヌ・ミステル 2/4
ハーモニー・エッシェ。賢者名【秘色の鞦韆(ひそくのしゅうせん)】は、床に額をこすりつけるようにしてエルデにひれ伏していた。
フィンマルケンの命を救ってくれた事に礼を述べ、そしてこの場で自分に罰を与えて欲しいと請うた。
「釈明はいたしません。私はあなた方を亡きものにしようと企図し、毒薬を使いました」
訳がわからないのはフィンマルケンである。ベーコンをつまみ食いしたと思ったら一瞬で意識が失せ、気がつけば今度は子供のように大泣きしているハーモニーに抱きつかれていたのだから。
ただ、彼が感じた違和感が気のせいなどではなく、悪い方向で当たっていたのだという事は感じていた。少なくともエルデとエイルは、ハーモニーにとっては毒薬を使ってまで命を奪おうとする相手なのだという事を知ったのだ。
「私は正教会から追われる身だ」
ハーモニーの説明は極めて簡単なものだった。
「見つかったら間違いなく始末される。だから殺される前に殺してしまおうと思った……それだけ」
もちろんそんな説明でフィンマルケンが納得するわけがない。彼は訳がわからないままにハーモニーの隣にひざまずくと、エルデに向かって同じように頭を下げた。
「俺にはよくわからんが、エッシェさん……いやハーモニーを助けてやって下さい。彼女の作る薬と病気に関する知識は、医者がほとんどいないこの森じゃあ、本当に役に立ってるんです。何をしでかしたのかは知りませんが、彼女が助けた命の数で、罪は償われているんじゃないですか? もしだめだというのなら俺は……」
「ああもう、鬱陶しい。取りあえず黙れ、髭面」
エルデはハーモニーが頭を下げた時から困惑した表情だったが、フィンマルケンがそれに続くと、今度は極めて不愉快そうな表情に変わった。
「なんやウチがハーモニーを罰する前提で話が進んでるようやけど、何でウチがそんなことせなあかんねん?」
「え?」
エルデの言葉を受け、フィンマルケンは思わず顔を上げた。ハーモニーはしかし、伏せたままだった。
「ベーコンを喉に詰まらせて悶絶してる髭男を偶々見つけた史上最高位のハイレーン……あ、言うとくけどウチの事やで? そのとんでも能力をもてあましてた超奇特なルーナーであるところのウチが、まあちょっとした親切心から小指を曲げる程度の力でちょちょっと助けただけやのに、そこのハーモニーはウチの神業のような力を目の当たりにして感動のあまり我を忘れて混乱中。それだけやろ?」
「は?」
フィンマルケンは少し離れて様子を見守っているエイルに顔を向けた。
「何言っているんですか、あんたのカミさんは?」とでも言いたそうな表情に、エイルは思わず頭を掻いた。
「まあ、何というか、オレもエルデの言うとおりだと思うよ」
「これにて一件落着!」
続いてそう叫んだエルデに、フィンマルケンはすがった。
「いやいやいや、ちょっと待って」
「なんやなんや、鬱陶しい。髭面に迫られると三倍くらい鬱陶しいねんで」
「嫌なら髭なんか剃ってもいいから、いったいどうなっているのかわかるようにちゃんと説明してくれよ」
「面倒やから嫌や」
「そんな」
ふくれっ面をしてそっぽを向くエルデに、フィンマルケンがなおも食い下がろうとしたその時、それまで沈黙を守っていたハーモニーが顔を上げた。
「もう覚悟はできています。上席さま」
一同の視線が声の主であるハーモニーに集まる。
「あの日から……私はずっと怯えて生きてきました。いつ追っ手に見つかるんだろうという不安が頭から離れた事はありません。家でも、寝室に結界を張っています。それでも……眠っている時でさえ、暗い恐怖は私を休めてはくれません。もう、ほとほと疲れました。だから、もういいんです。フィンを……この人を助けて下さって感謝します」
ハーモニーの言葉にエルデは顔を曇らせたが、何も言わなかった。そして寂しそうな視線をチラリとエイルに送り、若い夫のうなずきを受けてすぐにフィンマルケンにその端正すぎる顔を向けた。
「フィンマルケン・ノール」
フィンマルケンの名を呼ぶエルデの声は、どこか芝居がかったような抑揚で、声も今までより大きく響いた。
呼びかけられたフィンマルケンは返事の代わりにエルデの顔をじっと見つめた。
「お前はどうだ? この女がなぜ余の前でひれ伏しているか、その理由が知りたくはないか?」
エルデの言葉に、ハーモニーが即座に反応した。床に押しつけていた顔を上げ、エルデを見た。
その懇願するような表情を一瞥しただけで、エルデは再びフィンマルケンに顔を向けた。
「いや、それは……」
フィンマルケンにとっては今回の一連の騒動は寝耳に水どころか、青天の霹靂のようなものだったのだ。何が起こっているのかわからないうちに、いつの間にか居間が評定の場所になっていて、その矢面に立って、いやひざまずいているのは何度も求婚した相手ときている。
森の住人にはそれぞれ事情がある。人に言えない過去を持つ者など掃いて捨てるほどいる。しかしフィンマルケン・ノールが知るハーモニー・エッシェという女はそんな暗い過去とは無縁なのではないかと思いかけてもいた。
フィンマルケンが知る限り、ハーモニー・エッシェは幼い頃からこの家にずっと祖母と暮らしていた善良な女なのだ。
そう聞いていた。
ハーモニーは少女と呼ばれる頃になると持ち前の向学心を押さえられず、薬草の勉強の為に一度森の外に出た事はあるそうだ。しかし祖母の他界を機に再び森の住人となり、その後はずっとこの集落の端にある生家で、単身で暮らしている。
何かがあったとすれば森の外で暮らしていた数年の間の出来事という事になる。
ウンディーネ連邦のヴォール近郊にある農家に親類がいて、そこで畑仕事の手伝いをしながら月に数日間、ヴォールの教会が主宰する学校で学んでいた……。
いったいその間に何があったのだろう?
それがフィンマルケンの知るハーモニーの生い立ちであった。
フィンマルケンが「迷いの森」を仕事場とする運び屋になった時には、既にハーモニーはこの家で一人暮らしをしていた。もう五年ほど前の話である。
自分の事をあまり語りたがらないハーモニーの過去について、彼は主に同じ集落の住民達から情報を得ていた。
知り得た情報をハーモニー本人から確認し、不承不承認めたものを事実として認識していたのである。
「お前は黙っていろ、ハーモニー・エッシェ。いや、アリキヌ・ミステルと呼んだ方がいいか?」
冷たい視線でハーモニーを見下ろしながら、エルデはハーモニーにフィンマルケンにとって未知の名前で呼びかけた。
「間違いないな?」
観念したかのように目を伏せたハーモニーは、小さく「はい」と答えた。
「運び屋フィンマルケン・ノールよ」
エルデは再びフィンマルケンに呼びかけた。
「この女の処遇についてはお前の意見を聞こう。何しろ今回の一件はお前が被害者なのだからな」
「ええ?」
フィンマルケンは、とにかくこの場がただならぬ状況下にあるという認識だけは持っていた。だがいきなり自分がこのよくわからない舞台の中心に据え付けられるとは思っても見なかっただけに、返答に窮した。
「だが、それにはまずお前自身がこの女の正体を知る必要がある」
フィンマルケンはハーモニーをみやった。そこにで正座しているのは彼が知る器量のいい村の女、いつものハーモニー・エッシェではなく、彼の目にはまるで修行を長年積んできた尼僧のように映った。隙の無い美しい姿で正座するハーモニーは、どこか透明感のある近寄りがたい雰囲気を纏っていたのだ。
「大丈夫だよ、フィンマルケンさん。エルデはあんたを取って食ったりしないさ」
知らず知らずに緊張で体全体が強ばっていたのだろう。フィンマルケンはエイルの普段着のような調子の声を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「一応言っておくが」
敢えて古語ではなく南方語を使い尊大な物言いを続けるエルデだったが、そのせっかくの威厳を台無しにしかねない横槍の主、すなわちエイルに対し不満げな眼差しを注いだ。だがそれも一瞬で、すぐにフィンマルケンに視線を戻した。
「どちらにしろお前はもう、『関わってしまった』のだ。全てを放棄して逃げ出すという選択肢を余は与えぬ」
「それはどういう?」
「どういう意味か、だと?」
フィンマルケンの問いかけにエルデは目を見開くと、眉を大きく持ち上げて質問の主を睨んだ。
「逃げ出したら命はないと思え、という事に決まっている」
「賢者には国際法でそう言う権利が与えられているんだよ。あなただって知っているはずだろ、賢者法」
エイルが補足した。
もちろん賢者法には「そんな」記述はない。だが賢者法の一言一句をフィンマルケンが知っている訳はないという前提でエイルは脅しをかけたのだ。
そしてフィンマルケンはエイルの思惑通りになった。自分にはもはや選択肢がない事を観念したように頭を垂れた。
「わかりました」
不満はある。だがその不満を口にしようものなら、あの目で睨まれ、それ以上何も言えなくなるであろう事も認識していた。
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