第六十八話 秘色の鞦韆(ひそくのしゅうせん) 4/4
無表情を決め込んでいたフィンマルケンの眉間に一瞬だけ皺が生じたのを、同じようにその挙動を密かに観察していたハーモニーは見逃さなかった。
「ああ、これ?」
フィンマルケンの視線を辿るようにして薬瓶を取り上げたハーモニーは、にっこりと笑ってその瓶にスプーンを突っ込み、内容物である黒っぽい粉を少量取りだした。
「香草を使ってベーコン用に調合した調味料よ。丁度いい機会から試してみようと思って」
そう言うとハーモニーは人差し指をぺろっとなめると、スプーンで取りだした黒っぽい粉末にその指を付けてまぶすようにしてそれをそのまま口の中に入れた。
「うん、いい感じ。ちょっと自信作なんだ」
そう言って微笑むハーモニーの笑顔が、第三の違和感をフィンマルケンにもたらした。
「あんたもなめてみる? もっとも粉末単体だとたいした味はしないんだけどね」
「いや」
曖昧な笑顔を浮かべるとフィンマルケンは味見を辞退した。
「だったらもう邪魔だからこれを持って向こうへ行ってて」
ハーモニーはそう言ってパンが盛られたバスケットを顎で示した。
「もうすぐにできるから、これをテーブルに置いたら顔でも洗って待っててちょうだい」
フィンマルケンは違和感の元の詮索をいったん打ち切る事にした。居座る事に対するハーモニーの拒否反応が相当に強いと感じたのがその理由であった。好感度が下がるような事は避けるのがフィンマルケンの立場としては違和感の種を追求するよりも上位にある選択肢であった。
「へいへい。ところであの綺麗なお姉ちゃんたちは?」
エルデはエイルを起こして顔を洗いに行っているはずであった。
「ベーコンはお客さまのたっての要望でね。いくらでも払うから食べさせろって言われちゃったのよ」
「なるほど」
フィンマルケンはうなずいて見せた。
「ああ見えて、あいつら相当な金持ちだもんなあ」
「気前も良さそうだしね。なんならフィン、あんたも運賃を吹っかけてやったら?」
「おお、そいつはいいいな。エスタリア大判金貨なんて普通じゃ一生手にできないかもしれないようなシロモノだしな」
「あれを二、三枚もらったら、もう運び屋なんてやくざな商売から足を洗えるんじゃない?」
「いやあ……」
フィンマルケンは顎をポリポリと掻きながら、気のなさそうな返事をした。
「確かにあの金貨は魅力的だが、俺は金が欲しくて運び屋をやってるわけじゃないからなあ」
ハーモニーはそれには答えなかった。フィンマルケンが運び屋をやっている理由を知っているからだ。そしてその理由こそがフィンマルケンを「信じる」彼女なりの理由でもあった。
そこに、ハーモニーを呼ぶ未知の声がした。
おそらく玄関からの声であろう。
「エマリアばあちゃんだわ」
ハーモニーはそれだけ言うと脱兎のごとく声のする方へ駆けだした。
「おやおや、血相変えてどうしたんだい?」
玄関前には文字通り老婆が一人佇んでいた。
エマリアばあちゃんはハーモニーの顔を見るとにっこり笑ってバスケットを差し出した。
それを見たハーモニーは自分の迂闊さに唇を噛んだ。
「あ、そうか。今日だったね、あははは」
ハーモニーは力なく笑うと、差し出されたバスケットを受け取った。
バスケットの中には卵が十数個入っていた。先週注文していたもので、受け取りが今朝である事を思い出したのだ。
「おや、いい匂いだねえ、ベーコンかい?」
「ええ、まあ」
「迷惑でなければ私もご相伴にあずかりたいところだねえ」
エマリアばあちゃんがそう言ってにっこり微笑むのを、ハーモニーは複雑な笑いで返した。
「と言いたいところだが、私もまあ、そこまで無粋でもないから安心おし」
わざわざ視線を外し、それを玄関横の馬車に注ぐと、エマリアばあちゃんはニヤニヤと笑って踵を返した。
「今日は確かこれから仕事だっけ?」
後ろ姿で尋ねるエマリアばあちゃんに、ハーモニーはほっと胸をなで下ろしながらうなずいた。
「ええ。ラスティームで婚儀らしいわ」
「ふーん」
自分で話題を振ったにもかかわらず、そのこと自体にはさほど興味がなさそうにそう言うと、エマリアばあちゃんはゆっくりと振り返った。
「いつまでも人の婚儀の手伝いばかりしてないで、次はあんた自身が祝ってもらっちゃどうなんだい?」
「え?」
虚を突かれたようにハーモニーの表情が固まった。そして数秒後にはその意味を理解し、無意識にほほが上気するのを自覚して、思わずうつむいた。
「何訳のわかんない事言ってるのよ、だいたい私は」
「私はお似合いだと思うがね」
ハーモニーの言い訳を無視して、エマリアばあちゃんは続けた。
「訳ありばかりのこの森の住人の中じゃ、あんたはどうにも善人すぎる。ついでに言えば、そんなあんたに惚れているあのひげもじゃの運び屋からも悪人の匂いがしない。だからあんたらは早く結ばれて、森の外で暮らすべきじゃないのかね」
「エマリアばあちゃん……」
「おっと、新婚家庭に長居は禁物、と。おっほっほっほ」
年の頃は八十歳を超えているくらいであろうか。しかしその歩みはかくしゃくとしていて見る者に不安を感じさせぬ力強さがあった。
ハーモニーは小さくため息をついて小さな背中が集落の中心部に続く小道を曲がるのを見届けると、思い出したかのように家の中に駆け戻った。
そしてそこで自らがしでかした計画の末路を目の当たりにする事になった。
調理台の前でフィンマルケンが倒れていた。
床に散乱したパンを見れば、あの直後にその状態に陥ったことがわかる。
そしてその脇に二人の人物がいた。瞳髪黒色の来訪者。賢者エルデとその夫と名乗る剣士エイル。
状況を把握できないまま、ハーモニーは立ち尽くした。
だが放心状態は長くは続かなかった。エイルの声が耳に突き刺さったからだ。
「何の毒を使ったんだ?」
その声に反応したのは意識ではなく、無意識であった。体がビクンと痙攣するような動きを示したのだ。
「え?」
エイルの質問の意味を理解するよりも先に「毒」という単語に体が反応したのだ。
「お前の毒で、フィンは死んだんだぞ?」
「フィンが……死んだ? なんで?」
「それはこっちのセリフだ。いや……質問を変える。なぜオレ達を殺そうとしたんだ?」
(ああ、そうか)
麻痺していた意識が覚醒し、ハーモニーは状況を把握した。
フィンマルケンは食べたのだ。
皿に移す前の、フライパンの中のベーコンをつまみ食いでもしたのだろう。そう言えば味見にはおあつらえ向きの小さな欠片があったのを思い出した。
そう、そのフライパンの中にあったベーコンはエイルとエルデに供する予定のベーコンだった。
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