第六十八話 秘色の鞦韆(ひそくのしゅうせん) 1/4
ハーモニーは何食わぬ顔で居間に入った。
果たしてそこには瞳髪黒色の娘がいた。気配の元はやはりエルデだったのだ。
ただしハーモニーの予想とは違い、エルデに意識はなかった。
薬草棚の前に座り込んで、何やら調べ物でもしていたのだろう。十個以上もの瓶が床の上に置かれている。エルデはそれらの瓶を前にして、座り込んだまま眠りに落ちたようだった。
ハーモニーが用意した寝間着を纏った瞳髪黒色の少女が眠っていることは明白だった。床に崩れ落ちてはいたが、それは眠りであって昨日のような仮死状態ではない。なぜなら頬には生の証しであるかのように薄い朱が差しているし、微かな寝息が聞こえた。そして決定的なのは胸が上下に動いている事だ。息をして、寝息を立てて、体温がある。
「おやおや。完全に眠ってるね」
ハーモニーは大きな安堵のため息をつくと、無意識に腰に手を当てて、美しい娘が織り成す一幅の絵のような光景を見下ろしていた。
エルデが着ている質素な寝間着はハーモニーのものだ。そもそも来客などを想定した暮らしをしているわけではないから、体裁のいい上等で美しい寝間着などあろうはずもない。何の飾りも色気もない、ただの生成り木綿の寝間着である。
だがどんなに質素であろうが、着る者が着れば、それは天上人の羽織る衣にも見えるのだという事をハーモニーは初めて知った。現に目の前に長い黒髪の海に浮かぶようにして横たわるエルデ・ヴァイスという娘は、宝石の精霊とでも呼びたくなるほどに触れがたい神々しさに溢れていた。ハーモニーの木綿の寝間着が、金貨を山と積んでも手に入らぬ特別な衣装だと言われればそうなのだろうと素直に信じるだろう。
それはほんの数秒の事であったに違いない。エルデに見とれていたハーモニーは、エルデのそばにある異質な「モノ」に気付いて覚醒した。
その物体は、生成りの寝間着の間から突然飛び出してきた。
「わあっ」
思わぬ出来事に叫び声を上げたハーモニーは尻餅をつくように倒れ込んだ。
「それ」は生き物だった。真っ黒な……
「猫?」
エルデのそばに立つ「それ」は紛う方無き黒猫であった。ハーモニーは物体の正体を認識した事で記憶を辿る余裕が生まれた。
そう。それはエルデとエイルが連れていた飼い猫だった。
全身ほぼ真っ黒だが、胸の辺りに三日月型の白い毛がある特徴的な猫だ。目の色も左右で違う。
その黒猫はハーモニーを見上げて小さく一声泣くと、足元にすり寄ってきた。
「お、脅かさないでよ」
喉をゴロゴロと鳴らしながら足元に頭をすりつける黒猫を見て、ハーモニーは思わずその頭を撫でた。
その時、背後で声がした。
「不用意やな」
「え?」
振り返る視線の先にはいつのまにか目を覚ましたエルデが上体を起こしてこちらを向いていた。
「不用意?」
エルデの言葉の意味を計りかねたハーモニーは同じ言葉を返した。
「その猫が化け猫やったらどないすんの?」
「は?」
ハーモニーは反射的に黒猫から手を離した。だが当の黒猫は不思議そうな顔でハーモニーを見上げると小さく「ミャア」と鳴いただけであった。
「おどかさないでよ」
ハーモニーの抗議にエルデは何も答えず、ただ意味ありげな笑みを浮かべて見せた。そしてその話題はそれで終わりとばかりに、床に並べた薬草瓶の一つを取り上げると、そこに貼られた茶色い紙を指でなぞるようにして読み上げた。
紙には瓶の内容物の説明と、元になる薬草を採取した日付、天候、場所などが小さな文字で細かく丁寧に記されていた。
乾燥方法や乾燥に要した時間、瓶詰めを行った日付なども当然のように記載されている。そしてエルデの指はその記載事項の最後にある意味不明の文字と数字の羅列の部分で止まった。
そして先ほどと全く同じ言葉をつぶやいた。
「不用意やな」
「不用意?」
いきおいハーモニーも全く同じようにオウム返しに尋ねる。尋ねた後で自分がさっきと同じ事をやっている事実に気付き、バツが悪そうに小さく咳払いをした。
「何の事?」
エルデは質問には答えず、手にした瓶をハーモニーの眼前に突き出した。内容書きの紙片がよく見えるように。
「それが何?」
「そうか。気付いてへんのやな。無意識っちゅうのはおそろしいな」
エルデは目を細めると、その視線を床に置かれた薬草瓶に移した。
「ここに並べられた薬草瓶の内容書きをみたらわかる。あんたはすごい真面目で几帳面な性格なんやろな。真面目すぎて、理不尽を容認でけへんような、そんな几帳面さや。でも、それが徒になった……几帳面過ぎて失敗した。そして本人はそれにまったく気付いてへん」
独り言のようにそう言って、エルデは床に置かれた瓶をもう一つ取り上げた。
「ここに取りだしたんは、希少な薬草ばっかりや。それも毒性があって、使い方を誤ると危険きわまりないシロモノ揃いや」
ハーモニーはエルデの言葉を受け、改めて床に並べられている自らが作り置いた薬草瓶に目をやった。エルデの言うとおり、希少な毒草ばかりが並べられていた。内容書きを詳しく見なくてもハーモニーにはすぐにわかる。なぜなら内容書きの最後に「それ」を示す暗号を記載してあるからだ。
そう、暗号を。
「あ……」
思わず出た小さな叫び声を両手で封じると、ハーモニーは弾かれるように立ち上がった。エルデが言った言葉の意味を理解したからだ。
だがそんなハーモニーの態度には全く反応せず、エルデは何かを小さくつぶやいた。その瞬間、エルデの体を中心にして、光る帯が現れた。ハーモニーはそれが精霊陣であることを直感的に理解したが、もちろんそんな特殊な精霊陣を見るのは初めてであった。
息を呑むハーモニーを尻目にエルデは悠然とした動作で右手を伸ばして、瓶に貼られた但し書きのその記号が書かれた部分を細い指先でなぞった。指先から光が放たれたように見えたが、それは文字が光ったものだった。触れられた文字は輝いて、そして消えた。
エルデは暗号のような文字と数字の羅列の部分だけを綺麗さっぱり消して見せたのだ。ハーモニーが目を懲らしてもそこにはもはや文字が書かれていた痕跡は見つけられなかった。
エルデは同じ作業を瓶の数だけ繰り返した。全ての暗号が消されると、その仕上がり具合を吟味し、満足そうに「よし」とつぶやいた。
「私は……」
ハーモニーは後ろ姿のエルデに声をかけた。だが、言葉半ばでそれはエルデに遮られた。
「賢者会分類図録の識別型番を知ってるヤツが世間にどれだけおるんかウチは知らん。ヴェリタスの蔵書室には足を踏み入れた事はないんやけど、ウチはたまたま写しを持ってたさかい、知ってたけどな」
背を向けたままそれだけ言うと、エルデは薬草瓶を全て棚の元の位置に戻した。
「ウチが見たところ、型番が書かれてたのは今ので全部やった。そやからこれで証拠隠滅は完璧っちゅうところやな」
エルデの言葉に、ハーモニーは答えなかった。
答えられなかったのだ。
怖れていたことが現実のものとなってしまっていた。そしてそれを受け入れるだけの冷静さをハーモニーはまだ持てなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます